摩擦的失業は存在するのか? またどの程度なのか?
前に説明した雇用率の関数( ε=(Y/L)/r・t ) は、より現実に近づけるためには、若干修正しなければなりません。
その一つの理由は、いわゆる摩擦的失業にあります。
摩擦的失業とは、ある地域や産業(A)では失業者がいるとしても、別の地域・産業(B)では労働力が不足しているような場合、AからBに労働力が移動できれば、失業率が低下するのに、そのような移動を妨げる「摩擦」が存在するため、失業が生じるようなケースを想定しています。
言うまでもなく、抽象理論上はもちろん、現実にもそのような「摩擦」の存在を完全に否定することはできないでしょう。そのような事情を想定して、「雇用ミスマッチ」という言葉も存在します。ミスマッチを解消できれば、失業率が低下するという含意がその背後にはあります。
しかし、摩擦的失業またはミスマッチは、どの程度に存在するのでしょうか?
まず国や地域(国を超えるような大地域、国の内部の小地域)によって失業率の高低差があることはよく知られています。しかし、失業はどの地域にも存在しています。したがって地域間の摩擦を取り除いたとしても、それは単に地域間の失業率をならす(平準化する)だけであり、全体として失業率を引き下げることはありえません。
これに対して産業間の可動性を阻害している事情については若干厄介です。よく聴かれることですが、衰退産業から成長産業に労働力を移動させることが重要であるという見解があります。
なるほどと思わせる意見です。
そこで、もし産業間の労働力移動がうまくゆかなくて摩擦的失業が存在していると想定して問題を考えましょう。この場合、既にある産業に従事していた人々の失業(つまり移動を妨げる摩擦)が問題となっているのか、それとも新しい世代が新しい成長産業に従事できないこと(世代間摩擦)が問題となっているのか、区別する必要があります。しかし、いずれの場合も、一定の教育・訓練が必要となることは言うまでもありません。
当たり前のことですが、教育は政府の重要な仕事です。したがってミスマッチがあるから、摩擦を減らして可動性を高めればよいというだけでは解決になりません。しばしばミスマッチという言葉には、成長産業に移動しようとしない労働者の責任であるという語感があり、政府や行政の言い訳のような感じもありますが、そのように感じるのは私だけでしょうか?
もっと重要なことは、摩擦的失業がどの程度存在するのかという点です。私の意見では
ーー著名で優れたイギリスの経済学者だったジョウン・ロビンソンもそのように断定しましたがーー摩擦的失業は失業の主要な要因ではまったくありません。
もし摩擦的失業が失業の多くを説明するというのであれば、例えば1980〜83年のイギリスの失業率の急上昇や同じ時期の米国の失業率の急上昇(ともに10%以上)の年に突然摩擦的失業が発生しはじめたということになります。もちろん、最近の(2008年末〜2009年の)欧米諸国における失業者の激しい増加についてもそうです。しかし、そのような主張は絵空事に過ぎません。例えば1980年代の高失業は、サッチャーのマネタリズム政策(デフレ政策)やボルカー・レーガンの金融引締政策(デフレ政策)の結果であり、2008年末以降の高失業は、グローバル金融危機の結果です。そのことはちょっと経済学をかじったばかりの学生にもわかります。これらの時期には、有効需要=生産量が縮小する一方で、労働生産性は(幾分低下したとしても)生産量の低下ほどには低下しませんでした。
「摩擦的失業」がそれほど大きな要因ではないのに、「雇用ミスマッチ」という言葉でそれをきわめて大きく見せたり、かといって教育・訓練に力を注ぐわけでもなく、移動を妨げる諸要因を明らかにして具体的・抜本的に対応しようとしないのは、政府(行政・政策担当者)の怠慢ではないでしょうか? 教育・訓練と称してパソコンの初歩を教える位では、「ミスマッチ」を防ぐことができるはずがありません。また失業の本当の理由から眼をそらし、「言い訳」にしているとしか言いようがありません。
2013年12月5日木曜日
2013年12月4日水曜日
恥ずかしい水準の日本の最低賃金 その1
ずばり、日本の最低賃金は、いわゆる先進国の中でも恥ずかしいほど低い水準にあることをご存知でしょうか? とても「先進国」と自称できるような水準ではありません。
生活保護の水準もかなり低く、しかもそれを受けるときに人間としての尊厳を失わなければならないほどの取り扱いを受けることが問題になっています。昨年、国連から日本政府が注意を受けたほどですが、日本政府は真面目に対応しようとはしていません。むしろ、生活保護費を引き下げたほどです。本当は、最低賃金のほうを引き上げなければならないのに、です。
いわゆる先進国の間では、米国の最低賃金(連邦)の水準がかなり低いことで知られていますが、日本の水準はそれとほぼ同じになっています。
米国では、1970年代に最低賃金は相応の額に引き上げられていました。ところが、レーガン、ブッシュのネオリベラル政策の時代にほとんど据え置かれたままになりました。当時からインフレーションが進行しているのに、です。当然、最低賃金(貨幣額)は同じでも、インフレによって実質的な最低賃金は下がります。日本の最低賃金は、その下がってきた米国の最低賃金と同じレベルなのですから、唖然とします。
もう一つ、ヨーロッパではイギリスでもサッチャー首相の下で最低賃金制度が事実上廃止されました。しかし、トニー・ブレアーの労働党政権の下でともかく最低賃金制度は再建されます。しかも、1997年の法律で復活されたのち、イギリスの最低賃金水準は、それ相応の水準に設定されました。それはまた少しずつ引き上げられています。
ちなみに、イギリスで最低賃金制度が復活する前に、それが職=雇用を失わせ、失業者が増えるという反対運動がありました。しかし、最低賃金制度の復活後に失業率が上昇したという話はついぞ聴きません。確かに、2006年以降、失業率が上昇しましたが、それは最低賃金の引き上げのせいではなく、資産バブル崩壊による金融危機・不況のためです。
最低賃金の引き上げに反対する人が金融資本主義・マネーゲームに反対しないのは、奇妙な論理・行動というべきではないでしょうか?
フランスでは、1965年の法律によって最低賃金を平均的な(中位の)賃金率に近づける努力が払われてきました。その水準はかなり高く、中位の賃金率の60パーセントを超えています。(ちなみに、最低賃金制度に反対の日本のある労働経済学者が子弟をフランスに留学させており、「フランスはいい国だ」と言っているという逸話は有名です。彼の理論では、高い最低賃金のためにフランスは、ダメになっているはずですが、・・・。)
ドイツでは、歴史的な事情(強い労働組合など)があり、最低賃金制をしいていない例外的な国でしたが、労働組合・ドイツ社会民主党が最低賃金制の制定の方向に動き、それに保守党(キリスト教民主同盟など)が賛成しています。ドイツも日本を超える水準の最低賃金を法定する国になります。
さて、日本の最低賃金はどれほどの水準にあるのでしょうか? 次に若干の統計データを見ておきましょう。(続く)
生活保護の水準もかなり低く、しかもそれを受けるときに人間としての尊厳を失わなければならないほどの取り扱いを受けることが問題になっています。昨年、国連から日本政府が注意を受けたほどですが、日本政府は真面目に対応しようとはしていません。むしろ、生活保護費を引き下げたほどです。本当は、最低賃金のほうを引き上げなければならないのに、です。
いわゆる先進国の間では、米国の最低賃金(連邦)の水準がかなり低いことで知られていますが、日本の水準はそれとほぼ同じになっています。
米国では、1970年代に最低賃金は相応の額に引き上げられていました。ところが、レーガン、ブッシュのネオリベラル政策の時代にほとんど据え置かれたままになりました。当時からインフレーションが進行しているのに、です。当然、最低賃金(貨幣額)は同じでも、インフレによって実質的な最低賃金は下がります。日本の最低賃金は、その下がってきた米国の最低賃金と同じレベルなのですから、唖然とします。
もう一つ、ヨーロッパではイギリスでもサッチャー首相の下で最低賃金制度が事実上廃止されました。しかし、トニー・ブレアーの労働党政権の下でともかく最低賃金制度は再建されます。しかも、1997年の法律で復活されたのち、イギリスの最低賃金水準は、それ相応の水準に設定されました。それはまた少しずつ引き上げられています。
ちなみに、イギリスで最低賃金制度が復活する前に、それが職=雇用を失わせ、失業者が増えるという反対運動がありました。しかし、最低賃金制度の復活後に失業率が上昇したという話はついぞ聴きません。確かに、2006年以降、失業率が上昇しましたが、それは最低賃金の引き上げのせいではなく、資産バブル崩壊による金融危機・不況のためです。
最低賃金の引き上げに反対する人が金融資本主義・マネーゲームに反対しないのは、奇妙な論理・行動というべきではないでしょうか?
フランスでは、1965年の法律によって最低賃金を平均的な(中位の)賃金率に近づける努力が払われてきました。その水準はかなり高く、中位の賃金率の60パーセントを超えています。(ちなみに、最低賃金制度に反対の日本のある労働経済学者が子弟をフランスに留学させており、「フランスはいい国だ」と言っているという逸話は有名です。彼の理論では、高い最低賃金のためにフランスは、ダメになっているはずですが、・・・。)
ドイツでは、歴史的な事情(強い労働組合など)があり、最低賃金制をしいていない例外的な国でしたが、労働組合・ドイツ社会民主党が最低賃金制の制定の方向に動き、それに保守党(キリスト教民主同盟など)が賛成しています。ドイツも日本を超える水準の最低賃金を法定する国になります。
さて、日本の最低賃金はどれほどの水準にあるのでしょうか? 次に若干の統計データを見ておきましょう。(続く)
ガルブレイス『悪意なき欺瞞』(The Economics of Innocent Fraud)を読む
今日の経済学および経済の現状を知るのにジョン・K・ガルブレイスの著書『悪意なき欺瞞 誰も語らなかった経済の真相」(佐和隆光訳、ダイヤモンド社、2004年)*ほど短くて、要領よく説明した本はないかもしれない。
* The Economics of Innocent Fraud, Truth for Our Times, Houghton Mifflin Company, 2004.
直訳すれば、『罪を感じない欺瞞の経済学 われわれの時代の真実』とでもなろうか。多くの経済学者や政治家たちが主観的には悪意を持っているわけではないとしても、誤った経済理論を持っており、それに沿って間違った政策が実行に移され、「悲惨な結果」がもたらされている。しかし、誰も罪を感じているわけではなく、責任も取らない。いや深刻な罪の意識を持つどころか、自己満足に浸っている。この本には、そんな意味が込められている。
どうしてそうなるのか? それは経済学や政治学では、「個人または集団が手にする金銭的利益が現実を見えにくくするという傾きが他の学問分野に比べて顕著である」ことに関係している。それはまた現代経済社会において「企業が支配的な役割を担っていること」に関係している。
しかも、怖いことは、誤った見解が「個々人の、そして社会全体の信仰になるという点」である。
例えば、邦訳の74〜77ページ、<政府をも「経営」する企業経営者>の節は、米国の政府が巨大企業に事実上乗っ取られていることを示し、それに警鐘をならしている。
そのような事態は、ナオミ・クライン氏が「コーポラティズム」(corporatism)という言葉で表現し、元米国大統領ルーズベルト氏が「企業ファシズム」(corporate fashism)と呼び、現在のアメリカ人が「金権政治」(plutocracy)と呼んでいるものでもある。かつてアイゼンハワー元大統領は「軍産複合体」の危険性に警鐘をならしていたが、今や金融資本主義もまたそれに加わっている。
11月26日、法王フランシスコさんが「福音の喜び」で現代の非人間的な新自由主義・市場原理主義・拝金主義を批判したが、その批判対象もほぼ同じといってよいだろう。
ガルブレイスが米国における20世紀最大の優れた経済学者といえるのは、経済社会の現実をザッハリッヒに(事実に即して)きちんと見ていたからである。高等数学(?)を駆使してはいるが、仮想空間をいじっているだけで、経済社会の現実をほとんど知らないエセ経済学者とはまったく異なる。
* The Economics of Innocent Fraud, Truth for Our Times, Houghton Mifflin Company, 2004.
直訳すれば、『罪を感じない欺瞞の経済学 われわれの時代の真実』とでもなろうか。多くの経済学者や政治家たちが主観的には悪意を持っているわけではないとしても、誤った経済理論を持っており、それに沿って間違った政策が実行に移され、「悲惨な結果」がもたらされている。しかし、誰も罪を感じているわけではなく、責任も取らない。いや深刻な罪の意識を持つどころか、自己満足に浸っている。この本には、そんな意味が込められている。
どうしてそうなるのか? それは経済学や政治学では、「個人または集団が手にする金銭的利益が現実を見えにくくするという傾きが他の学問分野に比べて顕著である」ことに関係している。それはまた現代経済社会において「企業が支配的な役割を担っていること」に関係している。
しかも、怖いことは、誤った見解が「個々人の、そして社会全体の信仰になるという点」である。
例えば、邦訳の74〜77ページ、<政府をも「経営」する企業経営者>の節は、米国の政府が巨大企業に事実上乗っ取られていることを示し、それに警鐘をならしている。
そのような事態は、ナオミ・クライン氏が「コーポラティズム」(corporatism)という言葉で表現し、元米国大統領ルーズベルト氏が「企業ファシズム」(corporate fashism)と呼び、現在のアメリカ人が「金権政治」(plutocracy)と呼んでいるものでもある。かつてアイゼンハワー元大統領は「軍産複合体」の危険性に警鐘をならしていたが、今や金融資本主義もまたそれに加わっている。
11月26日、法王フランシスコさんが「福音の喜び」で現代の非人間的な新自由主義・市場原理主義・拝金主義を批判したが、その批判対象もほぼ同じといってよいだろう。
ガルブレイスが米国における20世紀最大の優れた経済学者といえるのは、経済社会の現実をザッハリッヒに(事実に即して)きちんと見ていたからである。高等数学(?)を駆使してはいるが、仮想空間をいじっているだけで、経済社会の現実をほとんど知らないエセ経済学者とはまったく異なる。
2013年12月3日火曜日
賃金低下の動かざる証拠 就業構造基本調査から
1997年から現在(2012年)までに賃金がどのように引き下げられたかは、厚生労働省の労働力調査と就業構造基本調査から明白です。
まず「労働力調査」から。雇用形態の変化がわかります。言うまでもなく、この15年間に男女とも非正規雇用の絶対数も割合も増加しています。
次が「就業構造基本調査」。雇用形態(正規・非正規)・所得区分別の従業員数の変化が分かります。ここでは1997年から2012年の変化をパーセントで示します。20歳代と30歳代の統計を男女別のグラフで示しておきます。
どの年齢層でも男女とも正規から非正規への移動、高所得から低所得への移動が一目瞭然です。
ただし、30歳代女性の場合には、ちょっと注意が必要です。ここでは、やはり非正規雇用の比重が増えていますが、非正規の中では99万円以下の所得区分の人数が減少して、100万円〜299万円のところが増加しています。非正規雇用の低賃金、かつ長時間労働によって所得を増やそうとしている30代の女性が増加しているという姿が浮かび上がってきます。
2002年から2006年に「史上最長」の「景気回復」(好況ではありません!)とか、史上最大の経常収益と騒いでいる人々がいましたが、上のグラフで示されるのが現実です。
ちなみに、経常収支のグラフもあげておきましょう。巨大企業が賃金所得を犠牲にして収益を拡大していたことがよく分かるはずです。
出典は、財務省の法人企業統計。企業は、資本金額によって分類してあります。
まず「労働力調査」から。雇用形態の変化がわかります。言うまでもなく、この15年間に男女とも非正規雇用の絶対数も割合も増加しています。
次が「就業構造基本調査」。雇用形態(正規・非正規)・所得区分別の従業員数の変化が分かります。ここでは1997年から2012年の変化をパーセントで示します。20歳代と30歳代の統計を男女別のグラフで示しておきます。
どの年齢層でも男女とも正規から非正規への移動、高所得から低所得への移動が一目瞭然です。
ただし、30歳代女性の場合には、ちょっと注意が必要です。ここでは、やはり非正規雇用の比重が増えていますが、非正規の中では99万円以下の所得区分の人数が減少して、100万円〜299万円のところが増加しています。非正規雇用の低賃金、かつ長時間労働によって所得を増やそうとしている30代の女性が増加しているという姿が浮かび上がってきます。
2002年から2006年に「史上最長」の「景気回復」(好況ではありません!)とか、史上最大の経常収益と騒いでいる人々がいましたが、上のグラフで示されるのが現実です。
ちなみに、経常収支のグラフもあげておきましょう。巨大企業が賃金所得を犠牲にして収益を拡大していたことがよく分かるはずです。
出典は、財務省の法人企業統計。企業は、資本金額によって分類してあります。
ローマ法王の市場原理主義批判(福音の喜び、Evangelii Gaudium) 2
次に57〜60。(とりあえず、直訳です。)
奉仕せず支配する金融システムにノー
57 このような態度の背後には、倫理の否認と神の否認とが潜んでいる。倫理はある種の軽蔑的嘲笑をもって見られるようになってきた。倫理はお金と力を相対的なものとするため、非生産的なもの、人間的すぎるものと見られている。それは人格の操作や変造を非難するので、脅威であると感じられている。実際、倫理は市場の範疇外にその答えを求める神につながる。市場の範疇が絶対化されるとき、神は人類に完全な自己実現とあらゆる形の隷属状態からの解放を求めるため、制御不能、管理不能で、危険なものとさえ見なされる。倫理、イデオロギー的でない倫理によって安定とより暖かみのある社会秩序をもたらすことが可能となるだろう。このことを考慮しながら、私は、私は金融専門家と政治的指導者が古代の賢人の一人の言葉を熟慮するように求める。「自分の富を貧者と分ち合わないことは、彼らから盗むことであり、彼らの生活を奪うことである。私たちが持つのは私たち自身の財物ではなく、彼らのものである。」
58 このような倫理的配慮に対して開かれた金融改革は、政治指導者の側におけるアプローチの積極的な変化を必要とする。私は、もちろんそれぞれの場合の細部を無視はしないが、決然と、将来を見据えて、この課題に直面することを勧める。お金は奉仕しなければならないのであり、支配してはならない。法王は金持ちであれ貧しい人であれすべての人を愛するが、富者が貧者を助け、敬い、引き上げなければならないことをキリストの名においてすべての人に思い出させる義務がある。私はあなたがたに寛大な連帯を、また人類を優遇する倫理的なアプローチに経済学や金融を戻すことを勧める。
暴力を生む不平等にノー
59 今日多くの場所で、私たちは、より高い安全保証を求める声を聞く。しかし、社会における、また人々の間の排除と不平等が逆転するまでは、暴力をなくしてゆくことは不可能だろう。貧者やより貧しい人々は暴力のために非難されるが、平等な機会がなければ、様々な形の侵略や紛争が拡大するための肥沃な土壌が生み出され、それは結局激増する。社会が(地域的、国民的、またはグローバルかどうかにかかわらず)その一部の人々を周辺部に残そうとしているときには、法執行機関や監視システムに費やされるどんな政治的プログラムも資源も、いつまでも平穏を保証することはできない。そうならない理由は、単に不平等がシステムから排除された者から激しい反応を引き起こすからではなく、社会経済システムがその根底において不正だからである。善良さが広がる傾向を持つのと同じように、不正である悪の容認は、悪影響を広め、どんな政治的および社会的システムをも(それがどんなに堅固に見えようとも)静かに蝕む。もしすべての行為が結果を生むというならば、社会構造に埋め込まれた悪も崩壊と死の可能性を常に秘めている。不正な社会構造に結晶化された悪は、より良い未来への希望の基礎となることはできない。持続可能で平和的な発展のための条件がまだ十分に明確にされておらず、実現されてもいないので、私たちはいわゆる「歴史の終わり」からは遠いところにいる。
60 今日の経済のメカニズムは法外な消費を促進しているが、不平等と結びついた奔放な消費主義が社会構造に二重に損害を与えていることを証明していることは明白である。不平等は、最終的には武力に訴えても解決できず、将来も解決できない暴力を生み出す。近年、私たちは武器や暴力が解決案を提供するというよりは新しい、より深刻な対立を生み出すことを知っているが、それは安全保証の強化を要求している人々に誤った希望を提供するのに奉仕しているに過ぎない。その混乱を理由として貧者と貧しい国を非難して単に自己満足している人もいる。そのような人々は、不当な一般化にふけりながら、解決策は貧者を鎮静化し、飼いならし無害にさせる「教育」にあると主張する。その指導者の政治的イデオロギーが何であれ、多くの国で見られる(政府、企業および教育機関における)広範かつ深く根ざした汚職に照らしてみると、これらすべてが周辺の人々をもっと腹立たせることになる。
2013年12月1日日曜日
ローマ法王の市場原理主義批判( 福音の喜び、Evangelii Gaudium)
ローマ法王が現在のネオリベラリズム(新自由主義、市場原理主義にもとづく現在の強欲資本主義・拝金主義・略奪資本主義・金融資本主義・格差のひどい拡大)を厳しく批判する著書を出しました。商業メディアなどは無視するか、批判的な意見を述べているようですが、法王フランシスコの言葉には説得力があります。英語版が出ていますので、その一部(52〜60)を日本語に訳しました。(こなれた日本語になっていませんが、後日ブラッシュ・アップする予定です。)
52 現在、きわめて多くの分野で進んでいる進歩からわかるように、人類は歴史上の転換点を経験している。私たちは、このような医療、教育、通信といった分野で、人々の福祉を改善するために取られているステップを讃えることができる。同時に、私たち同時代人の多数がどうにか暮らしているだけであり、悲惨な結末を伴っていることを覚えておかねばならない。多くの疾患が広がっている。多くの人々の心は、いわゆる豊かな国でも、恐怖と絶望にとらわれている。生きる喜びが失われ、他人に対する尊敬の欠如と暴力が増加しており、不平等がますます拡大している。生きること、しばしば貴い小さな尊厳をもって生きることが闘いとなっている。この画期的な変化は、科学と技術において生じている巨大な、質的、量的で、迅速かつ累積的な進歩によって、また自然と生活のさまざまな分野における即座の応用によって生じてきた。私たちは、知識と情報の時代におり、それは新しく、しばしば匿名的な種類の力に導かれる。
排除のない経済へ
53 「汝殺すなかれ」という戒めが、人の生命の価値を保護するために明確な制限を設けるのと同じように、今日、私たちも、排除と不平等の経済に対して「汝なかれ」と言わなければならない。そのような経済は殺人に等しい。高齢のホームレスが外で亡くなることがニュースではなく、株式市場が2ポイント下がったことがニュースになることがどうしてありえるのだろうか? これは排除の一例である。人々が飢えているのに食品が捨てられているとき、傍観してよいのだろうか? これは不平等の一例である。今日、すべての者が競争と適者生存の法則の下に置かれ、力の強い者が力のない者によって養われている。その結果、多くの人々が排除され、周辺化されている。仕事に就けず、可能性を失い、脱け出す手段を持たずに、である。人間は、使われる消費財と考えられ、次に捨てられる。私たちは、現在広がっている「捨てる」文化を造り上げてしまった。これはもはや単なる搾取と抑圧ではなく、何か新しい事態である。排除とは、結局のところ、(排除された人々が)私たちの住んでいる社会の一部であることを意味している。しかし、排除された人々はもはや社会の裏側、付属物、または権利を奪われている人々ではない。彼らはもはや社会の一部でさえない。搾取された人々ではなく、部外者(アウトカースト)、「残り物」とされている。
54 。これに関連して、一部の人々は、経済成長は自由市場によって促進され、必然的に世界により偉大な正義と包括性をもたらすことに成功すると仮定するトリクルダウン理論を擁護し続けている。この見解は、事実によって確認されたことがなく、経済力を振り回す者人々の善良さ、また現在広まっている経済システムの神聖な仕組みに対する粗野で素朴な信頼を表現している。一方、排除された人々はまだ待望している。他人を排除するライフスタイルを維持するために、あるいはその利己的な理想に対する熱意を維持するために、無差別のグローバル化が発展してきた。ほとんど意識することなく、私たちは、すべてこれらのことは誰か他の人の責任であり、自分の責任ではないかのように、貧しい人々の抗議に共感を感じ、他の人の痛みのため泣き、そして彼らを助ける必要性を感じることもできずに終わっている。繁栄の文化は私たちを無感覚にする。私たちは、市場が購入するべき新しいものを提供するとき、興奮する。一方、機会がなかったために萎縮したすべての人の生活は、単なる光景に見える。彼らが私たちを動かすことはない。
新しいお金の偶像化にノー
55 このような状況の原因の一つは、お金との関係にある。それは私たちが自分自身と私たちの社会に対する支配権を冷静に受け入れるからである。現在の金融危機のために、私たちはそれが深刻な人間の危機に始まったという事実を見過ごしている! これは人間の優位性を否定するものある。私たちは新しい偶像を造り上げた。古代の黄金の子牛(出エジプト記、32:1-35を参照)の崇拝が、お金の偶像化、および真に人間的な目的を失った非人格的な経済の独裁という新しく冷酷な装いで戻ってきたのである。財政と経済に影響を与える世界的な危機は、それらの不均衡と、とりわけ人類にとっての現実的な関心の欠如を産み出す。人はその必要の一つに過ぎない消費にまで矮小されている。
56 少数者の所得が急激に成長しているが、その一方で、格差がこれらの幸せな少数者の享受している繁栄から大部分の人々をひどく分離している。この不均衡は、市場や金融投機の絶対的自律性を守るイデオロギーの結果である。その結果、少数者は、共通の利益のために監視するという国家の権利、どんな形態であれ統制するという権利を拒否している。新しい専制政治は、このようにそっと、しばしば誉め称えられながら生まれ、一方的かつ執拗に彼ら自身の法律や規則を押しつけている。負債および利子の蓄積はまた、国が自らの経済の可能性を実現し、市民が彼らの実質購買力を享受することを困難にしている。これらのすべての他に、世界的規模で生じてきた汚職の蔓延と利己的な脱税を付け加えることができる。力と所有に対する渇望には限界がない。このシステムは、利益の増加にとって邪魔となるすべてのものを破壊する傾向があるが、ここでは環境のように壊れやすいものは何であれ唯一の規則となった神格化された市場の利益の前に無防備となっている。
失業率の上昇を説明する その6 OECDのひどい勧告
賃金を引き下げれば失業者が減るという新古典派の労働市場論がまったく現実離れしている代物だということは既に繰り返し説明してきました。ところが、あろうことか1994年にOECDという国際組織がその新古典派の労働市場論にもとづいた「職の研究」(Job Study)なるものを公表し、さらにその後、それにもとづいて様々な雇用流動化(つまりストレートに言えば、労働条件の悪化、または悪化を可能とするような制度の創出)の「勧告」を行いました。日本も1996年に勧告を受けています。
これに対して、世界中で様々な抗議が生じました。まずOECDの内部からTUAC(労働組合諮問委員会)が「異例の」反論を出しました。その内容の要点は、「勧告」が単に賃金をはじめとする労働諸条件を引き下げるだけに終わり、雇用状況の改善(失業の減少など)をもたらさずに終わるだけだというものです。このあたりの事情については、石水喜夫氏の『日本型雇用の真実』(ちくま書房、2012年、68〜82ページ)でも紹介されていますので、是非、読んでいただきたいと思います。(なお、筆者の石水氏は、過年度の「労働経済白書」の執筆者であり、現京都大学教授です。)
TUACだけではありません。その後、世界中の優れた経済学者が実証研究・理論研究にもとづいてOECDの「職の研究」、「勧告」を批判してきました。このブログでも機会を捉えて少しずつ紹介して行きたいと思います。これらの研究は、1996年のTUACの反論が述べた通りのこと、すなわち雇用流動化は労働諸条件を悪化させる(またはさせた)だけであり、失業率の低下には何ら役立っていないことを明らかにしています。
残念ながらもちろん中には時流に乗ってOECDの勧告を吹聴する経済学者がいることは否定できません。彼らには共通する特徴があり、それは新古典派の労働市場論をオウム返しに繰り返すだけであり、現実の経済を分析・調査していないことです。また彼らは専門家に事実を指摘されると黙りを決め込みます。しかし、じっと黙っているのではなく、マスコミなどでは批判される恐れがないので、その持論を大々的に喧伝します。
TUACの反対声明(1996年)を引用します。
企業の利益が改善しているにもかかわらず、「グローバリゼーション」のキャッチワードのもとで、競争的になるために生活水準を低下させる必要があるといった誤った主張がなされている。また、いくつかの政府では、対策をとれない言いわけに利用されている。さらに、そうした政策の欠如の結果も現れてきている。
現行のOECDの労働市場は、一体性を損なわせる一層不平等なものになりつつある。いくつかの企業は、OECD域外国からの低賃金の競争圧力を伴う激しいグローバルマーケットのいて、時代遅れの生産、競争の形態に囚われている。さらに競争し合っているのは企業同士というよりは、違う国の労働者同士が、それぞれの国の経営者が提供する限られた雇用機会を手に入れようと、労働者同士で競争し合わなければならなくなってきている。
・・・(中略)雇い入れや解雇の柔軟性および賃金の切り下げは、いくら好意的に考えても的外れなものと言わざるをえず、低賃金、低技能により競争力を高めようとうする方向を促進してしまうものであろう。OECD雇用研究のフォローアップにおいて、この「負の柔軟性」の論点が過度に強調されていることは基本的な欠陥であり、変更されなければならない。
2006年になってOECDは、1994年の「職の研究」を事実上撤回しました。しかし、その間、日本では、非正規雇用の多用を宣言した経団連の『新時代の日本的経営』が出され、派遣労働が自由化され、1997年以降の企業の雇用戦略転換によって非正規の低賃金労働が拡大しました。そして、その結果は、日本全体における貨幣賃金所得の大幅な低下(一方では、巨大企業はこの間に史上最大の経常収益を計上している!)、失業率の上昇に終わっています。
OECDや勧告を実施した政府はこの責任をどのようにとるのでしょうか。
これに対して、世界中で様々な抗議が生じました。まずOECDの内部からTUAC(労働組合諮問委員会)が「異例の」反論を出しました。その内容の要点は、「勧告」が単に賃金をはじめとする労働諸条件を引き下げるだけに終わり、雇用状況の改善(失業の減少など)をもたらさずに終わるだけだというものです。このあたりの事情については、石水喜夫氏の『日本型雇用の真実』(ちくま書房、2012年、68〜82ページ)でも紹介されていますので、是非、読んでいただきたいと思います。(なお、筆者の石水氏は、過年度の「労働経済白書」の執筆者であり、現京都大学教授です。)
TUACだけではありません。その後、世界中の優れた経済学者が実証研究・理論研究にもとづいてOECDの「職の研究」、「勧告」を批判してきました。このブログでも機会を捉えて少しずつ紹介して行きたいと思います。これらの研究は、1996年のTUACの反論が述べた通りのこと、すなわち雇用流動化は労働諸条件を悪化させる(またはさせた)だけであり、失業率の低下には何ら役立っていないことを明らかにしています。
残念ながらもちろん中には時流に乗ってOECDの勧告を吹聴する経済学者がいることは否定できません。彼らには共通する特徴があり、それは新古典派の労働市場論をオウム返しに繰り返すだけであり、現実の経済を分析・調査していないことです。また彼らは専門家に事実を指摘されると黙りを決め込みます。しかし、じっと黙っているのではなく、マスコミなどでは批判される恐れがないので、その持論を大々的に喧伝します。
TUACの反対声明(1996年)を引用します。
企業の利益が改善しているにもかかわらず、「グローバリゼーション」のキャッチワードのもとで、競争的になるために生活水準を低下させる必要があるといった誤った主張がなされている。また、いくつかの政府では、対策をとれない言いわけに利用されている。さらに、そうした政策の欠如の結果も現れてきている。
現行のOECDの労働市場は、一体性を損なわせる一層不平等なものになりつつある。いくつかの企業は、OECD域外国からの低賃金の競争圧力を伴う激しいグローバルマーケットのいて、時代遅れの生産、競争の形態に囚われている。さらに競争し合っているのは企業同士というよりは、違う国の労働者同士が、それぞれの国の経営者が提供する限られた雇用機会を手に入れようと、労働者同士で競争し合わなければならなくなってきている。
・・・(中略)雇い入れや解雇の柔軟性および賃金の切り下げは、いくら好意的に考えても的外れなものと言わざるをえず、低賃金、低技能により競争力を高めようとうする方向を促進してしまうものであろう。OECD雇用研究のフォローアップにおいて、この「負の柔軟性」の論点が過度に強調されていることは基本的な欠陥であり、変更されなければならない。
2006年になってOECDは、1994年の「職の研究」を事実上撤回しました。しかし、その間、日本では、非正規雇用の多用を宣言した経団連の『新時代の日本的経営』が出され、派遣労働が自由化され、1997年以降の企業の雇用戦略転換によって非正規の低賃金労働が拡大しました。そして、その結果は、日本全体における貨幣賃金所得の大幅な低下(一方では、巨大企業はこの間に史上最大の経常収益を計上している!)、失業率の上昇に終わっています。
OECDや勧告を実施した政府はこの責任をどのようにとるのでしょうか。
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