2014年3月7日金曜日

EUが日本の放射能汚染について科学的調査を実施、報告

 あまり一般化してはいけないかもしれませんが、わが国の政治家たちが福島第一原発事故を忘れさせようとしているのに対して、外国では EU が事故による汚染について調査をしていたことがわかりました。
 その内容については、次のサイトで知ることができます。

 http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-2659.html?utm_source=twitterfeed&utm_medium=twitter


 それによると、日本の面積の15%ほどがチェルノブイリ避難基準にいう「徹底的な放射能監視地域」にあたっているようです。
 旧ソ連地域に比べるとはるかに狭い日本。しかも、恐ろしい事故が起き、それがまったく解決していないにもかかわらず(その証拠に、事故を起こした発電所のウラン燃料がどのような状態で、どこにあるのかもわかっていません)。またウランの最終処理の問題が何ら解決していないにもかかわらず、原発を再可動しようとしている党と政府。
 よく「国の借金を次世代に残さない」と主張している党と政府が、借金よりはるかに恐ろしい物を次世代に残そうとしています。

 

2014年3月4日火曜日

官・民二分法の欺瞞

 この国では、しばしば「官」と「民」という言葉が使われます。しかも、その際、「官」には否定的な語感が感じられ、「民」には肯定的な語感が含まれていることは、多くの人が感じていることと思います。
 しかし、官、民とはいったい何でしょうか?
 まず官は官僚の官を連想させます。「官僚制はよろしくない、なくすべきべきだ。」こんなところでしょうか。
 一方、「民の声は神の声」(Vox populi vox dei.)などという言葉があり、こちらは肯定的な響きがあります。
 しかし、「官と民」という言葉を多用する人(例えば竹中平蔵氏など)が、「民」というとき、実際には人々(諸個人)という意味で使っているのではなく、会社やビジネスという意味で使っていることに気づいている人は多いと思います。
 ちなみに、ガルブレイスの著作に『悪意なき欺瞞』(ダイヤモンド社)という本がありますが、原著では corporate sector (会社セクター)という言葉が翻訳では「民」と訳されています。偉大なる誤訳といってもよいかもしれませんが、日本ではまさにビジネス界が「民」という用語で示されているのですから、その意味では日本の現実を素直に反映するものといえるかもしれません。「民活」(民間活力)などという言葉がありますが、この言葉をキャッチコピーとする政策は、往々にして従業員を「自由に」使って経営者や株主だけが所得を増やすブラック企業(これも民です)を許容する結果をもたらしてきました。本来は、「民」の活力ですから、従業員が所得を増やし、元気を出さなければならないはずですが、・・・。

 ともあれ、多くの人の頭の中には、官は国家官僚組織、民は会社(民間企業)という2項図式が存在していることは、様々な発言から明らかです。
 
 しかし、このような二分法は日本の一部では通用するかも知れませんが、誤用に他なりません。
 まず官僚制ですが、これは行政組織だけでなく、民間企業にも存在します。あえてマックス・ヴェーバーなどの社会科学上のビッグ・ネームを出す必要もないでしょう。現代の企業が合理的官僚制として組織されていることは周知の事実です。従業員を何千人、何万人もかかえる現代の巨大企業は、それなくしてどのように支配(命令と実施)を実現するのでしょうか? 
 一方、「官」によって示される政治の領域は、本来、近代市民社会(政治的社会)の理念にあっては、すべての構成員が平等な権利をもって参加する公共的な領域であって、一握りの官僚の組織をいうわけではありません。「官」という表現法自体に、日本の政治の世界が公共の領域ではなく、何か常人が近寄ってはいけない特権者の世界というニュアンスが感じられ、政治の世界が何か薄汚い世界であるかのようにイメージされています。それに、いったい民間企業の官僚制がクリーンな世界だとでもいうのでしょうか。

 次に民ですが、これは上で示唆したように、本来は人々(people)のことに他なりません。しかし、民を会社=ビジネス界(corporate sector)と観念することによって本来の民は閉め出されてしまいました。人々は会社に滅私奉公するべき存在と見なさるか、あるいは存在すら意識されていないかのようです。

 どこがおかしいのでしょうか? そもそも官と民という二分法が誤っているというしかありません。米国でも欧州でも、政府、会社(ビジネス)、家族・個人は別々の存在として意識されていまし、日本でもそうです。われわれは、官と民という巧妙なレトリックに騙されてはなりません。
 社会のリードする人々には、官と民の二分法ではなく、せめて政治(公共性)、会社(ビジネス)、家族(個人)というトリアーデ(toriade)を知り、それぞれがどう関係するべきかを考えて欲しいものです。


世界の合計特殊出生率の変化


国連「経済社会事情局」が世界各国・地域の時期別の合計特殊出生率に関するデータを公表しています。
 1950〜1955年には、OECD諸国でも、合計特殊出生率(TFR、女性が一生の間に生む子供の平均的な数)は、OECD諸国でも2.5以上であり、中南米、アフリカ、中東、南アジアおよび東アジアでは5以上の国・地域が多く見られました。この時期はグローバルな人口爆発が心配された時期でした。
 しかし、21世紀初頭までに事情は大きく変わりました。先進国の多くでは、TFRは2以下に低下し、他の国・地域でも2〜3またはそれ以下に低下しています。サハラ以南のアフリカ諸国では依然として4以上、中には7を超えている国も見られますが、中南米、中東、南アジアおよび東アジアでは、かなり低下しています。
 こうした変化は決して否定的に捉えるべきことではありません。一つには、伝統的な社会では高い乳幼児死亡率が見られたため、次世代の人口を維持するには多産が必要でしたが、現在までに乳幼児死亡率は決定的に低下しました。またTFRの低下は女性の家庭内における地位、社会的な地位の上昇を反映していると考えることができます。もちろん「持続可能な発展」の観点からみても、人口爆発が生じることは決して好ましいことではないでしょう。かつて心配された世界人口の爆発の心配はなくなりました。
 
 しかし、言うまでもないことですが、TFRの2以下の水準への低下は、長期期には人口が減少してゆくことを意味しています。現在、例えばイギリス、フランス、米国などが2前後になっており、ドイツや日本、韓国などが1.3前後の水準になっています。このままの状態が続けば前者では人口は長期的に安定的に推移しますが、後者では人口がかなりのテンポで減少することになります。
 その際、人口が減少することが問題というわけでは決してありませんが、あまりに急速な人口減少が大きな問題をもたらすことは間違いありません。そのことは極端な例を示せばあきらかでしょう。例えば仮にTFRが0(ゼロ)になれば、ほぼ80年で当該国・地域の人口はゼロになります。それは破局的な状態を意味しています。
 それではどのような数値が好ましいか? これは社会哲学的な問題を含んでおり、誰もが合意できる明らかな正解というものはないと考えられます。結婚するのか否か、また何人の子をもうけるのか、それは個人の自由の領域でもあります。そして、社会全体の結果は諸個人の行動結果の集計という一面を持っています。
 しかし、他面では、各個人の行動は、社会全体の環境によって制約されます。経済学でも現在のアメリカの主流派のように、ケインズの経済学を批判しようとして、マクロ経済学をミクロ経済学によって(のみ)基礎づけようとするものもありますが、それは完全に失敗しています。経済主体のミクロ的行動はマクロ(社会全体)=社会全体の環境によって影響を受けているからです。人口についても同じことがいえます。
 もし子供を持ちたいにもかかわらず、それを不可能にする困難な事情があるならば、改善が必要となります。日本の統計(厚生労働省)でも、同じ年齢階層で結婚した女性の合計特殊出生率は決して低くありません。しかし、未婚者の出生率は低く、また男女とも未婚者の多くは非正規雇用者であることが示されています。TFR(1.3〜1.4ほど)を前提条件として今後の日本の経済社会のありかたを考えるのか、そうではないのか、大いに議論が必要です。



http://esa.un.org/wpp/fertility_figures/interactive-maps_TF.htm




2014年3月2日日曜日

ヨーロッパの伝統的家族と相続 3 ロシアと中国とフランス

 かなり急進的な土地革命を経験した代表的な国が3つあります。フランス(フランス革命時の封建的特権の無償廃止)、ロシア(1918年の土地革命)、中国(1950年の土地革命)です。日本も戦後農地改革を経験しましたが、これは戦後GHQの影響下で行われたものなので、ここでは触れないことにします。
 
 上の3カ国に共通点はあるでしょうか?
 あると言えばあります。それはいずれも平等主義的な相続制度(均分相続慣行)の主要な国だったという事実です。それが土地革命とどのように関係しているのでしょうか?
 
 そのことを納得してもらうために、まずロシア帝国の農業・土地問題から始めることとします。
 ロシアというと人はどのようなことを連想するでしょうか? 北の寒い国とか、石油国家、ソ連、計画経済、共産主義などという言葉が出てきそうですが、広い国という言葉も出てくるかもしれません。
 実際、ロシアは広大な国です。人口も多いのですが、その農地面積も広大です。20世紀初頭の統計では、ロシアの平均的な農家が保有している耕地面積はドイツの平均的な農家の保有する面積より広かったとされています。
 ところがです。19世紀末から20世紀初頭の頃のロシア人経済学者の書いた文章を読むと、当時のロシア農民は「土地不足」(malozemel'e)で苦しんでいたことが論じられていたことがわかります。広い国土で「土地不足」? そんな訳はない、といったところでしょうか。
 
 しかし、私は決して冗談を言っているのではありません。
 そのことを理解するためには、次の点を知る必要があります。
 1 当時のロシア農業は粗放的であり、土地の生産性が著しく低かった。したがって一定の収穫量(例えばドイツ人の農民経営が実現しているような収穫)を実現するためには、相当の土地面積と播種量が必要だった。
 2 19世紀後半〜20世紀にかけて農村人口はかなり急速なペースで増加しており、その増加率は50年で2倍にふくれあがるほどであった。したがって1861年の農奴解放から20世紀初頭までに農民の保有地は平均して2分の1ほどの縮小したことになる。この農村人口の増加傾向は、20世紀に入っても進んでおり、1917年のロシア革命後も進行しつづけた。
 3 農民の保有地(分与地 nadel)と並んで、大地主の所有地(私有地)があり、農民たち、特に土地不足の零細農はその私有地を高い小作料を支払って借地しなければならなかった。小作料は、農民の「土地不足」のために年々高騰する傾向にあった。
 4 ロシア農民の伝統的な家族形態は、先に触れたように、共同体家族(平等な相続をともなう)であり、結婚した兄弟がしばしば同じ屋根の下で暮らすことがしばしばあったが、また兄弟が家族を分割し、その際、均分相続制度の下で、土地=経営が細分されることとなった。
 5 さらにいわゆる大ロシア諸県(現在のロシア地域)では、耕地が個々の農家の私有地ではなく、村落(村落共同体)の共有地と観念されていた。
 といっても、共有地が村人によって共同耕作されていたわけではない。それは各農家の耕作するところであり、そのために土地は各農家に平等に配分される必要があった。最も広まっていたのは、各農家の男性人口(納税人口、現存人口)を基準として土地を配分するという慣行である。
 しかし、土地配分の当初は平等性が保たれていたとしても、時間の経過とともに不平等が拡大する。そこでロシアの法律は、村集会が多数決をもって土地の再配分(土地割替、peredel)を行うことを許可していた。

 以上のような制度を背景として何が生じたのでしょうか?
 一言で言えば、農家人口の増加とともに拡大する「貧困の共有」です。たしかに村落の土地共有と均分相続によって土地は人々(特に男性)に平等に配分されました。しかし、
人口増加とともに土地は縮小してゆき、わずかな私有地を借地するためでも高い小作料を支払わなければならなくなります。
 もう一つ注意しなければならないのは、当時のロシアは工業化を達成しつつあったとはいえ、そのペースは増加する農民の過剰労働力を吸収するほどではなかったことにあります。イギリスの歴史家、E・H・カーは、ロシアの工業化のペースがロシア帝国の農村人口の増加速度にくわべてきわめて低かったといっています。
 ともあれ、農民、特にわずかしか土地を持たない小家族=貧農は大いなる不満を持ちます。その怒りは、19世紀末から20世紀初頭には、不当な不労所得を得ている地主に対して向けられることになりました。
 最初の大きな爆発は、1905年の第一次ロシア革命の時に生じました。このとき、全ロシア農民同盟という組織は、大土地所有を無償で没収し(土地の社会化)、それを農民の間で平等に分配することという要求を出しました。

 これに対して当時のロシアの世論はどうだったでしょうか?
 興味深いのは、帝政ロシア政府は、こうした農民の要求を断固として拒否し、むしろ農村共同体の土地共有制度が農民運動の急進化の背景にあると考えて、それを破壊しようとしました。土地の私有化の政策です。
 さらに面白いのは、1913年に内務省が準備した法案です。
 この法案は、家族の内部の均分相続を停止させ、事実上の一子相続制をロシア農村に導入しようとするものでした。つまり、私たちがイングランドやドイツ、バルト地域で見られたような相続制度を「上から」導入しようとしたのです。これは、農業者を「優先的相続人」だけにし、弟たちを工業をはじめとする非農業部門に流し込むという「西側」の発展経路にロシアを誘導しようつする意図を持つものでした。
 しかし、この計画は第一次世界大戦によって頓挫します。そして、1918年に急進的な土地革命がついに実施されるにいたりました。

 もちろん、これで終わりというわけではありません。1918年の土地革命もすべてを解決したわけではありません。それは一面では、農民の土地保有を平等化しましたが、他面では、農村の人口増加を促しただけであり、農民一人あたりの土地面積を狭くするという昔から続いて来た傾向を押しとどめることはできませんでした。
 もし1920年代も続いたこの傾向が1930年代の持続していたならば、ロシアは巨大な農業国・農民国になっていたかもしれません。(実際には、その途中で、1930年代に農業の集団化が行われ、それと同時に計画経済による工業化が推進されました。)

 



 
  






ヨーロッパの伝統的家族と相続 7 ポーランド・ウクライナ・リトアニア・白ロシア

 家族史にとってロシア(大ロシア)とドイツ・オーストリアとの中間地域は、まだが研究が十分に行われているとは言えない地域といっていいかもしれません。少なくとも私にとっては不明な点が多数あります。

 この地域には、かつてポーランド王国とリトアニア大公国が存在していましたが、この両国は1550年代に併合し、ポーランド・リトアニア共和国をつくりました。そのうち旧リトアニア大公国の領域は、大体現在のリトアニアとベラルーシ(白ロシア)に重なっており、旧ポーランド王国の領域は、現在のポーランドとウクライナに重なっていますか。その後、ポーランド・リトアニア共和国を構成していた地域は、大部分がロシア帝国に編入され、旧スウェーデン領だったバルト3県とともにロシア帝国内のヨーロッパ・ロシアの西部諸県(ポーランド王国諸県、リトアニア諸県、白ロシア諸県)に編成されました。一方、同共和国の一部(現在のポーランドの一部とウクライナの西部)はオーストリア帝国に編入され、ガリシア(Galicja)地方を構成することになりました。したがって現在ニュースをにぎわしてるウクライナは、かつてはポーランド王国に属しており、その後、ポーランド分割によってロシア帝国とオーストリア帝国に分かれ、最後にソ連時代を経て、1991年以降、独立の国家になった地域ということになります。

 このうち旧リトアニア大公国領(リトアニアと白ロシア)における家族史についてはW・コンツェ氏が主に土地台帳にもとづいて実証的な研究を行なっており(1940年刊行)、基本的な事柄が明らかにされています。一方、旧ポーランド王国領(ポーランドとウクライナ)については、ソ連時代になされた研究があり、私もキエフ市で集めた史料(課税台帳)にもとづいてちょっと調べたことがありますが、なお判然としないところがかなりあります。

 これらの地域では、15世紀以降、西方(ドイツ)からの影響下に「フーフェ」(voloka, wloka, valakas)の制度が導入され、それが同地域の農業・土地制度に大きな影響を与えたことは間違いありません。フーフェとは一定面積の耕地(通常は33エーカーに等しい)を意味します。それが導入された村落では、測量によって耕地が1フーフェずつに区画化され(ただし、三圃制、混在耕地制のため、耕地が必ずしも一つの区画をなしているというわけではありません)、原則として各農家に1フーフェの耕地が形式的に平等に分配されました。そして国家または貴族領主は、このフーフェを基準として各種の賦役・公課を課税することになります。
 しかし、それまで各地に存在していた家族制度の作用により、フーフェ制が導入されて以降の家族類型や相続制度も、またフーフェ制そのものも、「西側」におけるものとは著しく異なったものとなったことは間違いありません。

 まずフーフェ制の導入以前には、土地台帳(課税台帳)では、農民の定住地を構成する基本的な単位=世帯(イエ)を表わす言葉として dvor, dvorishche, dym などが使われていました。W・コンツェ氏やソ連の研究者が明らかにしたように、これらの世帯は、基本的には複合世帯であり、かつ結婚した兄弟の同居を特徴とする(横への拡大を伴う)複合大家族でした。この特徴は、リトアニア、特にバルト海に面したサモギティア(コヴノ県)では弱く、むしろ直系家族的な色彩が強くなる傾向がありましたが、内陸部に入るにつれて強くなり、東スラブ人(白ロシア人およびウクライナ人)のもとでは一般的な特徴となります。

 かくして一つの問題は、16世紀以降にフーフェ制が導入されたとき、フーフェと世帯がどのような関係にあったのか、つまりフーフェがどのように世帯に配分されたかにあります。当時、白ロシアやウクライナでは、まだ開墾されていない土地が広範に存在し、したがって測量によって村落フーフェが創り出されたとき、相当数の「自由フーフェ」(農民によって占取・利用・耕作されていないフーフェ)が存在しました。しかし賦役・公租を増やすという国家および領主の利害からすれば、なるべく多くのフーフェを農民に占取させることが求められたことは言うまでもありません。つまり厳格に言えば、ドイツなどで行われたように、直系家族または核家族に対して1フーフェを分け与えることが期待され、求められるべき原理だったとでした。少なくとも1フーフェを結婚した複数の兄弟に対して配分するといったことは避けるべきことでした。
 しかし、この原理は決して守られたとは言えません。白ロシアやウクライナの多くの村落では、複数の夫婦(兄弟夫婦)がフーフェを受け取りました。そのような場合、事実上は、複合世帯をなしていた各夫婦(核家族、または親を含む直系家族)が部分フーフェ(半フーフェ、3分の1フーフェなど)を受け取り、土地台帳上はフーフェの一体性が維持されているようにふるまったか、それとも実際に複合世帯を存続させ、次の世代に家族分割を実施し、部分フーフェに分かれたか、のいずれかであったと見られます。
 ちなみに、人口増加とともに「自由フーフェ」はしだいに姿を消してゆきますが、それがどのような手続きによって占有されるにいったったのかは、必ずしも明らかではありません。
 ともかく、フーフェ制の導入が即座に家族形態と相続制度を大きく変えたということはなかったと考えられます。事実、1861年に実施された農奴解放の前後においても、このようにフーフェが複合大家族によって保有されているという状態は続きました。したがって19世紀後半には西部諸県でも(ただしバルト諸県やコヴノ県の事情はまったく異なります)、人口増加と同時に進行した家族分割の波の中で世帯あたりの耕地面積は大幅に縮小するに至ります。(ただし、ウクライナでは、土地を保有しない農村下層民が人口比では少数であるとはいえ存在します。それがどのようにして生まれたのかは、私には不明です。)
 
 以上はロシア帝国領に編入された部分についてですが、旧オーストリア・ハンガリー帝国領に含まれることになった部分(ガリシア、レンブルグ周辺部)については、事情が異なるかもしれません。もしかすると、<不平等な相続を伴う直系家族>というドイツ的な制度の強い影響のもとに大きな変化があったかもしれませんが、不明です。
 

2014年3月1日土曜日

ヨーロッパの伝統的家族と相続 6 リトアニアと白ロシアの家族類型

 E・トッド氏の『世界の多様性』(藤原書店、2008年)は、世界のすべての家族・相続類型を論じた興味深い著書・大作であり、巻末に家族類型の地理的分布図を示していますが、細かなところではいくつかの修正が必要なように思います。
 その一つはいわゆるバルト地域です。この地域は、19世紀末には帝政ロシアの版図に含まれており、当時の行政区画では、バルト諸県(リーフラント、エストラント、クールラント)に分かれていました。また現在のリトアニアに編入されている範囲はおおむね(ということは完全には一致しないということですが)帝政ロシアのリトアニアに対応していました。このリトアニア地域には、バルト海に面したコヴノ県(カウナス県)とそこから内陸に向かういくつかの県が含まれていました。コヴノ県は、別名で言語によってサモギティア(Samogitia)とか、シャーマイテン、ジェマイティア(ドイツ語:Schamaiten、リトアニア語:Jemaitia)とも呼ばれていた地域です。

 さて、問題となるのは、以上のうち、バルト諸県からコヴノ県にかけての沿バルト海(ドイツでは東海)地域です。ここで支配的だったのは、外婚的な共同体家族(均分相続制を伴う)ではありませんでした。
 そこで支配的だったのは、ドイツの多くの地域で見られたような直系家族(一子相続制を伴う)でした。ただし、バルト諸県やコヴノ県からヴィリニュース県を経て内陸に向かうと状況は大きくことなってきます。これらの内陸諸県では、リトアニア諸県でもしだいに、また白ロシアでは決定的に支配的な家族は複合的な共同体家族の様相を強めてゆき、また相続も均分相続になります。
 このことは、リトアニアと白ロシアの地域については、ドイツ人の社会史家、ヴェルナー・コンツェ氏のモノグラフィー(東方研究)で疑問の余地なく明らかにされています。
 
 Werner Conze, Agrarverfassung und Bevolkerung inLitauen und Weissrussland, Bd. 1 (1940).  

 おそらくトッド氏は、英語文献とフランス語文献を中心に検討され、ドイツ語とロシア語の文献については精査されなかったためと思われます。しかし、別の場所(372〜373ページ)では、ロシア帝国内でバルト海地域からのロシア内陸部への文化的テイクオフについて触れており、バルト海沿岸地域が高い識字率で注目されることなど、文化的・経済的に特別な位置にあったことは認めており、非常に興味を引きます。

ヨーロッパの伝統的家族と相続 5 フランスの平等主義

 私にとって、フランスは非常に興味をひく国の一つです。まず1789年にはじまるフランス革命のスローガン「自由、平等、博愛」(liberte, egalite, et fraternite)が気になります。これに対して1640年代のイギリスの内戦は、責任内閣制にもとづく議会制政治をもたらし、「自由」を実現したということができますが、そこには「平等」がありません。近代イギリス経済史の上でも、近代性が強調されながら、17〜19世紀に土地の所有権は、ジェントリー(gentry)、つまり本来的には封建制時代の封建領主(諸侯、騎士)に由来する階層または彼らから土地の領有権・所有権を買い取った富裕な商人たちに帰します。農夫たち(farmers)は、例え村落内では農業労働者(奉公人、小屋住みに由来する階層)を雇う富裕層であるとしても、借地権者(tenants)に他なりません。
 ただし、イングランドは、一子相続制の国だという通説に対して、実際上は均分相続が行われていたとする異説がないわけではありません。ジョアン・サースク(J. Thirsk)などがその一人であり、外見上兄の単独相続であっても、弟の独立時に兄が財産の一部を分け与えるので、実際上は分割相続が行われる場合があったと主張されています。しかし、そうだとすると、イングランドやスコットランドにおける多数の奉公人と小屋住みの形成は、その場合にどのように説明されるのか疑問が残ることになります。
 
 これに対してフランスでは家族史の上でも「自由」と「平等」が大きな主題となっています。そもそもフランス革命中にジャコバン派は、封建的特権を無償で廃止するというかなり急進的・平等主義的な変革を行いました。トッド氏は、フランスの政治史上の自由・平等と家族史上の自由・平等の一致は決して偶然ではないと言いますが、私も密かにその意見に賛成です。

 さて、フランスの家族史の研究者は、フランスが3つの地域に大別されるという点で一致を見ているようです。法制史家のジャン・イヴェールやそれに依拠して相続および家族のありかたを整理した社会史家のエマニュエル・ル=ロワ=ラデュリも基本的に3つの類型を区別しています。1983年に出版された『家の歴史社会学』(新評論)にラデュリの論文が掲載されており、二宮宏之氏による整理が掲載されていますし、また安岡重明氏の論文(「日欧の家産単独相続に関する覚書」*)もそれに触れていますので、詳しくはそちらに譲りたいと思いますが、それらを参考にして簡単に要約すれば、次のようになるかと思います。
http://doors.doshisha.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=BD00008269&elmid=Body&lfname=007000470001.pdf
 なお、この論文には、相続慣行の分布図がつけられており、各相続類型の地理的な分布を知るのに役立ちます。

 A 一子優先型(地域的には南部のオック語の地域からその北部周辺部にかけて)
 ここでは子供の中の一人(主に長男)に優先継承権(preciput)が認められており、親は遺言によって特定の子供を優位に置くことができる。
 B   均分相続型(西部のノルマンディー、ブルターニュ地方など)
 ノルマンディーのように、男子間の均分相続とされて女子が排除される場合もあるが、多くの場合には男女を区別しない均分相続を特徴とする。相続以前に婚資などの形で財産の贈与を受けていた場合、相続の際、その分をいったん遺産に「持ち戻す」(raporter)ことを強制される。
 C 中間的解決(オルレアン、パリ盆池など)
 AとBの「中間的解決」の型。この型の原型においては、生前贈与を受けた者は相続から排除され、他の者の間で均分相続が実施された。しかし、16世紀以降に新しい型が行われるようになり、生前に贈与を受けた者も、その分を持ち戻すことによって相続に参加することを許される。いわゆる中間的解決であり、選択許容型である。
 D この他にノルマンディーのコオ地方に完全な長子相続型が存在したが、この型はフランスでは例外的であった。

 問題は、こうした相続慣習の類型がどのような家族類型に関係しており、またどのような経済事情と結びついていたかにあります。
 
 まず、A(一子優先型)が出来るだけ家族(経営)の分割を避け、永続的家族財産を守ろうとする家族戦略と関連していたことは明らかです。しかし、この相続戦略の問題点が、特に人口が急速に増加している時期に、多数のプロレタリア(土地なし)を生み出すことにあります。このことはすでにイングランドやドイツの場合に関連して触れました。

 では、西部のB(均分相続型)の場合はどうでしょうか? 
 前回、帝政ロシア・ソビエト初期の共同体家族における均分相続の問題を簡単に見ておきましたが、同様なことがフランスでも生じていたのでしょうか?
 イヴェールとラデュリの明らかにしたところによれば、フランス西部における事情はかなり異質です。そこでは次の2点が強調されています。
 1 人々は、家族の「土地の細分化の危険性」に対しては無関心であり、それよりは夫婦それぞれの家系(系族、lineage)の価値を優先させる。その定式は、「父親の財産は父方の家系の人々に、母親の財産は母方の家系の人々に」であり、この規則は厳格に適用される。18世紀のある法学者は、こうした西部の土地制度を評して、「父方と母方の親族は、共同相続人ではない。彼らは共通のものを何一つ持たない。そして、父方の親族よりも、むしろ土地の領主が母方の親族の遺産を相続する」という。
 つまり、こういうことです。ある夫婦について、夫は父方および母方それぞれの系族の財産を相続し、妻も父方および母方のそれぞれの財産を相続し、それらの財産はそれぞれ子供たち(息子と娘)に伝えられてゆく。しかし、もし相続するべき子供がいない場合には、財産はさかのぼって各系族の人々に相続されるか、(それができない場合には)領主や徴税請負人に与えられる、と。 
 2 そこで、家族関係の核心をなす夫婦の統一に関しても無関心とされる。「夫婦二人は、異なる家系から出て、やがて死すべき存在として一時的に結合しているに過ぎない(!)」という。
 
 ところで、それにしても、近代に人口が増加したとき、「土地の細分化の危険性」は現実のものとならなかったのでしょうか?
 たしかにフランスについては、「分割地農民」(農地を細分化された(parcelliser)農民)が経済史の教科書にも出てきます。しかし、フランスの当該地域(西部のブルターニュやアンジュ地方など)では、そもそも農地の主要部分が自作農(fermiers)の保有する土地であると考えることが正しくないのかもしれません。
 というのは、確かにA(一子優先型相続)の地域は、自作農が優勢な地域でしたが、それに対してBの支配的な西部は、小作制と大規模経営の支配的な地域でもあったからです。つまり、西部では村落家族は、かなりの程度に土地を持たない・プロレタリア化されていたため、生産手段としての土地=永続的家族財産を維持することに関心を持たずにいることが出来たと考えられます。この点は、フランス革命時の土地革命におけるこの地方の対応を検討することからもうかがえます。

 C 中間的解決の地域(オルレアン、パリ盆池)
 上に上げた2つの体系に対して、中間的解決の体系は、少し複雑です。
 第一に、「法の最も古い成層」で優越しているのは父と母の意志(つまり遺言)でした。それは保有地を細分化しないようにという配慮とも関係していたことは間違いありません。そのために適用された慣習法の条項は、次のようなものでした。つまり、両親は家を離れて他所で結婚する子供(息子、娘)にいくぶんかの贈与を与え、これらの「独立した子供たち」を遺産相続者から排除しましたが、一方、家に(未婚のまま)とどまって老齢期の両親の面倒をみる子供(息子、娘とも)に対しては、「単純な平等」(均分相続)を保証しました。
 この体系は、平均的に二人を少し超える子供が結婚可能な年齢に達するという古い形の人口誌にはよく適合していたと考えることができます。つまり、生き残った二人の子供のうちの一人(主に男子)は両親と同居し、そして時が至れば(つまり家長が亡くなれば)遺産の相続をするように定められていました。また、もう一人の子供(多くの場合、娘)は、適当な時に婚資(という名の贈与)を与えて排除すればよい、というわけです。
 しかし、このオルレアン=パリ型の慣習法は、ルネサンス期から(14世紀以降)変化してゆきます。13〜15世紀以来、パリとアミアンの慣習法は、家を離れる子供たちのために緩和策をとっていたが、その一つは、子供たちの婚姻契約書の中に贈与の取消し(rappel)という特別条項を入れた場合、両親が死亡し相続が行われるときに、贈与を取り消した上で、遺産の分け前を要求することができるというものでした。ただし、当時、書面による契約のもとに結婚できるような農民は希だったに違いありません。
 1510年頃、パリ周辺で新しい慣行が樹立されました。この新たな慣行は、選択と持戻しという2つの言葉で要約されます。またそれは、「何人も受贈者であり、相続人であることはできない」という規定に示されます。つまり、ひとたび贈与を受けて家を離れた人も相続のときにかつての贈与を取り消し、贈与分を持ち戻すことによって相続に参加できることになりました。贈与を取り消すことなく相続に参加しないか、贈与を取り消して相続に参加できるか、そのいずれかを選択することができるというのが新しい慣習法の精神です。(ちなみに、フランスでもローマ法=制定法の世界は、南部に限られており、中央部から北部にかけては慣習法が大きな力を持っていました。)

 こうしてパリ盆池周辺では、16世紀以降、より柔軟で寛容な法の下で、農民保有地の細分化をもはや阻止できないようになってきます。そして、そこでは、帝政ロシアの場合のように権威主義的な複合大家族、または共同体家族(父母の下で結婚した兄弟が同居するようなタイプの家族)ではなく、小さな核家族がますます支配的になってゆきます。
 夫婦と未婚の子供たちからなる核家族と平等な相続。これはフランス民法典に示されるきわめて近代的な家族制度ということができます。
 しかし、それは工業化以前の伝統的社会の中でどのようにして可能となったのでしょうか? またそれはロシアや中国のような国が抱えこむことになった「土地不足」「農村過剰人口」の問題をもたらすことはなかったのでしょうか?
 この問題を説く鍵の一つは、パリ盆池が近代に多数の農業労働者をかかえる大経営の地域となっていたことにあります。そもそもパリ盆池は、自営農の地域ではなく、プロレタリア化した村落住民の地域となっていました。

 多様な家族類型を持つフランス。この多様性は、フランス革命時の土地革命に際しても現れてきます。