2016年10月13日木曜日

「賃金デフレ」はなぜ日本だけで生じてきたのか? 1 

 1997年以降、日本はかなり激しい「賃金デフレーション」に見舞われてきた。
 簡単に言えば、これは、<賃金率の低下→雇用者所得の減少→消費支出=消費需要の縮小→景気悪化→賃金率の低下>という悪循環に陥ったことを示している。

 しかし、こうした「賃金デフレ」が見られたのは、少なくとも主要国の中では日本だけではなかっただろうか? 確かに米国でも賃金圧縮(wage squeeze)が生じ、その結果、賃金シェアーの低下が見られ、労働生産性が上昇しても実質賃金がほとんど上昇しないという現象が1970年代以降顕著となっていた。しかし、この場合でも、貨幣賃金(名目賃金)は上昇していた。もっとも米国では1980年代から今日に至るまでマイルドなインフレーション(消費者物価の上昇)が生じていたため、実質賃金がほとんど上がらなかったことも付け加えておかなければならない。

 本題に戻ろう。なぜ日本のみ貨幣(名目)賃金の低下を伴う「賃金デフレ」だったのか?
 結論的に言えば、それはジョン・ガルブレイスのいう「対抗力」(counterveiling power)が1990年代以降に労働側から失われてきたからである。

 対抗力とは何か?

 私たちの暮らしている経済社会(資本主義社会、企業者経済)では、ほとんどの人々は企業に雇われ、賃金所得を獲得し、それによって消費財・サービスを購入して生活している。つまり、企業とそれに雇われる従業員というのが現代社会の根本的なしくみである。これは今さら指摘するまでもない事実である。
 ところで、新古典派の教科書では、現代経済のプレーヤーは依然として個人であり、しかも「原子論的な個人」(atomized man)である。そこではすべてのプレーヤーが市場において平等に契約し、取引を行う。

 しかし、それは机上の理論(theory on paper)にすぎない。ソースティン・ヴェブレンも、ジョン・ケインズも、ジョン・ガルブレイスも、現実には大きな権力を持つ巨大企業が存在し、その前に諸個人は無力な存在にすぎないことを十分に理解していた。
 このことを例解する様々な歴史的事象があるが、ここでは先を急ぎ、一点を除いて、一切省略しよう。一点というのは、資本主義経済の歴史において、賃金の成長は常に労働生産性の成長にずっと遅れていたということである。もちろん、労働側の力が弱かったためである。これは、まだ資本主義経済が始まった場会の時期に経済学を作り出したアダム・スミスでさえ『諸国民の富』で指摘している重要なるポイントである。

 ところが、戦後の1950年代~1970年代の復興と成長の時代に、この傾向は弱められた。これは最近注目されたトマ・ピケティの『21世紀の資本』でも指摘されている事柄であるが、その背景には労働側が戦後大きな「対抗力」を得るに至っていたという歴史的な事情がある。それは様々な制度的要因に支えられていた。例えば民主化と普通選挙権による社会民主主義勢力やリベラル左派の台頭、労働保護立法、完全雇用政策、福祉国家的な諸制度の成立などである。


 だが、この傾向もすぐにふたたび逆転する。1980年代から現在に至るまで、アングロ・サクソン系諸国を筆頭とする「新自由主義」政策の再台頭によって、労働側の「対抗力」は著しく弱められてきた。ここまでは、主要国にほぼ共通する変化である。

 しかし、それではなぜ日本だけが「賃金デフレ」に見舞われたのか?
 これも本質的には制度的な要因によって説明される。

 まず「賃金デフレ」とはなっていない外国の場合、例えばドイツを例に取ろう。
 この国には、日本と異なって強力な労働組合組織がある。しかも、それは日本と異なって企業別組合ではなく、職能別・産業別の組合組織である。その中央組織は、現在でも賃金決定に関する力を有している。また法(EU指令も含めて)は、労働条件に関する労使の共同決定を義務づけている。
 ただし、ドイツの労働組合は企業に対して無制限に賃金の引き上げを強要するほどの力を持っていない。その力は次のような事情によって制約されている。
 その事情とは、ドイツが戦後一貫して「重商主義」の道を歩んできたことである。現在でもドイツは、GDPの8パーセントに等しい貿易黒字を実現している。もちろん、ドイツ企業がこのような行動を取ることができるのは、ドイツ以外の諸国(あるいは少なくともどこかの国)が貿易収支の赤字を経常することを前提としている。ともあれ、ドイツ経済は、この重商主義政策を可能とするために、ドイツ連邦銀行のある行動によって統制されている。簡単に言えば、ドイツ連邦銀行は、輸出超過を可能とするために常に「単位労働費用」を引き下げることを基準として、労働者の賃金要求が労働生産性の上昇を決して超えないように監視しており、もし労働組合の賃金要求がそれを超えるようであれば、金融引き締めを行い、輸出を減らし、輸出に依存しているドイツの企業が従業員を解雇するという「脅し」をかける。これは伝統的なドイツ連邦銀行の金融政策である。

 また英仏米には、それぞれに特有な制度的背景があるが、これについては後日機会をみて触れたい。

 これに対して、わが国ではどうだろうか?
 おそらく、私よりも実際に日本企業に雇われ、働いている人のほうが実感的によく知っていることが多いかもしれない。
 まず日本の労働組合が企業別組合であることは言うまでもない。これは企業と従業員との特別な関係を構成する。しかも、以前は行われていた「春闘」は力を失ってしまった。さらに1990年代初頭に始まった金融危機(バランスシート不況)が独特の条件(赤字補てんための利潤の利用法、投資、消費の動向など)を生み出してしまった。また1995年の『新時代の日本的経営』に示された雇用戦略の転換(非正規雇用による低賃金労働の普及)を政治と世論が許してしまった(つまり財政構造改革や構造改革のこと)。さらにそうした状況の中で、21世紀初頭に失業率が高まってきたが、それは賃金の引き上げに対する圧力となるばかりか、引き下げを許す圧力を強めてしまった。
 前にも本ブログで紹介したが、2000年の日銀による調査報告は、日本企業が賃金の引き下げと価格引き下げによって状況を打開しようとするように方向転換することの危険性を指摘している。

 しかし、現実には、日本経済は、経済の中で最も重要な部分(労使関係と賃金の決定力学)に目をつむり、この危険な道をその後も続け、--おそらく最もさしつかえのないと思われた--金融政策による解決に問題を委ねようとした。
 しかしながら、「賃金デフレ」の根本要因が以上の事実にあるからには、金融政策はまったく有効性を持たないことは言うまでもない。
 
 そもそも貨幣ストック(実際には中央銀行がそれなりに決定できるのは、マネタリーベースである)が増加すると、物価があがり、それによって景気がよくなるなどという「経済理論」は、どんな正常な思想からも出てくることはありそうにない。

 実際にはインフレは、「所得分配をめぐる紛争」から生じるのであり、例えば賃金が労働生産性より引き上げられた場合に、企業が利潤圧縮を避けようとして、販売価格を引き上げる、等々である。その際、貨幣賃金の増加は、人びとの名目所得を増やし、名目消費需要を増やし、企業の名目利潤を増やすかもしれない。
 これは、次の恒等式をよく検討すれば理解できるだろう。(この式では、簡単のために、各企業にとって必要な原材料の金額や資本財の金額=減価償却費は捨象する。)

  Y=QP=W+R    (1) Y:生産額、 Q:生産量、P:価格、 W:賃金、 R:利潤
  P=(W+R)/Q    (2)


 なお、(1)式は、個別企業にも、また社会全体でもあてはまる式である。この点で、きわめて奇怪な貨幣数量説とはまったく異なるものである。


 参考のために、2016年10月10日の「東京新聞」11ページのグラフをあげておく。




(この項、続く)
 
 

「賃金デフレ」はなぜ日本だけで生じてきたのか? 1 

 1997年以降、日本はかなり激しい「賃金デフレーション」に見舞われてきた。
 簡単に言えば、これは、<賃金率の低下→雇用者所得の減少→消費支出=消費需要の縮小→景気悪化→賃金率の低下>という悪循環に陥ったことを示している。

 しかし、こうした「賃金デフレ」が見られたのは、少なくとも主要国の中では日本だけではなかっただろうか? 確かに米国でも賃金圧縮(wage squeeze)が生じ、その結果、賃金シェアーの低下が見られ、労働生産性が上昇しても実質賃金がほとんど上昇しないという現象が1970年代以降顕著となっていた。しかし、この場合でも、貨幣賃金(名目賃金)は上昇していた。もっとも米国では1980年代から今日に至るまでマイルドなインフレーション(消費者物価の上昇)が生じていたため、実質賃金がほとんど上がらなかったことも付け加えておかなければならない。

 本題に戻ろう。なぜ日本のみ貨幣(名目)賃金の低下を伴う「賃金デフレ」だったのか?
 結論的に言えば、それはジョン・ガルブレイスのいう「対抗力」(counterveiling power)が1990年代以降に労働側から失われてきたからである。

 対抗力とは何か?

 私たちの暮らしている経済社会(資本主義社会、企業者経済)では、ほとんどの人々は企業に雇われ、賃金所得を獲得し、それによって消費財・サービスを購入して生活している。つまり、企業とそれに雇われる従業員というのが現代社会の根本的なしくみである。これは今さら指摘するまでもない事実である。
 ところで、新古典派の教科書では、現代経済のプレーヤーは依然として個人であり、しかも「原子論的な個人」(atomized man)である。そこではすべてのプレーヤーが市場において平等に契約し、取引を行う。

 しかし、それは机上の理論(theory on paper)にすぎない。ソースティン・ヴェブレンも、ジョン・ケインズも、ジョン・ガルブレイスも、現実には大きな権力を持つ巨大企業が存在し、その前に諸個人は無力な存在にすぎないことを十分に理解していた。
 このことを例解する様々な歴史的事象があるが、ここでは先を急ぎ、一点を除いて、一切省略しよう。一点というのは、資本主義経済の歴史において、賃金の成長は常に労働生産性の成長にずっと遅れていたということである。もちろん、労働側の力が弱かったためである。これは、まだ資本主義経済が始まった場会の時期に経済学を作り出したアダム・スミスでさえ『諸国民の富』で指摘している重要なるポイントである。

 ところが、戦後の1950年代~1970年代の復興と成長の時代に、この傾向は弱められた。これは最近注目されたトマ・ピケティの『21世紀の資本』でも指摘されている事柄であるが、その背景には労働側が戦後大きな「対抗力」を得るに至っていたという歴史的な事情がある。それは様々な制度的要因に支えられていた。例えば民主化と普通選挙権による社会民主主義勢力やリベラル左派の台頭、労働保護立法、完全雇用政策、福祉国家的な諸制度の成立などである。


 だが、この傾向もすぐにふたたび逆転する。1980年代から現在に至るまで、アングロ・サクソン系諸国を筆頭とする「新自由主義」政策の再台頭によって、労働側の「対抗力」は著しく弱められてきた。ここまでは、主要国にほぼ共通する変化である。

 しかし、それではなぜ日本だけが「賃金デフレ」に見舞われたのか?
 これも本質的には制度的な要因によって説明される。

 まず「賃金デフレ」とはなっていない外国の場合、例えばドイツを例に取ろう。
 この国には、日本と異なって強力な労働組合組織がある。しかも、それは日本と異なって企業別組合ではなく、職能別・産業別の組合組織である。その中央組織は、現在でも賃金決定に関する力を有している。また法(EU指令も含めて)は、労働条件に関する労使の共同決定を義務づけている。
 ただし、ドイツの労働組合は企業に対して無制限に賃金の引き上げを強要するほどの力を持っていない。その力は次のような事情によって制約されている。
 その事情とは、ドイツが戦後一貫して「重商主義」の道を歩んできたことである。現在でもドイツは、GDPの8パーセントに等しい貿易黒字を実現している。もちろん、ドイツ企業がこのような行動を取ることができるのは、ドイツ以外の諸国(あるいは少なくともどこかの国)が貿易収支の赤字を経常することを前提としている。ともあれ、ドイツ経済は、この重商主義政策を可能とするために、ドイツ連邦銀行のある行動によって統制されている。簡単に言えば、ドイツ連邦銀行は、輸出超過を可能とするために常に「単位労働費用」を引き下げることを基準として、労働者の賃金要求が労働生産性の上昇を決して超えないように監視しており、もし労働組合の賃金要求がそれを超えるようであれば、金融引き締めを行い、輸出を減らし、輸出に依存しているドイツの企業が従業員を解雇するという「脅し」をかける。これは伝統的なドイツ連邦銀行の金融政策である。

 また英仏米には、それぞれに特有な制度的背景があるが、これについては後日機会をみて触れたい。

 これに対して、わが国ではどうだろうか?
 おそらく、私よりも実際に日本企業に雇われ、働いている人のほうが実感的によく知っていることが多いかもしれない。
 まず日本の労働組合が企業別組合であることは言うまでもない。これは企業と従業員との特別な関係を構成する。しかも、以前は行われていた「春闘」は力を失ってしまった。さらに1990年代初頭に始まった金融危機(バランスシート不況)が独特の条件(赤字補てんための利潤の利用法、投資、消費の動向など)を生み出してしまった。また1995年の『新時代の日本的経営』に示された雇用戦略の転換(非正規雇用による低賃金労働の普及)を政治と世論が許してしまった(つまり財政構造改革や構造改革のこと)。さらにそうした状況の中で、21世紀初頭に失業率が高まってきたが、それは賃金の引き上げに対する圧力となるばかりか、引き下げを許す圧力を強めてしまった。
 前にも本ブログで紹介したが、2000年の日銀による調査報告は、日本企業が賃金の引き下げと価格引き下げによって状況を打開しようとするように方向転換することの危険性を指摘している。

 しかし、現実には、日本経済は、経済の中で最も重要な部分(労使関係と賃金の決定力学)に目をつむり、この危険な道をその後も続け、--おそらく最もさしつかえのないと思われた--金融政策による解決に問題を委ねようとした。
 しかしながら、「賃金デフレ」の根本要因が以上の事実にあるからには、金融政策はまったく有効性を持たないことは言うまでもない。
 
 そもそも貨幣ストック(実際には中央銀行がそれなりに決定できるのは、マネタリーベースである)が増加すると、物価があがり、それによって景気がよくなるなどという「経済理論」は、どんな正常な思想からも出てくることはありそうにない。

 実際にはインフレは、「所得分配をめぐる紛争」から生じるのであり、例えば賃金が労働生産性より引き上げられた場合に、企業が利潤圧縮を避けようとして、販売価格を引き上げる、等々である。その際、貨幣賃金の増加は、人びとの名目所得を増やし、名目消費需要を増やし、企業の名目利潤を増やすかもしれない。
 これは、次の恒等式をよく検討すれば理解できるだろう。(この式では、簡単のために、各企業にとって必要な原材料の金額や資本財の金額=減価償却費は捨象する。)

  Y=QP=W+R    (1) Y:生産額、 Q:生産量、P:価格、 W:賃金、 R:利潤
  P=(W+R)/Q    (2)


 なお、(1)式は、個別企業にも、また社会全体でもあてはまる式である。この点で、きわめて奇怪な貨幣数量説とはまったく異なるものである。


 参考のために、2016年10月10日の「東京新聞」11ページのグラフをあげておく。




(この項、続く)
 
 

連合王国(イギリス)のEU離脱を考える(3) 議論

 EUとユーロ圏の将来を考える、といいながら、だいぶん日にちが経過してしまった。

 この問題は、根本的な将来ビジョンをどのように考えるかにより、見解がまったく異なってくるため、やっかいな問題を含んでいるように思われる。ここで「根本的なビジョン」というのは、EUまたはユーロという単一通貨制度はずっと維持されるべきなのか、それとも有害物として(かりに例えば数十年後の将来に復活されるとしても)現在廃止されるべきなのかというものである。

 『時間稼ぎの資本主義-いつまで危機を先送りできるか』の著者、ヴォルフガング・シュトレークは、ユーロが維持不能であり、現在ユーロ圏は「時間稼ぎ」(saving time)をしているだけであると主張し、他方、EUおよびユーロ圏のこれまでの、また現在のありかたに厳しい批判の目を向けてきたユルゲン・ハーバーマス*は、シュトレークの指摘している問題点を「経済政策上」のものとしてした上で、根本的には民主化によりEUを再建しなければならないという見方である。
  *「デモクラシーか資本主義か?」『世界』岩波書店、2016年9月号。
 シュトレークの議論は、金融危機というきわめて深刻な事態を惹起するような通貨統合と政策運営、しかも政治的、財政的統合なき通貨統合であったため、EUがこの深刻な事態に対処できないでいることを適確に示している。これはイギリスのポスト・ケインズ派の示すところでもある(すでにニコラス・カルドア氏は、通貨統合前にこの<政治統合なき通貨統合の>問題点を適確に指摘していた。)
 一方、ハーバーマスは、世界社会が資本主義によって統合されている(グローバル化されている)現在、人々が国民国家ごとに分断化されているのは、悲惨であると主張する。この問題提起は、私の恩師の一人、宮崎義一氏(故人)がグローバル化された世界にはグローバルなケインズ主義が必要であるとされていた主張に対応するものであろう。
 私の意見では、「存在しない一つのヨーロッパ」(ein Europa, das es nicht gibt)という著書を著したDominik Geppert が言うように、実際には現在のEU制度の下で、一つのヨーロッパが存在するどころか、各国にまったく分断されている状態である。それは何よりも、通貨統合はされたが、財政統合がほとんど行われていないことに示されている。そのため、特に周辺諸国で金融危機と財政危機が深刻な事態にまで進展しても、それを抑えるためにEUの共通財政からの支出が行われておらず、各国政府にまかされている。エマニュエル・トッド氏が皮肉ったように、実際に存在するのは「一つのオイローパ」(ein Europa)、すなわちドイツのEU支配という現実である。
 現在のEUにおける社会経済問題の解決が前提としているEUの運営・制度の財政的な統合=民主化がそもそも実現可能なのかどうか、つっこんだ議論が必要となる所以である。

 ここでは、考える糸口として、最近、ピケッティが書き表した論評の一部を日本語に訳して以下にあげておく。
 ピケッティは、EUがこれまで Brexit といった事態を招くような様々な運営を行ってきたことを批判しながらも、そうした運営をもたらした制度的欠陥を指摘した上で、EUを再建することが可能だと考え、そのための諸方策を提言している。私には、単にEUの民主化によっては克服できない社会経済上の問題があるのではないか、という疑問をこれによって完全に払拭できるわけではないが、この論説が現在EUのかかえている問題点の一端を明らかにしていることは間違いないであろう。
 
 トマ・ピケッティ  Brexit 後にヨーロッパを再建する
 http://piketty.blog.lemonde.fr/2016/06/30/reconstructing-europe-after-brexit/

素直になろう。2016624日の夜明けまで、誰もイギリス人が本当に Brexit 【英国のEU離脱】に賛成票を投じようとしていたとは信じていなかった。大惨事が襲ったいまや、落胆を感じ、ヨーロッパの民主主義的で進歩的な再建のどんな夢をも捨て去ることが誘惑的となっている。しかしながら、私たちは耐え、希望をもって生きなくてはならない。というのは、私たちには他のどのような選択肢もないからである。ヨーロッパにおける国民的な利己主義と外国人嫌いの台頭はストレートに大惨事をまねくことになる。出来事の結果を見て、Brexit後にヨーロッパを再建するために何を変え、明確化するべきかを見ておこう。
何度も繰り返すが、多くの場合、 Brexit の票は本当の反欧州連合票というよりはむしろ移民とグローバル化への反対票であると言われてきた。たとえ英国人の偏狭がかなりの程度のものであるとしても、外国人嫌いに逆戻りするこの態度には、非常にニヒリスティックで非合理ななにものが、つまり国民戦線を持つフランスおよびいまやトランプ票を持つアメリカ合衆国でよく知られている反応がある。移民と外国および外国文化に汚名を着せることは決して問題の解決策ではない――まったく逆である。また連合王国が自己の道を見いだせるのは、明らかに集団的な協議のために唯一の現存するヨーロッパの骨組みの外に出ることによって、ではない。
これらすべてのことが真実である。しかし二つの点を明確に示さなければならない。第一に、ヨーロッパの諸制度は共通の財政的および社会的基礎を持たない国と地域の間のますます純粋かつ完全になりゆく競争原理に全面的に依存しており、この投票はこれらの制度に対する反動である。客観的には、これらの制度は、過去数十年間にわたって作用してきたグローバル化に向かう高度に不平等な趨勢を強めてきただけである。民主主義的かつ進歩的な答えがない状態に直面して、労働階級と中産階級が最終的に外国人嫌いの勢力に訴えるのは驚くべきことではない。これはまさに本当の自暴自棄の感覚にとっての病理学的な反応である。ヨーロッパの建設は、1950年代~1970年代の再建および成長と調和しつつ共通市場のためのプロジェクトに起源を持ちながらも、1980年代~1990年代以降に急速に成長してきたグローバル化された金融資本主義を規制するための有効な力に転換する方法を決して知らなかった。
次に私は、UKIP 【英国独立党】またはFN【フランスの国民戦線】が不幸にも近年の国民的な利己主義と集団的不合理性の台頭に屈した唯一の政治勢力ではないという真相を述べるのが義務と感じている。とりわけ2008年以降のユーロ圏諸国による金融危機の惨めな管理を説明するのは、近視眼的な利己主義であり、また<すべての人は自分自身のために>という思想の台頭である。
この角度から見ると、ライン河の両側で権力に就いてきた中道右派と中道左派の政府(CDUUMP PS)はいつか認めなければならない重い歴史的責任を負っている。ほぼ10年にわたりドイツで維持されてきた立場は、ほとんどまったく変化しなかった。すなわち、ドイツ以外のユーロ圏諸国が私たちドイツ人と同じことを行い、同じ改革を実行し、同じ信頼性と同じ美徳をもって振る舞う等々のことをしたならば、すべてが、すべての可能な世界の中で最善の世界の中で、最善の方向に向かっただろう、と。
このアプローチは道徳化し、高尚かつ国民主義的であるが、その問題点はまったく非合理的であることである。明白なことながら、それはドイツの産業的、社会的モデルから学ぶべきいくつかの良い教訓があるかもしれないといったものではない。問題は、もしユーロ圏のすべての国が広範囲の賃金デフレーションという同じ政策を採用し、今日、産業革命以降の歴史において前代未聞のGDPの8%という同じ巨額の貿易黒字を持つことになるならば、定義上、そのような黒字を吸収するものが世界中に誰もまったくいない点にある。
ドイツで政権に就いている人たちは、いつも世論に対して、世界の他の国と歴史にとって明白となっている真相を、すなわち彼らのハイレベルな経済活動と雇用がかなりの程度に彼らの隣人の損失によって得られてきたことを説明することを拒否する。いくつかの通貨があれば、ヨーロッパの南部における通貨の大幅なデノミネーション【通貨価値の切り下げ】で十分だっただろう。しかし、単一通貨を維持するという選択がなされた時から、ドイツの給与と公共投資を大規模に再度引き上げ、また財政・予算同盟を設立することが必要だっただろう――今もまだ必要である――【ドイツは逆に、賃金を圧縮し、単位労働費用を引き下げることをしてきた】。
フランスは、何もしない悪い言い訳としてドイツを利用することを好んでいるが、この国の場合には、南欧を切り捨てることに決めた理由がフランスは隣人のドイツと同じ極めて低い金利から利益を得てきたからというのが真相である。それはユーロ圏の政策立案者が2011年~2013年にユーロ圏を理不尽な景気後退に陥れた超緊縮政策を強いるという結果をもたらしたが、この政策は世界の趨勢に反するものであり、ユーロ圏はまだそれから完全に回復していない。
かくして、ユーロ圏はヨーロッパに対する重荷になった。Brexit の提唱者は、まさに終わったキャンペーンの中でこれをためらいなく利用した。私たちを落胆させる諸国と一緒にとどまることのポイントは何であり、またそれらの諸国の通貨同盟を正しく管理する力があるのは誰だと思えるだろうか? ユーロは、共通市場を、市場投機から私たちを守ることのできる政治的同盟に転換するための保証であり、21世紀における資本主義の規則を可能にする公共的機関に向かう第一段階のはずであった。実際には、ユーロはその過程全体を脱線させる恐れのある、ほとんど邪悪な何物かになってしまった。
私たちは、いま何をするべきか? 第一に、欧州連合は、財政的、社会的および規制的な対応物(政策や制度)なしに、財、サービスおよび資本の自由な運動の広大な地域に変えられてはならないことを明らかにしなければならない。経済成長が持続可能となるためには、公共事業、インフラストラクチャー、教育・研究・健康のためのシステム、大学の交換、地域の平等化、機会の均等が必要であり、このすべてが費用を必要とする。
連合王国はいまやノルウェー、アイスランドおよびスイスと類似の地位を得ようと試みるだろう。これが無償ではできないことを、イギリス人に思い出させる潮時である。――またもしこのことがドイツとフランスの政府によって完全に透明なやりかたでもっと早く行われていたならば、事態は変っていただろう。ノルウェーとアイスランドは、共通市場への完全なアクセスを保証するヨーロッパ経済地域(EEA)の一部である。しかし、その代わり、これらの二国は欧州連合のほとんどすべての立法を採用し、またその予算に対して(GDPで表すと、現在の英国の寄与分に近い)寄与分を支払わなければならず、それも集団的意思決定に参加せずに、である。さらに、私たちは、現在のところ優先的な地位(その予算上の寄与は半分の量である)から利益を得ているスイスに同じ規則を適用するためにこの機会を利用するべきである。
とりわけ、共通市場を利用することを望んでいるEU非加盟国の恒常的な財政的寄与の問題を越えて、いまや規制撤廃競争に携わる国、および特に金融透明度や租税最適化と戦うという問題において厳格な規則を適用しない国に適用できる制裁を議論する時である。私たちは、スイス銀行業の秘密性に(臆病ながら)異議がとなえられ始めるように、アメリカの制裁を待たなければならないというのは正常事ではない。ガブリエル・ザックマンの計算(多くの言語に訳されている『隠された国富』、ソイル、2014年)は、銀行業の秘密性からスイスにもたらされている利益は、もしその主要な三隣国(ドイツ、フランスおよびイタリア)に適用されるならば、それらの国が30%の関税で支払うことになる金額に等しいことを示している。
同じ問題は、ロンドン金融市場と英国領の租税回避地についても提起されるだろう。他国に課される損失と、その金額に応じて課される制裁金の完全な評価がなされなければならないだろう。私たちがこの型の制裁金を課す準備をしない限り、その国が欧州連合の外部で繁栄する選択をするのは驚くべきことではない。もし共通市場を利用しながら、一方で隣国の財政的基盤を静かに吸い出すことが可能ならば、なぜみずからその【制裁金を課す】機会を奪うのか? ヨーロッパを陥れ、結局、【金融や企業の】自由な運動と自由市場の法典化に基づく法的および政治的なシステムは、集団的規制という真剣な対応物【政策、制度】などなしでは、私たちをまっすぐに一連の Brexit に導くだろう。
さらにもし私たちがユーロ圏を救うことを望むならば、根本的な方向転換が求められる。20151月のギリシャにおける Syriza 【ギリシャの政党】の勝利――それ自体、ヨーロッパ人がギリシャの前内閣に負債を減免すると約束したにもかかわらず、頑固に拒絶した結果である――の後に、ユーロ圏の指導者たちは、他国の有権者が同じ行動方針に惑わされることをやめさせるために、その国を辱めようとする理不尽な選択を行った。
この選択は、Podemos【ギリシャの政党】が、201512月および20166月にスペインで実施された2ラウンドの選挙でPSOE【スペイン社会労働党】がなしえた以上のことをできなかったので、部分的には割に合った。唯一の障害は、スペインが今日統治できないことであり、またフランスとドイツの指導者たちが、いまや連合王国、ポーランドおよびハンガリーのいたるところで右翼ポピュリズムとナショナリズムの台頭に直面していることである。この脅迫は、ヨーロッパにとって、本質的には単に分別のある要請を定式化しているにすぎない急進的左翼の提起している挑戦(ヨーロッパの公的債務の軽減は不可避であり、出来るだけ早く組織化されなくてはならないという挑戦)よりはるかに危険である。ヨーロッパの公的債務の減免は不可避であり、出来るだけ早く組織化されなくてはならない。急進的であるか否かにかかわらず、SyrizaPodemosPSOE および左翼政党全体に頼ろうとするほうが望ましかっただろう。これらの党は、右派のポピュリストと比べると根本的に親ヨーロッパ的という長所を持っている。
今日でもまだ、ヨーロッパの指導者たちが、ギリシャに今後数十年間にGDP3.5%の基礎的財政収支黒字を産み出すことを求め続けていることを指摘するのは、遺憾なことである。経済活動水準が2008年より四分の一より低く、また失業率が急激に上昇している国だという事実を考えると、これはまったく無意味である。GDP0.5%ないし1%の範囲の小さな黒字を求め、それ以上を求めないことが正常である。債務を減免するという決定はふたたび年末まで延期され、しかもこれが最後ではないということもありそうである。
より一般的に言うと、ヨーロッパ地域が強い成長を取り戻すまで、ヨーロッパの債務のモラトリアム(停止)を確定すること、またインフラストラクチャーへの投資、訓練および研究のプログラムを開始することが緊急である。今日、この瞬間に優勢となっているマイナス利子率が示すように、私的セクターは投資することを恐れており、またユーロ圏は、公的な刺激なしには、緩慢な成長およびほとんどゼロか、あるいはマイナスのインフレーションの時期に入り込むかもしれないという現実的なリスクがある。歴史が示してきたように、そのような環境で高い公的債務を減らすことは不可能であり、また負債を新世代が償還することが不可能になるときには、明らかに債務を減免する勇気を持つほうがはるかによい(ドイツは、1950年代にその債務が帳消しにされたとき、それから大いに利益をえている)。貨幣の創出と新しい資産価格バブルの進展【金融緩和政策】が政府による行動に代わって問題を解決することはないであろう。まったく逆である。
最後に、もし私たちが本当にこれらすべての問題について真に進歩を成し遂げることを望むなら、制度上の討論を避けることはできない。現在の制度をベースにして急いで妥協を継ぎはぎするのはいつも可能である。しかし、長い目で見れば、もし私たちが穏やかに、そして民主主義的にユーロ圏の内部で、復興計画を採用し、負債を減免し、また企業利潤に対して共通税を採用することを望むならば、その制度は民主主義的な土台の上に再確立されなければならない。ヨーロッパの諸制度は2005年にヨーロッパ憲法条約(最終的にリスボン条約で2008年に採択された)をもって最終的な仕上げ状態に達しており、またもし国民の政治的指導者と世論が最終的にこれらの素晴らしい制度の適切な理解を持ち、ばかなユーロ恐怖症をやめたならば、すべてはうまくゆく、という理論がある。
実際は、現在のヨーロッパの諸制度は深刻な機能不全に陥っている。それらは外見上の二院制に基づいている。すなわち、一方では国家元首をいだく欧州理事会(またその閣僚レベルの道具、つまり財務大臣会議、農業大臣会議など)、また他方では、欧州議会(市民によって直接選出される)である。原則として、ヨーロッパの立法文書は、これらの二つの立法府によって認可されなくてはならない。実際には、権力の中心は欧州理事会と閣僚会議が保有しており、これらは――特に租税の配分であり、それは真の進歩を妨げる――ほとんどの場合、全会一致の決定をしなくてはならず、また過半数の規則が適用される稀な場合には、まだ秘密裏に議論し続けている。
真相は、欧州理事会とは、お互いに対立する国民的利益を設定するための機構、ヨーロッパ・レベルの民主的議論と多数派の決定を生み出すいかなる可能性をも防ぐための機構だということにある。一人(国家元首または財務大臣)が単独で8,200万人のドイツ人、または6,500万人のフランス人、または1,100万人のギリシャ人を代表することを期待されるやいなや、これらの人々のうちの誰かが却下されることで頂点に達するような、冷静な民主的議論を行うことは不可能である。
欧州において行動上の惰性と無能力とを生み出しているのは、民主政治を避けて通ること(課税に関する満場一致、財政基準についての自動的な規則)を目指す多数の規則と並んで、この制度上のシステムである。みなが自らの国民的利益と信じることのために闘っており、実際には、すべてが秘密裏に行われるので、誰も何が起こっているのか知らない。これらの会議は、何を決定したか自分自身でも知らないことを、翌日私たちが理解する前に、規則的に真夜中に、ヨーロッパを救ったと言って私たちに知らせる。この制度的構造がほとんど人々の心にヨーロッパを慕わせているとは考えづらい。
この行き詰まりに直面して、いくつかの発展が可能である。 ユーロ愛好家の中には、欧州理事会の役割を大幅に減らし、欧州議会にその主要な権力を託すことを提案する人がいる(例えば「リベラシオン」における二三日前のローレン・ジョフリンを見よ)。この解決策は単純という長所を持つ。しかし、それには国民的な政治制度についてまったく何も言わないという不利益がある。それは諸国民の敵意と Brexits の連鎖反応を生み出す可能性が高い。
私見では、最も希望を抱かせる前方への道は、一方では、欧州議会(市民によって直接に選ばれる)に基づき、他方では、各国の人口と各議会に存在している政治団体に比例して議会上院の代表者を構成する議会上院に基づく、ヨーロッパ二院制の原形をイメージすることである。
この議会上院は、例えば 【ドイツの】連邦上院から40名ほど、【フランスの】国民議会から30名ほど、などを含み、特に国民的納税者に直接関係する予算上および金融上の決定を取り扱うために、毎月一週間会議を開くことになるだろう。これらは、ユーロ圏中の財政赤字のレベルの選択、ヨーロッパ安定性メカニズムの監督、ユーロ圏の予算、負債の軽減などを含む。
これは、各国民議会が事実上の拒否権を持つ現在の状況より、いかなる場合でも、満足できる有資格者の多数のための様々な規則を内包することになるだろう。この拒否権が民主的な正当性という恐ろしい問題(ドイツ連邦議会対ギリシャ議会など)を引き起こし、多くの場合に行き詰まりをもたらしているのである。しかし、国民的な選出議員に、相互に横に座り、公開の民主的な議論の後に過半数による決定を行う可能性を与えることによって、進歩が正しい方向に向かうことを希望することが少なくとも可能となる。
この二院制の原形は、古典的な二院制の構築物(フランスの下院と上院、ドイツの上院と下院、および合衆国の上院と下院)とは異なって、私見では、国民的な枠組みの議会制民主主義に基づいて、長年にわたって極めて複雑な形態の社会的国家を建設することに成功した古い国民国家に基づくヨーロッパ建設というユニークな特徴に対応する。
すべての欠点にもかかわらず、根本的な民主的な構造物のままにとどまっている国民議会を避けて通ることによって、欧州議会の主権を築くことは私には現実的とも、望ましいとも思われない。何十年間も、これらは世界の歴史において前例のない、社会福祉の台頭と生活水準の向上という結果をもたらしつつ、GDPの二十数パーセントに相当する社会的負担と予算を可能としてきたのである。国民的な立法者をヨーロッパの共同立法者に漸次的に転換し、それらがヨーロッパ全体の利益を考慮するようにさせし、ただヨーロッパについて不平を並べるのを防ぐことがより賢明に思われるだろう。
議論は公開とし、綿密な議論をしなければならない。私たちはまた、議論を突然終わらせることがありえた誤解を避けなくてはならない。国民議会の役割の問題が提起されるとき、ユーロ愛好家からの、特にこれらの提案を耐え難い後退と見る欧州会議に近い人たちからの、いらだちの反応を聞くことがあまりにもしばしばである。
実際には、1979年の普通選挙権による欧州会議の最初の選挙の前には、欧州議会は純粋に顧問的な役割を持つ国民議会の代表者から構成される議会的な会議に過ぎなかった。しかし、ここで擁護している提案はそれとは完全に異なっている。その意図は、国民議会からやって来る議員からなるこの議会上院に、欧州理事会(決して本当の立法機関とはならないであろう)に代わって本物の立法権を与えることである。究極的には、これは欧州議会の弁護する議会的アプローチを強くすることを可能とし、疑いなく現在の行き詰まりを打開する唯一の方法をなすだろう。しかし、この古い恐れは、長く続きしたため、一夜で姿を消さないだろうという懸念がある。
二三日前に、ジャン・ピエール・シェヴェヌマン――諸国民のヨーロッパの長期にわたる擁護者――は、ルモンド紙で、欧州理事会(しかしながら、これは決して民主主義的な議論の場ではない)の力を強くするべきであり、一方、同時に欧州議会の議員たちは国民議会(欧州議会議員を必ず悩ませるであろう)から引きはなされるべきと述べた。しかしながら、彼はそれがとるべき形も、持つべき権力も述べなかった。例えばヤニック・ヤドットまたはアンリ・ヴェーバーのような欧州議会の議員の中には、一部は欧州議会議員(MEPs)を構成し、また一部は国民的な選出議員を構成するユーロ圏議会を伴った混合的な解決策を提案した者もいる。これは私にとって最もわかりやすい解決策であるように思われないが、その議論は正当である。
どんな場合にしても、ヨーロッパの諸制度についての、こうした議論が基本的であり、それは法の、また憲法の専門家に限られるべきではない。それは課税や債務の議論と同じく、すべての市民に関係している。あまりに長い間、これらの問題は私たちが知っている結果とともに、他人のものとされてきた。いまやヨーロッパ市民が自分たちの未来を取り戻する時である。


2016年10月8日土曜日

日本人の起源について DND、mt-DND、Y-chrome DND の研究成果から

 私のまったくの専門外ですが、近年ずっと注目している学問分野があります。それは、DND分析による人類研究の分野です。

 私の専門分野は現代経済史であり、ヨーロッパ、特にロシアを含む東部の諸地域を研究ということになっていますが、研究上の関係から、家族史・人口史に足を突っ込み、その関係で中世史や古代史に関係する著書や論文を時々読むことがあります。その中に宝来聰さん(故人)の『DND人類進化学』(岩波書店、1997年)がありました。その後、同じ領域の本(下記)が次々と出版されており、大いに知的興味をそそられました。

    『朝日科学』編『モンゴロイドの道』(朝日選書、1995年)
    中堀豊『Y染色体からみた日本人』(岩波科学ライブラリー、2005年)
    斎藤成也『DNDから見た日本人』(ちくま新書、2005年)
    篠田謙一『日本人になった祖先たち』(NHKブックス、2007年)
    篠田謙一『私たちは何者か』(岩波書店、2015年)
    斎藤成也『日本列島人の歴史』(岩波ジュニア新書、2015年)
   *そのほかに、NHKのテレビ番組による紹介がある。
   *また「斎藤成也の研究室」のサイトに英語論文が掲載されている。
   

 これらが「日本人」の成立と起源に関して明らかにしてきたことは、きわめて粗雑に要約すると、次のようになるでしょうか。

 1)いわゆる縄文人のDNDのタイプ(ハプログループ)は、母系的に遺伝するmt-DND(ミトコンドリアDND)から見ても、父系的に遺伝するY染色体のDNDのタイプ(ハプログループ)から見ても、現在の周辺の諸民族(中国の漢族、東南アジアや朝鮮半島の人々など)とはかなり異なっている。ただし、親類関係の人々がまったくいないわけではなく、チベット人の中に最も近いタイプのDNDを持つ人が相当するいる。おそらく(私の理解が正しければ)4万年ほど前に分岐したものと思われる。また縄文人とアイヌは、近い親類関係にある。

 2)しかし、現代の日本人の中には、縄文系のDNDだけでなく、東アジアによく見られるタイプのDNDもみいだされる。このことは、何を意味するかというと、(おそらく)縄文時代末期または弥生時代に大陸(東アジア)から朝鮮半島から、または朝鮮半島を通って多くの人が渡来して、混血してきたことを意味する。
 現代の日本人に様々なDNDが見られるのは、縄文系の遺伝子と弥生系の遺伝子が混じりあった結果である。これは埴原和郎氏の「二重構造説」が実証されたことを意味する。

 3)さらに斎藤成也さんなどのグループによる核DNDの分析では、縄文人と弥生系渡来人の割合は、1対4ほどになる様子。弥生時代に多数の渡来人が日本列島にやってきて、それまでの先住民であった縄文系の人々と混血を繰り返したとされる。
 言うまでもなく、縄文人と弥生人の混交は、北九州に始まり、かなり早い時期に現在の青森県にまで到達したと考えられる。


 さて、こうした見解に対して、面白く思わない人もいるようであり(特にヘイトスピーチを行うような人々)、そのような人は、ネットなどで必至になって否定しようとしているようでもあります。特に1)については、これを特異に解釈し、「固有の日本人」が中国や朝鮮とは無関係であると主張する根拠にしたり、また2)については無視するという態度を取っているものもあります。
 しかし、私たちが父母から受け取るDNDは、母系遺伝のmtーDNDも縄文系か弥生系のいずれかでしょうし、また父系的に受け取るY染色体DNDも縄文系か弥生系かのいずれかですが、私たちの祖先はものすごい数(何百万人、何千万人?)いたわけであり、したがって私たちも縄文系の遺伝子だけ受け取ったわけでなく、弥生系の遺伝子だけ受け取ったわけではありません。核DNDの中には、様々な遺伝子が混ざり合っています。縄文系の遺伝子だけ受け取るとか、弥生系の遺伝子だけ受け取るといったことは、確率論的にありえません。

 しかも、そもそも私たちは、アジア人もヨーロッパ人も6~7万年前に出アフリカを果たしたごく少数の祖先たちの共通の子孫であることは、まったく明確になりました。

 ところで、日本列島人の成立が上記の1)2)3)の通りであるとすると、もう一つ説明を要する事柄が出てくるように思います。それは言語です。
 現在、日本語(うちなーぐち=沖縄語を含む)、朝鮮語、アイヌ語は、相互に類似の点がありますが、単語のレベルでの共通語がほとんどなく、そのため孤立語とされているようです。
 そこで、これらの言語と「縄文語」とはどのような関係にあるのかが、学問的にはきわめて大きな関心をひく問題となるでしょう。
 
 私の知る限りでは、現在の世界に存在する言語は、英語も、ロシア語も、ほぼすべて「クレオール語」(様々な民族と言語が混合してできあがった言語)です。例えばスラブ語は、本来、きわめて複雑な動詞変化形を持つ言語でしたが、現在のロシア語は、アジア系(フィン語系)の言語と混交する過程で、現在形と過去形しかないきわめて簡単な変化形した持たない言語になっています。
 大野晋氏のタミル語起源説は、DND研究によってきわめて不利になりましたが、ひょっとすると、4万年ほど前に分岐したという風に変えれば、生き返るかもしれないとも思います。
 時間があれば、趣味的に研究したいとも思いますが、難しいでしょうねー。

 
 ともあれ、現在の日本人が世界共通のホモサピエンスの一員であることがわかり、私はホットしています。


人口と高齢化・少子化について考える その1 はじめに

 今年の3月に新潟大学を定年退職し、神奈川県の横須賀市に引っ越してきた。
 もともと横浜の西部から鎌倉、横須賀、逗子、葉山、三浦市などは、小高い丘・岡や山が多く、そのため、民家も自動車が通らない不便な場所に建てられているものが多い。その場合は、バスを降りてから、あるいは自家用車の駐車場から、自宅までかなりの坂道を歩かなければならない。そのためもあり、横須賀市の人口はずっと減少しているらしい。特に高齢者が亡くなったり、丘陵地から降りたりしても、その後に住む人がいなくて空き家となるケースが多くみられる。一方、若者は通勤に便利な場所へ、しかも街中のマンションなどに住む傾向がある。
 そのようなわけで、私の引っ越した先もまわり中がシニアーの人ばかり。私などは65歳でもまだ若いほうである。もちろん、これは今日本全体で生じていることであり、ここで取り立てて言うことはない。
 
 そこで、このブログでも、しばらく少子化と高齢化に触れつつ、人口のことを検討してみたい。
 
 さて、日本では、20世紀末に「生産年齢人口」(15~64歳)が減少しはじめ、またそれに少し遅れて総人口も減少しはじめたことは周知のところであろう。

 この生産年齢人口減少および人口減少の事実(将来)は、今日では広く知れ渡っているが、人口統計的なデータを見ていた人、特に6歳人口や12歳人口、15歳人口、18歳人口の動向に敏感たらざるを得ない教育産業では、戦々恐々として見られていた。大学もその一つであり、私なども18歳人口がかなりのペースで減少するのに、私立大学が続々と新設されるのを見ながら、大丈夫だろうかと心配していたものである。
 
 ところで、本屋さんで立ち読みしていると、たまに人口減少など怖くないという感じの本に出合うことがあった。私も、人口減少だ、人口減少だと騒ぎ立てるつもりはない。しかし、人口減少には何の問題もないと断言することには少なからざる抵抗を感じる。それはちょっと思考実験してみればわかるだろう。例えば(実際にはありえないが)今から女性たちが子供を一人も出産しなくなるとする。60年後、すべての人が60歳以上となり、59歳未満の人は一人もいなくなる。もちろん、これはあまりに極端な例である。しかし、それはあまりに急速な人口減少が大きな問題となることを示している。
 では、外国ではどうなのか?
 さしたりヨーロッパとアメリカ合衆国の場合を見ておこう。

 その前に長期的には、合計特殊出生率(fertility、女性一人あたりの出生数)が約2であれば人口は安定し、それを超えていれば増加、それより低ければ減少となるが、これは少し考えればわかることであろう。
 さてまずヨーロッパであるが、その率は、国・地域によってかなり異なっている。が、簡単に言うと、きわめて低い(1.5未満)のがドイツとその「衛星諸国」(イタリア、スペインを含む)である。ただし、ドイツの15-64歳人口は最近3年間は増加しているが、それはEU域内外からの、難民を含む移民の急増による。これに対して、かなり高いのが英国を含む北欧諸国とフランス(1.7~約2.0)である。また、それに加えて1990年代の経済危機・人口危機の中で大幅に低下していたロシアの出生率が最近顕著に上昇し、イギリス・フランスと同じ水準にまで回復してきた。(次の図を参照。)次にアメリカ合衆国であるが、こちらもほぼ2に近い。



            http://i.imgur.com/EzAIuzq.png

 こうした図を見ていて、ふと第二次世界大戦時の勢力配置を想起したほどである。
 それにしても、同じ経済大国の中で、なぜ米英仏(プラス露)の出生率が1.7~2.0ほどの、生産年齢人口を維持する(あるいは急激な減少を招かない)安定水準にあり、ドイツとその衛星国、それに日本の出生率が労働人口の急速な減少を招くほど低いのか?
 これが検討に値する大きな問題、しかし難問であることは言うまでもない。


ケインズの乗数理論は、波及効果の理論ではない! 財政乗数の理論でもない! 2

(続く)

 前回は、ケインズの乗数(理論)は、決して「波及効果の理論」ではないことを述べました。
 が、どうしてそのようなことをいまさら言わなければならないのか、それは次のような理由からです。

 たまに、私の演習生の中に、例えば「オリンピックの波及効果」を、より一般的に言えば、「・・・の波及効果」を卒論のテーマに選びたいという学生がいます。学生がこのように言う背景には、テレビ等で「・・・の波及効果」が・・・億円などという発言があったりするからでしょうが、また近年の景気停滞(世間一般では「不況」と言っているようです)を身にしみているから、何とか明るい話はないかと思うからでしょうか。

 それはさて、波及効果なるものを私も頭から否認するものではありませんが、その思想を広めたポール・サミュエルソン(故人)にしても、波及効果は急速に減衰することを認めていますし、また波及効果はどれほどの時間的スパンで続くのか述べていません。ただケインズの乗数(理論)をそのような方法で説明しているだけです。しかし、ケインズ自身は、あくまでも即時論的な(つまり一定期間を取るときに、その期間内における(設備)投資と総需要=総生産との乗数関係を指摘しているだけです。(ただし、貯蓄性向や消費性向が同じならばと仮定の下に、です。)また波及効果なるものが最後まで行き着かなくても、一次波及であろうが、二次波及であろうが、三次波及、四次波及、n次波及でも常に一定期間内では乗数関係が成立します。

 しかも、t 期における投資がt+1 期の総需要=総生産にどのような影響を及ぼすかという段になると、おそろしく複雑(complicated)な、社会的、心理的、客観的、偶然的な要因を考慮しなければならず、さらに事態は複雑系(complex system)の様相を呈します。すべての世界事象は相互依存的に成立しているため、単純な決定システム系で説明することは絶望的に不可能です。

 そこに財政支出という要素を含ませる場合には、さらに複雑な要素が加わることになるでしょう。

1)いま財政支出をG(例えば90兆円など)とすると、国民の総需要=総生産 Y は、
     Y=D=C+I+G       (1)

と書き加えられそうです。
   
 しかし、それほで簡単ではありません。(1)式は、現実の社会の経済行動をかなり抽象化したものであり、そこには消費需要(消費財に対する需要)と投資需要(資本財に対する需要)しか含まれいません。つまり、消費財や資本財を生産する際に必要となる中間財(鉄や石炭、鉱物資源など)は除外されています。したがって G からも該当部分を除去しなければなりません。
 すると、残りの Gc+i には、消費財と資本財に対する需要のみ含まれることになります。
 現在の政府は、ほとんど生産企業を持ちませんので、これらの消費支出は、公務員の家計に対して給与として支払われたのち、それらの家計(民間部門です)から消費財を購入するために支出されるでしょう。これを Gc とします。(もっとも政府が消費財を購入し、それを何らかの形で家計(つまり人々)に支給することもありえます。)
 残りが、資本財(つまり道路、橋、ダム、港湾、公共施設など)をストックするために、政府が(自分で建設する場合もあるかもしれませんが、これを省くと)を得るために、民間企業に支払いを行って建設させ、取得する部分になります。
 これを考慮した式は、(1)式と比べると格段に複雑な式になります。

2)さて、財政支出のためのお金(貨幣、通貨)は、どこから来るのでしょうか? これも考えておかねばなりません。
 もし財政が均衡しているのであれば、それはほとんどが租税収入(T)から来るはずです。式で表せば、
     Y=C+S+T       (2)
  (ただし、Cは消費支出、Sは貯蓄、Tは租税収入です。海外は捨象しています。)

  ここで注意しなければならない点の一つは、C、S、T 相互が密接に関係していることです。
  例えば最近も実施されたような消費税の増税(3パーセントポイント、約8兆円)は、その他の条件が同じならば、それだけ可処分所得を減じることになりますから、消費支出を減らす方向に作用しそうです。(また実際、そうなりました。だからこそ、安倍首相に招待されたクルーグマンもスティグリッツもそれにはっきりと反対しました。)
 では、政府が赤字国債を発行するなどして、借金で支出を行った場合はどうでしょうか?
 その場合には、民間の有効需要は減少することがないかもしれません。これも、2008年のリーマンショックののち、米国およびヨーロッパ諸国の政府がみさかいのない財政支出を行なった理由です。ちなみに、ギリシャでは金融危機の前から民間の借金は大幅に増えていましたが、「政府」の財政赤字が増えたのは金融危機以降です。
 しかし、このような経済運営が政府の(粗)債務を増やすことは間違いありません。ここで「粗」(グロス)というのは、政府は他方で資産(債権)を持っているからであり、その差額が「純」(ネット)の債務となります。しかし、純債務があったり、粗債務が増えることは、財政危機をもたらす(または煽る人や機関が現れる)こととなり、好ましいことではありません。現在のヨーロッパでもいったん経済が安定すると、今度は「緊縮」が実施され、景気が悪化するなどの現象が生じています。

 さて、以上のことから結論します。

1)政府支出全体 G から見ると、それが経済規模全体(生産や所得、需要)に与える効果は、きわめて小さいということができます。乗数関係から言えば、1を超えることは間違いありませんが、投資乗数(1/s)からみればはるかに小さなものとなるでしょう。
 ただし、2008年~2009年のような空前の大不況手前までいったようなときには、かりに財政支出の乗数が1を少し超える程度であっても、それが実施されなければきわめて深刻な事態に陥っただろうという意味では有効だったと思われます。

2)政府の設備投資 Gi による社会全体に対する乗数関係はどうでしょうか?
 これは、民間投資 I による乗数関係とは、通常の統計で区別することができません。もちろん、ある種の統計学(回帰分析など)によって推計することはできるかもしれません。
 しかし、民間投資による効果と公共投資による効果は、色で塗り分けられているわけではないので、あくまで推計にとどまります。両者の関係は量的というより、相互に補い合うものといえるでしょう。

 また前回示したように、政府の財政乗数があるとしても、それもまた一定期間内の乗数関係であり、波及効果によるものではないことは言うまでもありません。
 
 しばしば財政支出政策を「ケインズ政策」と呼ぶ人がいます。確かにケインズが不況時における財政支出を主張したことは間違いありませんが、彼は「財政支出」を行いさえすれば、それでよいと言ったのではなく、それが民間投資のポンプ役を果たすに過ぎないこと、またそうなるためには、所得の平等化政策や、様々な労働者保護政策を行うべきことを説いていたことを忘れてはなりません。 このことは『一般理論』はもちろん、1930年代に書かれた様々な論部に見ることができます。
 (この項は、とりあえず終了。)

2016年10月5日水曜日

ケインズの乗数理論は、波及効果の理論ではない! 財政乗数の理論でもない!

 ケインズの『一般理論』に乗数(multiplier)が出てくるのは、この著書を読んだことのある人ならもちろん、経済の専門的研究者でなくても多くの人が知っているだろう。

 ところが、ケインズ自身が否定した乗数理論の「波及論的」な理解(誤解)があいかわらず続いているようだ。
 しかし、かつて伊東光晴氏が指摘したように、ケインズ自身は、正しく、乗数を「即時論的」に理解していた。
 両者はどのように異なるのか?

 出発的となる式は、次の通り。
  Y=C+I  (C:消費需要、I:投資需要)
  ΔY=ΔC+ΔI (Δは前期からの増加分を示す。)
 ここで、貯蓄性向および限界貯蓄性向を s とすると、
  I=S=sY
        ΔI=ΔS=s・ΔY
 したがって、
  C=(1-s)Y+I 
  ΔC=(1-s)ΔY+ΔI
 これらの式を最初の式に代入し、変形すると、
  Y=I/s       (1)
  ΔY=ΔI/s     (2)
 
 さて、この(1)式は、ある時期(t)に関するものであり、したがって(2)式も前期(t-1)と比べて当期(t)に投資が増えると、同じ時期に需要=産出=所得がどれほど増えるかも示したものである。それは当期の変化が当期の需要等に与える影響を示すもの(乗数関係)に他ならない。この期間は、一ヶ月であろうと、四半期であろうと、半年であろうと、一年であろうと、二年であろうと、同じことである。
 
 ところが、波及論者は、この式をもって、当期( t)における投資が次期(t+1)にどのように波及効果を与えるかを示す式だと考えたいらしい。
 たしかに当期の投資が次期の経済活動にどのような影響を与えるのか、これは私たちの関心をそそる経済学上の重要問題かもしれない。しかし、残念ながら、上の(1)式も(2)式もそれに答えるものではない、ことだけは確かである。長期の変動を知るには、もっと複雑な諸条件を導入しなければならない。
 このことは、物理学者がやるように、上式のY、C,I、ΔY、ΔC、ΔI などに、時間(期間)を示すtなどの添え字をつけてやれば、よくわかる。ΔYt はあくまで ΔIt の関数である。

 もう一つのよくある誤解は、政府の財政支出にこの乗数関係を使おうというものである。
 しかし、これも正しくない。(続く)