2013年10月5日土曜日

マルクス その5

 ホランダー(Samuel Hollander)という経済学者がいます。近年(2008年)にケンブリッジ大学出版会から『マルクスの経済学』(The Economics of Karl Marx)という本を出版しました。500ページ以上におよぶ大著です。
 いつか時間をみて、この本のいくつかのトピックスを紹介したいと思いますが、今日は現在でもマルクスが世界で最も注目されている哲学者であることを示し、その後、マルクスが資本主義体制内における福祉改革をどのように考えていたかを示す箇所にとどめたいと思います。

 最近のBBC Radio-4 世論調査(http://www.bbc.co.uk/radio4/)によれば、「英国の最も尊敬すべき哲学者」が次のような結果になっています。

   マルクス          27.93%
   デーヴィッド・ヒューム   12.67      
   ヴィトゲンシュタイン      6.80    
   ニーチェ                                          6.49
   プラトン                                          5.65
   カント                                              5.61
   トマス・アキナス                          4.83
   ソクラテス                                      4.82
   アリストテレス                              4.52
   ポッパー                                          4.20

 イギリスでは、近年、サッチャー政権以降に所得格差が著しく拡大するという状況の中で、明らかにそれに抗議するという意味を持つ「暴動」(Riots)が各地で生じました。また米国では格差の拡大に抗議する運動、つまり1%の階層の大幅な所得増加と99%の人々の所得減・停滞に対する抗議運動(Occupy Wall Street)が生じています。
 マルクスは、ソ連型の国家社会主義体制の責任を問われた形ですが、資本主義経済の「混乱」と「暴走」、つまり「カジノ資本主義」・「マッドマネー」といった金融資本主義のもたらした混乱、「強欲資本主義」や「略奪資本主義」の生成の中で拡大してきた所得格差や低賃金労働の拡大などによって注目され、「復帰」しつつあることは間違いないでしょう。

  さて、次の点ですが、ハイエクとともに市場原理主義(自由資本主義擁護)の代表者として有名なミーゼス(von Mises)は、「マルクスと正統的なマルクス主義の学派」は資本主義体制内における社会改革を初期だけでなく後期にいたってもいっそう「反動的」と見なし、それに反対したと主張しました。マルクスに敵対していたこの人物の、この考え方は広く流布しているように見えます。しかし、本当でしょうか?
 確かに初期のマルクスは、資本家にそのような改革を福祉改革を行う意思はないと捉えていたようです。それには、ひとたび制定された1840年の工場法(婦女子を対象とした10時間労働法)が一時廃止されたりし、実際に改革がほとんど進展しなかったからです。労働法を制定していた当時の議会が民主的な議会ではなく、ごく少数の富裕者(高額納税者)にしか選挙権のない非民主的議会であったことも考えなければなりません。だからこそ議会改革運動(チャーティズム運動)が高揚したのです。また当時の普通の経済学者も述べているように、産業革命以後の経済発展にもかかわらずごく一部の上層労働者の上層労働者だけしか実質賃金の上昇を享受しておらず、大衆の実質賃金はまったく上がらないという状況がありました。19世紀に古典派経済学を「通俗化」した経済学者として有名なフォーセット夫人でさ次のように言っています。「富者はますます富裕になり、一方、産業階級の享受する安楽には進歩が知覚できず、貨幣賃金の増加は概ね賃金財価格の上昇によって打ち消されている。」
 さて、後期に至ってもマルクスは、一方では、競争的資本主義の下で個々の企業家は、Apres moi le delugeという命令(dictum)に従い、社会改革に否定的たらざるを得ないと考えていたことは事実です。「資本は・・・労働者の健康と寿命を考えられない。自由競争は、個々のどの資本家に対しても力を及ぼす外的な強制的法則の形で、資本主義的生産の特有の法則をもたらす」(『資本論』の有名な一節)。
 しかし、実際には、これは話の半分であり、他方では、1860年代〜1880年代にかけてマルクスは社会改革の意義を認めるようになってきました。1850年の「工場法」(これは、児童や女性を長時間働かせる「自由」を奪うとしてそれに反対した多くの企業家の反論をおして制定されたものです)の進歩的意義をマルクスは決して否定していません。「労働者階級のしだいに押し寄せる反乱は、議会に労働時間を強制的に短くし、工場自体に標準的な労働日を課し始めた。」
 つまりミーゼスの批判とは異なり、マルクスは両面をきちんと見ていました。一方で個々の企業家が社会改革に反対する事実を見ていました。19世紀の企業家が児童や婦人を自由に長時間働かせる「自由」(!!)を規制することに反対したように、今日の企業家も、労働者を保護する様々な政策に反対しています。また規制を緩和すると、それにつけいって労働者を劣悪な労働条件で長時間働かせようとする「ブラック企業」も多数出現します。しかし、それに対して労働運動のたかまりの圧力の下で、議会などが産業民主制を拡充するなどの社会改革を押し進めたことをマルクスは高く評価しています。
 ミーゼスは、マルクスが資本主義体制内の社会改革の意義を認めない硬直的な原理主義者だったという印象を作り出しましたが、実際のマルクスは決してそうではなく資本主義体制内における労働者の陶冶や社会改革の意義を認める「修正主義者」(revisionist)だったことは、1860年代から80年代に書かれた多数の論考から判明します。
 マルクスは、1860年代以降のさらなる進歩に言及するようになります。その一例。
 「大工場主たちが辞任し、不可避的なことと和解したのちに、資本の抵抗力はしだいに弱まったが、一方、同時に労働者階級の攻撃力は、この問題に直接関心を持たない社会階級における同盟者の数とともに増加したことが明らかに理解されるだろう。ここから1860年代以降の比較的急速な進歩が生じる。」
 1860年代以降に多くの変化が生じたことは、今日の労働史研究でも明らかにされています。もちろん、今日、多くの先進国でかなりの程度の産業民主制が達成されているのは、こうした変化の結果であることは言うまでもありません。

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