2013年12月13日金曜日

社会科学の裸の王様・経済学 11 時間のない不思議な仮想空間

 主流派のミクロ経済学に関する教科書を読んでいると、奇妙な事柄に頻繁に出会います。私は経済学部に入学した直後にすぐ、そうした奇妙な事柄に遭遇してしまい、大いなる違和感を感じました。ジョウン・ロビンソン氏は、「経済学者に騙されないようにするために経済学を始めた」と言っていますが、大げさに言えば私もそうです。
 どこがおかしいのでしょうか? 
 本ブログでは、これまでもおかしな事柄を取り上げてきましたが、ここでは「代替」と時間について検討することにします。
 代替というのは、例えば「労働」と「資本」とが一定の比率で取り替え可能だというようなことです。既にここでまともな人ならば、「労働」のほうはともかくとして、「資本」という言葉で教科書が何を表現しようとしているのか、戸惑います。
 <資本というのは、資金(お金・貨幣)のことだろうか? いや、労働と取り替え可能というのだから、ここで述べているのは物的な実物資本のことに違いない。すると、機械・道具や設備(資本装備、固定資本ストック)のことだろうか? いやそれだけではなく、原材料・エネルギーも含まれているようだ。しかし、それらは資本だろうか?> 
 現実的に考えると、こんなところでしょうか。しかしまだまだ疑問は続きます。
 <ところで、代替というのは、生産に投入される労働量(資本量)を減らしても資本量(労働量)を増やせば、同じ結果(産出量)が得られるということのようだ。しかし、そんなことは本当にありうるのだろうか? 例えば自家用車を生産するとき、労働量を増やしても、機械や原材料(鉄板など)を減らすことはできるのだろうか? わずかな代替率はあるとしても、労働量と資本量の比率は、その時に支配的な技術的な条件によっておおよそ決まっているのではないだろうか? また資本といっても生産物の内容によって資本装備の具体的内容も決まるのが現実の姿だが、教科書では、資本は質的に一様で量的にのみ異なるとされている。資本ではないけれど、風邪薬を飲んでも腹痛に効果がないのと同じように、資本も融通無碍に変化しえる量ではないのではないか? それにもしそうだとしたらそれはどんな単位で計測されるのだろうか?>
 
 ここまで考えて、さらにここで教科書には時間がないことにも気づきます。
 <普通(現代の若者なら、基本、でしょうか)、ものが変化するときは、現実の時間の中で変化するというのが物理学でも勉強した基礎だけど、ここには時間がないようだ。それでよいのだろうか? 変化が非常に短期の時間経過とともに生じ、前提条件があまり変化しないならば、許されるのかもしれない。でも、資本(実物)を労働で代替する場合、いったん行った投資(資金)を回収しなければならないけど、現実の経済では無傷ではできないよね。例えば10億円で1台の機械を購入したあと、投資の半額だけとりやめて5億円だけ回収し、5億円分の労働で代替しようとしても、そもそも無理。なぜならば機械を分割することもできないし、時間ももとに戻せないから。(後で知ったけど、これを埋没費用というらしい。)>

 さて、このように教科書の「理論」(といえるような代物ではありませんが)では、資本も労働もそれぞれ質的に同一で(!?)で量的にのみ異なる(!?)と仮定されています。また時間は可逆的であり、そこで埋没費用など無視できると仮定されています。しかし教科書はそうでも、現実はそうではありません。したがって、教科書に書かれていることを現実に当てはめることがそもそも無理だということは明白です。教科書を書いたひとは、その内容は現実に存在しない仮想空間にしかあてはまらないと認めるべきです。しかし、彼らは現実の世界をその仮想空間の中に無理矢理押し込めようと試みるという愚をおかします。正しいのは理論であり、現実ではない、というかのように。ゲーテのファウスト博士も真っ青になることでしょう。何故かって? ファウストは次のように言います。

 「理論は灰色(blau)であり、生き生きとしている(lebendig)のは現実なのだよ。」

ブラック企業を拡大させる「首切り特区」に反対する

 安倍内閣によって「首切り特区」の構想が打ち出されました。
 『週間朝日』でさえ、「首切り特区でブラック企業の合法化の恐怖」(10月26日号)とその問題性を取り上げています。
 そのような「特区」を作って喜ぶ人がいるのでしょうか? また社会全体がよくなるというのでしょうか? これこそナオミ・クライン著『ショック・ドクトリン』(上・下)が暴露した惨事便乗型資本主義の典型に他なりません。
 もちろん例によって<自由に解雇可能だから、企業が安心して労働者を雇用できる>、と例によって適当な(デタラメな)ことを言う御用学者は山ほどいます。
 しかし、そんなことがあるはずがありません。
 まず企業は、自由に解雇できるならと、首切りをちらつかせて労働者に違法就労を強制するでしょう。「君の代わりに働きたい人はいくらでもいるんだよ。」この決まり文句の前に弱い立場の従業員は、違法な長時間労働を強要されるでしょう。そのような時に労働者が取れる自衛手段(実際は自衛手段になりませんが)は貯蓄を増やそうとして、消費を削ることだけです。しかし、そのような消費を削る行為は社会全体で行われると総需要を縮小させ景気後退を招きます。そして、結果として失業はますます拡大するでしょう。それは企業にとってさえも景気の停滞や後退というまずい結果を導きます。これが「合成の誤謬」と名づけられているものです。
 要するに、「首切り特区」は、労働条件を悪化させるだけでなく、失業を拡大し、社会全体を不安定化させるトンデモ政策に他なりません。

 かつてジョン・K・ガルブレイスという米国の経済学者が次のような趣旨のことを述べたことがあります。<ジョン・M・ケインズなどの良心的経済学者によって労働保護立法の意義が明らかにされ、資本主義はより安定的な方向に向かって来ていた。ところが、経済学者の中にも、経営者の中にも、政治家の中にも、それを破壊し社会を不安定化しようとする人々がいる。それはどうしてなのだろうか>、と。
 
 その答えは、ガルブレイス自身が与えており、また本ブログでもカレツキの政治経済学やOECD諸国の経済動向の解説を用いて説明しました。要するに、現代の企業家経済の社会では、失業率が低下し、労働生産性に応じて実質賃金が上昇したり社会が安定化することを心良く思っていない人々がいる、という否定しがたい事実があります。近年(といっても米英で現れたサッチャー、レーガンが現れた1980年頃から30年ほどですが)の傾向を見ているとこの事実は否定しがたいほど明瞭です。戦後しばらく眠っていた「マルクス問題」(大企業の巨大な権力の前に労働者が貧困化してゆくという問題)がいま再現しつつあります。

2013年12月12日木曜日

社会科学の裸の王様・経済学 10 ケインズ主義って何?

 ジョン・M・ケインズが20世紀の偉大な経済学者であったことは言うまでもありません。しかし、しばしば「ケインズ主義」や「ケインズ政策」なるものが批判の俎上に載せられることがあります。これらは一体何なのでしょうか?
 そもそもケインズの名前のついた呼称はたくさんあります。上の他にも、「ケインズの経済学」、「ケインズ経済学」、「ポスト・ケインズ派」、「新ケインズ派」(ニューケインジアン)など様々です。これらはどのように使い分けられているのでしょうか?
 まずケインズ主義。昔、あるときカール・マルクスが「私はマルクス主義者ではない」と言ったという逸話は有名ですが、ケインズにも同様な話があります。あるとき彼は「私はケインズ主義者ではない」と言いました。一般的に言って、ある思想家の思想を別の人々が本人の思想とは別様に解釈するということは大いにありうることです。その意味で、「ケインズ主義」(Keynesianism)などという言葉は、無意味な言葉と言ってもよいでしょう。もしケインズ自身の経済学という意味で用いるならば「ケインズの経済学」というべきです。ただし、もちろんケインズほどの偉大な人物の経済学ともなると、それをどのように解釈するかは人によって相違点が出てきますから、難しいところです。
 「ケインズ政策」という言葉はどうでしょうか? これなども手垢のついた言葉となってしまいました。およそケインズの著書(『貨幣論』や『一般理論』、その他)などを読んだことなど決してないと思われる経済学者が「ケインズ政策」などという言葉を使って、しかも批判するのですから、「世も末」と嘆きたくなります。ケインズの乗数の「波及論的理解」などはケインズが聞いたら、おそらく怒り狂うでしょう。(これについては、私の恩師の一人、故宮崎義一氏と伊東光晴氏の『コンメンタール 一般理論』(古いけれども、高水準)などを見てもらえば、了解できるはずです。)しかも、無知な経済学者の中には、財政支出についてもこれを使う人がいるのですから、何をかいわんやです。ケインズの乗数は、Y=C+I (有効需要)の式におけるYと I との(一定期間における)関係を示すもの以外の何物でもありません。歪めて解釈しておいて、ケインズは誤っているといっても、世の中では通用するかもしれませんが、きちんと経済学を理解している人にとっては、馬鹿丸出しの所作に他なりません。
 では、ポスト・ケインズ派のほうはどうでしょうか? これは、通常、ケインズの『雇用、利子および貨幣の一般理論』(1936年)に刊行前後に、ケインズ・サーカス(ケインズの周囲にいてケインズの『一般理論』の形成・普及に貢献したした人々)によって形成されてきた経済学を意味しています。その中心にはジョウン・ロビンソンがおり、その他にハロッド、カルドア、カーン、カレツキなどがいました。これらの経済学者は、ケインズと直接に意見交換を行い、ケインズに影響を与えつつ、またケインズから強い影響を受けていました。その中でも特筆されるのは、ミハウ・カレツキです。彼はケインズ以前に「ケインズ革命」を成し遂げた人物としてよく知られています。(彼はポーランド出身であり、その初期の著作はポーランド語で書かれていたため、広くしられていませんでした。)
 彼ら、つまりケインズ自身およびポスト・ケインズ派には共通する経済的ヴィジョンがあります。それは、「不均衡」、「不確実性」、「有効需要の原理」、「市場の失敗」、「非自発的失業」などのタームで示すことができます。そこに共通しているのは、現代の「企業者経済」(資本主義経済)では、失業(非自発的失業)や金融危機などに示されるように、不均衡が本質的な特徴であるため、政府が様々な制度を構築することによってそれを修正することが必要であるという見解です。それを基礎づけるのが、不確実性や有効需要の原理に他なりません。
 ところが、・・・。
 ケインズの経済学は、イギリスでも誤って解釈されましたが(ヒックスのIS-LMなど)、大西洋を渡り米国に達するやさらに大きく変容を遂げていましました。しかも、それは本来のケインズの見解とは似ても似つかないものになりました。その変容した果ての経済学が「新古典派総合」や「ニューケインジアン」の経済学です。どのように変容したのでしょうか?
 それは、これらの経済学では「均衡」「確実性」「セイ法則」「市場原理主義」、「自発的失業」などのタームがきわめて重要となっていることによって示されます。たしかにケインズの経済学のごく一部分(労働市場に関連する一部)はそこに取り入れられています。しかし、ケインズの経済学の本質的な部分は古めかしい(19世紀以来の)新古典派経済学によって換骨奪胎されてしまいました。ケインズがそれを知ったら、抗議することは間違いありません。「諸君らは間違っている。私の名前を用いないように」、と。何しろ、ケインズにあっては資本主義は欠陥(失業、不安定、不均衡)を持つために修正しなければならない代物だったのに、米国ではむしろ安定と均衡、効率性を実現する立派な構築物に祭りあげられたのですから。
 しかも、この変容に際して、ケインズが「現実離れしている」ため「悲惨な結果をもたらす」と警告した諸前提がふたたびこっそりと経済学に持ち込まれました。

 最後に、誤解のないように一言。アメリカ大陸にもポスト・ケインズ派の経済学者はいます。ジョン・K・ガルブレイスもその一人でしたが、その子息のジェームス・ガルブレイス氏もその伝統を引き継いでいます。またH・ミンスキー氏やその影響を受けた一連の経済学者、H・ラヴォア氏、アルフレッド・S・アイクナー氏などもあげられます。
 しかし、米国の主流派が新古典派の人々にあるという事実に変りはありません。どうしてそうなのでしょうか? これにはアメリカ合衆国の経済の成立事情がかかわっていると考えられます。ご存知のように米国はイギリス人(スコットラドやイングランドのアングロ・サクソン系民族)が植民して作りあげた国です。そこでは、資本主義を欠点のない・完璧な構築物と見なさなければならないという「歴史的使命」のようなものが見え隠れしているかのように見えます。しかし、これについてここでは深入りすることは出来ません。

2013年12月11日水曜日

E・トッド『新ヨーロッパ大全』を読む

 1992年にE・トッド氏の『新ヨーロッパ大全』(日本語訳、藤原書店、石崎晴己訳)が出版されてから20年たった。
 この書物は、ヨーロッパおよび米国(ヨーロッパ、特にイギリスからの分家)の社会(政治・経済・宗教)を語る上で、必読文献といってもよいであろう。特にアングロ・サクソン系(米英)の人々の集合心性を理解する上できわめて有益な書物ではないだろうか? 
 20世紀にこの課題に最初に本格的に挑んだヨーロッパの社会科学者は、ドイツの有名な社会科学者のマックス・ヴェーバーであった。彼の最も著名な論文「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の「精神」」は、しばしば不正確に理解されているが、カソリシズムとプロテスタンティズムの「エートス」の相違を明らかにし、近代資本主義の成立との内面的関係という問題をある限られた視角から分析しようとしただけでなく、大陸ヨーロッパ(ドイツ人やフランス人)とドーバー海峡の向こう側にあるブリテン島の主たる住民(アングロ・サクソン民族)の心性の特徴を描こうとするするものであった。あのきわめて特徴的な人々(スコットランド人とイングランド人)はどのような土壌の上にカルヴィン派の教派を受け入れたのか、その受容が資本主義を生み出す上でどのような役割を演じたのか、彼らの文化は「われわれ」のそれとどのように異なるのか、これがヴェーバーの頭の中にあった問題に違いない。
 トッド氏の書物も、家族史、土地制度史、宗教史、政治史に関する具体的・定性的・定量的なデータにもとづき「ヨーロッパ人」を、しかも、一つのステロタイプとしてではなく、その多様性を理解しようとしたものである。彼はこの点できわめて説得的な議論を展開しているように思われる。
 彼の意見では、アングロ・サクソン系の文化は、中世以来の伝統的な家族構造・土地制度の点で、自由主義的(非権威主義的)で不平等な配分にもとづいていたと特徴づけられるといってよいだろう。おそらくイギリス社会史・経済史に詳しい人は、その意味がよく理解できるであろう。イングランドやスコットランドでは、中世から「核家族」が基本的な家族形態であった。人々は若い時期に両親の家を(奉公人などとして)離れなければならない。したがって両親との同居はきわめて少ない(自由主義)。子供は、親の高齢化とともに財産を相続するために家に戻るが、その際には、一子相続制(primogeniture)が原則であり、長男以外は親の財産を相続することはない(不平等)。遺産相続に参加できなかった兄弟たちは、奉公人(servants)として兄弟または他人の家に居候し、生活したり、村の共同地(総有地)に狭い土地を分けてもらい小屋住(cottagers)としての生活を送ることになる。これらの小屋住が17〜18世紀の共同地の囲い込み(enclosure)に際して、ジェントリー(地主)から暴力的に追放されたことは経済史の教科書に登場するのでよく知られていよう。ここで注意しなければならないことは、奉公人や小屋住たちが農民の子弟から生まれた人々であったとはいえ、決して没落した農民(farmers)ではなかったことである。小屋住は農民の家族の中から不平等な相続の結果、生まれて来たのである。
 この自由主義と不平等性の組み合わせは、宗教改革でも(つまりカルヴィン派の受け入れの際も)繰り返される。プロテスタンティズムは、人々(俗人)が教会という教階的組織から自由であり、自ら聖職者であることを公然と主張し、牧師も俗人も自らの良心にしたがって(自由に)「福音」によって信仰生活を送るべきことを説く。しかし、その教義内容は決して平等主義的ではない。個人個人の救済・非救済はあらかじめ全知全能の神によって予定されており、すべては神意によって決められることである。個人に出来ることといえば、神による魂の救済を信じてその招命(calling)=福音に従って生きることであるに過ぎない。
 たしかに後になってこうした二重予定説の教義はしだいに薄れてゆく(例えばジョン・ミルトンや、メソジストなどを見よ)。しかし、それでも自分が神によって選ばれた民の一人であるという意識は色濃く残る。19世紀から20世紀にかけて宗教改革時の宗教的熱狂から覚め、形骸化が進んでも、この選民意識はしぶとく残り、それが他の諸民族に対するあらわされる優越的な態度、「帝国主義の精神」となって現れる。それは、19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパ人(例えばヴェーバーや、シュルツェ・ゲーヴァニッツなどのドイツ人)には、きわめてアングロ・サクソン的な精神の発現と思われたであろう。「プロテスタンィズムの倫理と資本主義の「精神」」の末尾の、「うぬぼれた末人」(letzte Menschen)の登場に対する批判めいた言葉は、そのことをよく示しているように思われる。

 さて、話は変わるが、わが日本はどうであろうか? 
 ヴェーバー的には日本仏教が問題となり、トッド的には日本の家族制度や土地制度が問題となるであろう。
 後者の点では、日本のほとんどの地域で権威主義的家族形態と不平等な相続制度が支配的であったことが知られている。このことは、戦前から戦後にかけて実施された相続慣行調査(川島武宣氏『農家相続と農地』、『日本社会の家族的構成』など)や国勢調査からもうかがわれる。九州南部(鹿児島県や宮崎県の一部)と沖縄とを大きな例外として、戦前の日本の基本的な相続慣行は一子相続制であった(不平等)。しかも、家族形態においては核家族とならんで、夫婦が年老いた親(両親・片親)と同居する世帯がかなり高い割合で観察されている。これに対して、相対的にであるが、自由主義的かつ平等な傾向を示す地域もわずかであるがある。それは、南九州から沖縄県にかけての地域である。そこでは末子相続という名の分割相続(共同相続、均分相続など)が見られ、琉球処分以前の沖縄では村による「土地割替」(土地共有と定期的な再分配)の慣行さえ見られた(平等主義)。しかも、ここでは親との同居世帯は他の地域に比べると少ない(相対的に自由主義的な傾向)。もっとも、ここでも親との同居世帯は一定の比率で存在しており、その非権威主義的傾向・自由主義的傾向は他の地域と比較した場合の相対的なものに過ぎないという方が正確だろう。(常識にはそわないかもしれないが、もしかすると青森県が若干これに近いかもしれない。ここでは他の東北地方と比べて、親との同居世帯の比率が若干低いことが統計的に示される。)
 
 ただし、日本では少数派だった平等主義的配分も、東アジアの他の地域ではむしろ多数派であった。中国と朝鮮半島における分割相続の慣行が支配的であったことは、社会学者の間では常識に属する。
 ヨーロッパでも、上述のイギリス型だけでなく、他のタイプも存在しており、一方では、例えばフランスの一定の地域が、また他方ではロシアを中心とする東欧の相当部分が分割相続の厳格に適用される(平等主義の)地域であったことが知られている。しかし、トッド氏が明らかにしているように、フランスは自由主義的家族の地域であり、ロシアは権威主義的家族の地域であるという大きな相違がある。またドイツの広範な地域には、日本と類似の権威主義的・不平等的な家族・相続慣行が認められる。私には、現在のヨーロッパ諸国の経済の制度的特徴の多くがこうした事情とかなり密接に関連しているように思われる。
 私は、中国や朝鮮半島の家族がどの程度に権威主義的なのか、あるいは自由主義的なのか、詳しく知るための統計資料をまったく持っていないが、さしあたり韓国については国勢調査資料から世帯類型を知ることはできそうである。
 過去からの伝統がどの程度まで現代の政治・経済・社会に影響を及ぼしつづけているのか(われわれはどの程度過去にとらわれているのか)、これは社会科学上の大問題である。それをアプリオリに前提することができないことはいうまでもないが、同時にそれをアプリオリに否定することも科学的な態度ではない。
 ちなみに、日本の研究者の中には、ヨーロッパ研究を行っている多くの研究者が「ヨーロッパ」を「アジア」に平板に対立させていると述べ、批判している人がいるが、実際にはヨーロッパもアジアも多様であり、日本でさえ多様な諸地域を抱えている。そのような批判をしている人こそ、単純な対立図式から自由になれていないのではないだろうか。

2013年12月10日火曜日

社会科学の裸の王様・経済学 9 新古典派経済学の正体を暴露する


 世界の著名な・優れた経済学者が「主流派(新古典派)」の経済学についてどのように述べているか、ちょっと覗いてみましょう。それぞれ異口同音に、それが現実離れした前提の上に構築されており、現実世界を映すものではないことを強調しています。

 ジョン・M・ケインズ『雇用、利子および貨幣の一般理論』
 「(新)古典派理論の想定する特殊な事例はあいにくわれわれが現実に生活を営んでいる経済社会の実相を映すものではない。それゆえ古典派の教えを経験的事実に適用しようとするならば、その教えはあらぬ方向へ人を導き、悲惨な結果を招来することになるであろう。」

 スティーヴ・キーン『経済学の正体を暴く』(Debunking Economics)
 「それは現実の資本主義経済の動学的には妥当せず、事実上は間違った直感的で静態的なスナップ・ショットに過ぎない。」
 *これは近代の(例えばニュートンの)力学(dinamics)などと決定的に異なる点です。ご存知のように、ニュートンは物質が時間の経過とともに運動する状態を説明することに成功しました。ところが、「科学」を自称する新古典派はいまだに動学を語ることができません。(ポスト・ケインズ派は、ハロッド、ドーマー、カレツキなどの努力もあり、かなりの程度に動学理論(dinamics)に成功しています。)


 ジョウン・ロビンソン『経済論集、第4巻』
 「(新古典派は)恣意的に構築された前提条件にもとづいてモデルを組み立て、それらの前提が現実にあてはまることを取り繕おうともせずに、そこからの「結論」を現実の出来事に当てはめようとする。」

 マーク・ブローグ「近代経済学における混乱をもたらす潮流」(Challenge!, Vol.41, No.3, May-June, 1998.
 「経済学は、その実践的な帰結のためにではなく、ますます自分自身のために演じられる知的ゲームになってきた。経済学者は、しだいに主題を、数学科で理解されているような分析的な厳格さがすべてであり、(物理学科で理解されているような)経験的妥当性がまったく当てはまらない無一種の社会数学に、・・・つまり「価格」、「量」、「生産要素」等々のような用語を使うが、それにもかかわらず、明らかにも、また恥ずべきことながら、どんな認識可能な経済システムにも当てはまりもしない一般均衡理論に転換してきた。
 完全競争は、決して存在しなかったし、また決して存在できなかった。その理由は、企業は小規模なときでさえ、価格を受け入れるだけということはなく、価格を創り出そうとするからである。すべての現在の教科書は多くを語るが、次に即座に、完全競争という「夢の世界の」幻想の国が現実世界の競争についてわれわれが何か意味のあることをいうための基準であるとまで言う。・・・しかし、理想化された完成状態は、われわれがそれと現実世界の競争との間のギャップを計測する方法を決して語らないときにどのようにして基準となりうるのだろうか。すべての現実世界の競争は「近似的には」完全競争に似ているが、近似の程度は、漠然とさえ、決して特定されないことが意味されている。・・・
 次の典型的な前提条件を考えよう。完全に確実な、まったく全能な、いつまでも長期的に同一の消費者:取引費用ゼロ:すべてのあり得る出来事に対するすべての時間について記述された要求に対する完全市場。不均衡価格でのどんな種類の取引も存在しない:価格と量のかなり急速な変化率:現実の時間においては急激な計算できない不確実は存在しないが、論理的時間においてはただ確立的にのみ計算可能なリスクが存在する:ただ線形的に同質な生産関数:どんな技術進歩も具体的な資本投資を必要しない、等々、等々。これらすべては現実離れした仮定というだけでなく、不真面目な前提である。それでも、これらは主導的な経済諸理論の中に決定的に出てくるのである。
 *いや、まさに「不真面目な」馬鹿らしい前提です。これらがどれほど馬鹿らしい仮定であるかは、その他にもまだまだあります。そこから生まれるのは、現実世界の経済学ではなく、仮想空間の経済学。これについては、いつか書くこともあると思います。
 
 何の本だったか忘れてしまいましたが、宇沢弘文氏(東大名誉教授)はかつて、<米国で書かれる経済学の論文のほとんどはゴミである>という趣旨のことを述べたことがありました。これも上と同じ趣旨からの発言です。

 ジョン・K・ガルブレイスも多くの名言を残していますが、最近一つを紹介しましたので、ここでは省略します。

2013年12月9日月曜日

社会科学の裸の王様・経済学 8 貯蓄と投資

 貯蓄と投資との現実の関係もまたしばしば間違って理解されている。
 以下では簡単のために外国と政府を捨象して考えることとする。

 この仮定の下では、貯蓄とは所得のうち、消費財の購入のために支出されなかった部分に等しい。これは定義のようなものだから、何故そうなるのか、理由を考えずに受け入れるしかない。いま、所得をYとし、消費財の購入のための支出(消費支出)をCとすると、貯蓄Sは、次のように示される。
  S=YーC    よってY=C+S                 (1)
 定義上、貯蓄の範疇に入るのは、銀行等に預金すること、株式や国債などの金融資産を購入することである。タンス預金(現金を保有し続けること)も貯蓄であり、土地(実物資産)の購入も貯蓄の範疇にいれてよいだろう。問題となるのは、居住用の住宅を購入するような場合である。住宅は見方によっては耐久消費財と考えることもできるが、見方によっては実物資産と考えることもできる。ここでは、住宅を資産と考えて、住宅購入を貯蓄としておくこととしよう。(これに賛成できず、消費財と考える人は、貯蓄から外してもかまわない。しかし、統計上は、どちらにするか、はっきりさせることが重要。)
 一方、見方を変えると、所得は、消費財の購入のために支出されるが、同時に生産財(資本財ともいう)の購入のためにも支出される。この資本財を I で示そう。すると、所得はCと I の購入のために支出されたことになる。このCと I は、それぞれ消費需要(消費財に対する需要)と投資需要(生産財に対する需要)を構成する。そして社会全体では、それぞれの需要に応じて生産が行われ、最終的にはその生産物を販売することによって所得が生まれる。したがって、結局、国民生産=国民所得は消費需要と投資需要の合計、または消費財Cと生産財 I の合計に等しくなるはずである。それを式で示すと、
  Y=C+I                                 (2) 

 *厳密にいうと、消費需要と消費財の生産、投資需要と生産財の生産には、わずかなズレがある。それは在庫の変動に等しい。例えば企業は100の需要を見込んで生産するかもしれないが、そのうち95しか販売されなければ、5が在庫の増加に等しくなる。しかし、企業は短期的には需要を見込んで生産しているとしても、より長期的には在庫変動を通して実際の需要の変動を把握している。したがって在庫が大きく変動することはないので、さしあたり(在庫変動が問題となる局面を除くと)需要=生産と考えても、当面は差し支えない。

 ところで、上の(1)と(2)は、社会全体では、貯蓄と投資が等しくなることを示している。(ただし、ここで述べられている貯蓄と投資は、一定期間中に実現されるフローの量である。後に言及するストック(一時点における量)と区別しなければならない。)
  S=I    (社会全体で成立する等式)
 
 もちろん、個々の経済主体に関する限り、この等式は成立しない。このことは明白である。例えばある年に100万円を貯蓄した人は必ず100万円を投資したことになるということはない。ただし、ここで投資というのは、企業の行う設備投資(機械や設備の購入・設置)のことであり、株式や国債の購入、預金などはそこに含まれない。
 また社会全体でも、事前の期待に関する限り、貯蓄と投資が一致することはないであろう。あくまで一致するのは事後的な結果である。
 しかし、社会全体について、かつ事後的にであれ、この等式は一体どうして成立するのだろうか? 
 その理由に関して、現代の経済学者は2つのグループに分かれる。
 1)貯蓄が投資を決めると考える。
 2)投資が貯蓄を決めると考える。

 このうちどれが正しいのかを示すために、いくつかのことを考えよう。
 まずまだあまり経済学を勉強したことのない人は、1)が正しいと考えるかもしれない。というのは、私たちの日常の常識では、まずお金が先にあって、次にそれを支出するからである。そこで、上の問題についても、お金(貯蓄)があり、次にそこから支出(投資)がなされると考える。これで間違いない、というわけである。
 しかし、結論を急がないで、もっと深く考えてみよう。
 実は、ある時点でお金を持っていなくても、次の時点で支出することは可能である。例えば銀行から借用することができれば、その借用資金(借金)を使って支出することができる。あるいは企業のように新規の社債や株式を発行し貨幣=資金を調達しても支出が可能となる。あるいはまた自分が所有している株式や国債、土地などの資産を売却したり、自分の預金を引き出してお金(現金)を作れば、何か(消費財や生産財)を買うことができる。これらの場合には、貯蓄を取り崩すので、経済学的に言えば、マイナスの貯蓄をしたことになる。ただし、この場合、株式や国債を購入した人や、預金を引き出された銀行は貯蓄をしたことになり、全体としては過去に行われた貯蓄のストックの金額は変化しない。
 ともかく、人々はある時点で一定の(過去になされた)貯蓄のストックを有しており、その一部を利用して消費財や生産財を購入するための支出を行うことができる。そして、その金額は、その後の(つまり将来の)一定期間(週、月、年)中に実現されるであろう所得に制約されているわけではない。
 むしろ経済の実相は、こうである。まず人々によって独立的に(外生的に)支出(消費支出、投資支出)が行われると、それに応じて有効需要(消費需要と投資需要)が生じ、(上述のように)企業はその需要に応じて生産を決定する。またその生産物は販売されて所得を生み出す。
 このように考えると、正しいのはむしろ2)の見解だということになる。
 このことが正しいのは、景気変動(不況や好況)の存在という事実によっても示される。

 2)の見解による景気変動の説明
 人々がその時々の時点で決定する消費需要の変化によって説明される。多くの場合、人々は前期に行われた消費支出の金額を基準にして時期の消費支出を決めるであろう。それはルーティン的なものであるということができる。もちろん、その時々の経済社会の条件・社会的雰囲気も影響する。高度成長の時期であれば、労働生産性の上昇に応じて、賃金が上昇していたので、人は前期よりも消費を増やそうとするであろう。しかし、現在のように労働生産性が上昇しても賃金の引き上げが実現されない時期には、人は消費を増やさない・抑制しようとするであろう。
 歴史的に有名な事例を持ち出せば、次のようなこともある。1929年末〜1932年のように不況が発生し、人々が不安に陥ったとき、多くの人が共通して取る行為は、貯蓄を殖やそうとして消費支出を削るというものである。この場合、最初の短い期間においては、人々は増加した貯蓄を実現することができるかもしれない。しかし、多くの人が消費支出を減らすとともに景気後退が感じられるようにようになり、企業が生産力を増強させるための投資を縮減しはじめるとともに、生産財の生産も縮小される。これによって総需要(消費需要+投資需要)が低下し、不況のいっそうの深化と失業の拡大がもたらされる。その結果、多くの人が当初意図した貯蓄の増加もしだいに実現できなくなる。
 このように個々の企業が(また社会全体の企業も)将来の期待利潤やリスクを考慮して、投資を決定することは、ケインズやカレツキの発見した事実であるが、このような事情は経済社会にある種の「不確実性」をもたらす。
 
 これと反対に、1)のように、貯蓄が投資を決定すると考えるのは新古典派に特有な思想であるが、それによって景気循環を説明することは絶望的に不可能となる。
 そもそも新古典派の経済理論には、本来、市場経済が景気後退や失業をもたらすという思想自体が欠如している。事実、彼らの見解では、貯蓄が投資を決定するが、その貯蓄を決定するのは、マーシャリアン・クロスである。それによれば、貨幣市場では、右上がりの貨幣供給曲線と右下がりの貨幣需要があり、その交点で利子率と貯蓄量が決定されるとされている。言うまでもなく、その利子率と貯蓄量は市場を均衡させる量である。
 したがって、ここでも不均衡は、もっぱら市場外部の要因によって説明されることとなる。曰く、貨幣供給を司る金融政策や財政政策の誤り、労働者の高賃金、その元となっている労働者保護立法の誤り、等々である。

 このように述べてくれば、貯蓄が投資を決定するという思想は、「供給がそれ自らの需要を創出する」という「セイ法則」の亜種であることがわかるであろう。ただし、この婆には供給とは貯蓄(資金)の供給であり、需要とは投資需要のことである、が。
 ともあれ、新古典派はここでも貯蓄の供給側から物事を説き、例によって富裕者を優遇し、反対に労働側に対する集中砲火を浴びせることになる。富裕者の優遇策とは、富裕者減税、法人税率の引下げ、「株主価値」の喧伝(と賃金の抑制)等々であることは繰り返すまでもないであろう。

2013年12月7日土曜日

社会科学の裸の王様・経済学 7 合理的な馬鹿

 アマーティア・センの著作に『合理的な馬鹿』というものがあります。それをタイトルに使いましたが、ここでの内容はセンの解説ではありません。

 さて、学生の頃、消費者選択の理論というものを学ばされました。先日の演習のときに学生の一人に聴いたところでは、現在でも教えているようです。

 ところがこれがいろいろな意味で合理的な馬鹿げた「理論」です。何故か?
 詳しくは説明しませんが、この理論では、2財(例えばリンゴとミカン)を取り上げ、
限られた予算制約の中でどのような選択が最適(個人的な効用を極大化する)かを説明するものです。2年生くらいの学生には結構難しく感じるようです。

 さて、この理論のどこが馬鹿げているのでしょうか?
 普通教室では(教科書でも同じです)、2財を素材とした説明が終わったあと、教師が「それをN財に拡張します。それでもこの理論は成立します」と宣言して終わります。すなおな学生はなるほどと納得するでしょう。
 しかし、N財とは何でしょうか? 現実の経済社会では商品の種類は数え方にもよりますが、何万種類にもなります。ちょっとしたコンビニでも数千種類はあるといわれています。いまここでは、かなり少なめに2000種類としましょう。つまり、N=2000です。
 この場合、人間の頭脳は「消費者選択の理論」によると、どれほどの回数の計算を行わなければならないでしょうか? 数学の「計算量の理論」によると、その回数Cは、少なくとも2^2000以上になります。
 「あっ、そっ」と言って終わりにする人もいるかもしれませんが、この2の2000乗という数字がどれほど大きいのか調べてみます。
 2の4乗は16(>10)ですから、C>10^500。つまり10の500乗よりはるかに大きくなります。では、10の500乗とはどれほどの数でしょうか? お分かりのように、それは十進法で500桁の数です。1の後にゼロが500個並び、気の遠くなるような数です。
 それでは、それだけの回数の計算をコンピューターで行ったらどれほどの時間が必要でしょうか? 現在の超高性能コンピューターどころか、究極の超高速演算処理を可能とするコンピュータで計算しても、どう少なく見積もっても億年単位の時間が必要となるようです。(この辺りは理系の人の知識をかりなければ分かりませんが、幸い数学をやっていた息子に少し知識がありました。)
 
 「人間は合理的な行動を取る」と教えながら、実際にはこんな馬鹿なことを学生に教えるているのです。このこと自体が人間が(いや新古典派の経済学者が)いかに情報を正確に得ておらず、現実離れした不合理な行動をとっているかを如実に示しています。

 ちなみに、私などはスーパーで商品を選ぶととき、そんな計算などせずに、ルーティン的に、つまりハビット(慣習的行動)にしたがって適当に選んでいます。ヒューリスティックにと言いますが、いくつかの行動(商品選択)パターンは決まっていて、ただ値段や嗜好、大きさ、季節などのによって多少変えているに過ぎません。ある程度は合理的に行動しているかもしれまんせんが、かなり不合理とも言えます。
 ところで、消費者選択の理論を教えている人は、ちゃんとすごい回数の計算をしているんでしょうね。さもなければ「罰せられはしないけれど欺瞞」(innocent fraud)を働いていることになりますよ。