2016年10月5日水曜日

政権党の「国民分断策」

 権力者は、自分の政策が失敗したと気づいたとき(例えば構造改革が失敗したり、アベノミクスの失敗に気づいたり、また昨年のように国民が安保法制の違憲性、危険性を知り、支持率が低下したときのように)、様々な方法に訴える。
 その方法はいろいろあり、ナショナリズムに訴えるのも一つであり、「国民を分断させる」のも一つである。
 もちろんナショナリズムに訴える場合には、外部の相手が必要である。例えば中国である。これについては、あの豊洲問題でも取りざたされている石原慎太郎氏であるが、彼が尖閣問題の火付け役であったことは、多くの人が記憶されているだろう。
 石原氏は、日中国交正常化の過程で、その問題をあえて伏せておこうと決めた日中両国のナショナリズムに火をつけた張本人である。それ以後、「ナショナリズムの悪循環・昂進」ともいうべき事態が生じた。中国側の対応も問題だが、日本側の対応も問題である。

 これについては、身内の恥をさらすようだが、個人的な話をするのがわかりやすいかもしれない。私の知り合いの一人(プライベートな事なので詳しくは、記さない)が、テレビを見ながら、まさに安部政権の喜びそうなことを一昨年から言い始めていた。
 私はそばにいて、これは危険な「ナショナリズムの悪循環」であると諭し、「もし集団的自衛権(つまり日本を攻撃していない他国を攻撃する権利)を認め、安保法案を成立させたら、あとで後悔することになりますよ」とも、「あなたは本当に中国と戦争するつもりですか」とも、異見を言っていたことがある。私の言う、あるべき外交政策とは、ナショナリズムの悪循環を止める政策、軍事によらず平和を追求する政策に他ならない。
 これは歴史的には経済的にも最も理にかなった策である。

 さて、政治家の悪用するもう一つの策は、国民分断策である。「分割して統治せよ」は、古来からの独裁的な権力者の便利な道具であることは、よく知られている。なぜ便利かと言えば、分割すれば、権力者に対抗する人々は、それぞれの部分問題に制限されるため、常に少数派となるからである。したがって対抗する方法は、団結(union)である。

 現在、またこれまで自民党を中心とする政権が行ってきた分断策の分断線の一つは、年齢グループに関するものである。若年者と高齢者を分断し、特に高齢者の負担が若者にのしかかっていると主張する方法である。

 このような方法は、アメリカ合衆国でも主に共和党によって行われてきた。しかし、実に驚くべきことに、先の大統領選の予備選挙で見られたように、アメリカの民主党内では、主に若者がそのような策に反対し、バーニー・サンダース氏の「民主的社会主義」に賛成の意思を示した。なお、イギリスでも同様な傾向が生じており、労働党内で、若者達が1990年代以降のブレアー以降に続いた「新自由主義」政策を拒否し、社会民主主義の新たな再建を支持している。これは長らく「新自由主義の牙城」であったアングロ・サクソン系の国における新しい変化の前兆ともいうべきものである。
 
 それはさて、このような分断策にのせられないことが如何に重要かは、次に示すガルブレイス氏の論説からも見られる通りである。
 The Daily Beast に載せられた彼の主張を読んでみて欲しい。


ジェームス・ガルブレイス「これは赤字のドローンにとって終わりとなるか?」
 The Daily Beast (2013123日)

戦争では、しばしば潮目の変わる瞬間がやってくる。1918年のルーデンドルフの攻勢の崩壊は、休戦の前兆であった。アーデンにおける敗北は1944のドイツにとって終わりを意味した。
今日私たちには同じような状態の2つのドローン戦争がある。一つは主にパキスタンにある。この戦争は約束したことを果たすことができない「トンデモ」技術にもとづいており、あまりにも小さな効果に対してあまりにも多くの犠牲を求めた。それは外交的な災難であり、そのため、ほぼ確実に終わりの日も近い。
他のドローン戦争はワシントンにある。それらのドローンは責任ある連邦予算および負債を固定するキャンペーンのための委員会のような名前のグループにある。彼らは、私たちが社会保障、メディケアおよびメディケイドを削減しなければ待ち受けているという災難に、次々とドローンを落としている。
 赤字ドローンの目標が社会保障、メディケアおよびメディケイドを削減することにあることは、その運動のお金がどこから来るかを見る人には、何年も明らかであった。それは、主にピーター・G・ピーターソン(ニクソンの下にいた億万長者の元商業長官)であり、彼は社会保障のモビー・ディックに対するキャプテン・アハブである。またたとえば私有化(民営化)のような一つのトリックが失敗すると、彼の手先たちが退職年齢を引き上げるとか、COLAを変えるとか、他のトリックを使う。しかし、他のどんな名前でもまだ削減、またいつも削減というだけである。
 ピーターソンの影響は大きい。実際、全DCマインド・メルドが彼のラインをある程度まで購入した。
 先日、私は想像では負債の天井について議論するためにCNBCに出演したが、話題はずっと社会保障であった。私のホスト、アンドリュー・ロス・ソーキンは非常に鈍かった。彼は尋ねた。「もし今が資格を削減するときでないならば、いつでしょうか?」 私の答えは、一言でいえば、「決して(将来も削減しない)」だったが、これは彼が以前は可能と考えていなかったように思われるものである。
だが、社会保障、メディケアまたはメディケイドを削減する適正な理由はない。それらは、保障プログラムである。それらは、高齢者、その遺族および被扶養者、そして障害者を極度の貧困から救うものである。私たちにはその力がある。また金融上の問題もない。もしあったならば、投資は3%で20年物の米国債を購入していないだろう。最近、ある経済学者たちが削減が必要であると言っており、そのとき、「信頼性」を確立するためのショーのためと言っている。昔からの人は、それはDCインサイダーたちがかつてベトナム戦争について言ったことだと覚えているだろう。
そして、ベトナムと同様に、この戦争は古くなっている。私たちは、それを必要としないことを理解しはじめている。もし合衆国が本当にある種の赤字危機または債務危機に直面したのならば、何かが今までに起きいただろう。シンプソンとボールズ――私たちを財政均衡に導こうとしていたこれらの勇敢な人たち――を、誰が覚えているだろうか? 超委員会? 財政の崖?すべては過去の話である。だが、社会保障、メディケアおよびメディケイドはまだここにある。経済はまだ安定している。また利子率はまだ低い。負債の天井? それについては大統領が立ち上がり、共和党は道を譲った。たしかに、接収および持続的な解決は先のことである。しかし、あなたが負債の天井をめぐるブラックメールを拒否するならば、なぜ、他の何かについてそれに譲歩するのか? ブラックメーラーは、公衆がどちら側を取るか今までに知っているはずである。
また次に月曜日に私たちはオバマ大統領から聞いた。彼の偉大な演説は、多くの問題を解決したが、その一部として、彼は小さな経済的教訓を与えた。以下に彼の言ったことをあげる。
 
 「私たちが相互に――メディケアとメディケイド、また社会保障を通じて――行う関与、これらは、私たちのイニシアティヴを弱めない。それは私たちを強める。それは私たちを受取者(takers)の国民にしない。それはこの国を偉大にするリスクを取るように私たちを自由にする。」
 これはまったく正しい。社会保障、メディケアおよびメディケイドは、単に若者からの移転なのではない。それは私たちの生活の基礎組織の一部である。それは私たちすべてを――若きも老いも、私たちの一人一人全員を――苦しみを減じ、恐れを減じ、少しでもより独立的にし、他の方法よりも少し安心させるために――自由にする。高齢者の生活は規則的な所得と健康保険を持つときには、確かによりよくなる。しかし、働く人々の生活もまた、毎日、直接、間接によりよくなる。これを好まないピーターソン氏とその仲間たちのような人もいる。彼らの動機は簡単である。しかし、いやま大統領が選択をしたように思われる。彼の使った言葉は、「関与」である。繰り返せば、まさにそうである。それが社会保障、メディケアおよびメディケイドというものである。オバマ大統領はこう言ったとき、大きな一歩を踏み出したのである。

いまや議会が彼と一緒に立ち、ブラックメールにノーを、事態を偽造することにノーを、偽装された削減にノーを、恐れにノーを、あの赤字ドローンにノーを言う時である。

注)アメリカ合衆国で「社会保障」(social security)というのは、日本で言う「年金制度」を意味する。またメディケア、メディケイドは、高齢者や低所得者のための公的医療保険制度を示す。

2016年10月3日月曜日

マーガレット・サッチャーの迷言 「社会といったものなどない。」

 かつて(1980年代に)イギリスの首相を務めたマーガレット・サッチャー氏(故人)は、かずかずの名言(迷言?)を残しました。

 「他の代替案はない。」(There is no alternative. 略してTINA)
 「くやしかったらがんばりなさい。」
 「社会というものなどない。」
 (その他は省略します。)

 「他の代替案」というのは、彼女の推進する「新自由主義政策」で、「くやしかったらがんばりなさい」というのは、これからは何でも「自助」でゆくから、貧しいひとは一生懸命頑張って豊かになりなさい、といった意味ですjが、そもそも社会では、スタートラインに大きな格差があり、誰でも頑張れば大金持ち(資産家)になれるわけではありません。

 「社会というものなどない」(There is no such thing as society.) というのは、社会科学者なら挑戦をうけたわけであり、少々考えさせられる言葉でしたから、今でもよく覚えています。

 社会学者なら、「社会とは諸個人の社会的関係のアンサンブル(総体)である」といって、答えるかもしれません。

 私は詳しくはありませんが、仏教では、華厳教に「事事無礙の法界縁起」が説かれており、すべての世界事象は、相互に関係しており、相互に溶け合い、関係して存在している(dependent-rising)、と説いています。曹洞宗を開いた道元も『正法眼蔵』で法界縁起に時々触れています。

 相互関係ですから、たしかに「物」ではないことは言うまでもありませんが、上記のような意味ならば存在していることは間違いありません。
 ただし、サッチャー氏も、さすがにこれではまずいと思ったのでしょうか、「ただし家族を除いて」と補足しています。つまり、家族関係だけが社会関係だというわけです。

 しかし、仏教の「法界縁起」を持ち出すまでもなく、私たちの住む世界では、家族以外の社会関係が満ちあふれるほど存在しています。
 むしろ、人間は一人で孤独に暮らすことができないようになっているといってよいかもしれません。もちろん、いろんな人が暮らしているのですから、何らかの「妥協」(生物学でいう「共生」symbiosis)が必要となるでしょう。

 経済の世界で現在もっとも基礎的で重要な社会関係をなしているのが「企業」、「会社」であることは、言うまでもありません。その多面的な分析は、経済学者の重要な仕事です。
 ですから、マルクスも、ケインズも、ヴェブレンも、ガルブレイスも、そもそも偉大な研究をなしとげた一流の経済学者は皆企業(または会社、資本)に関する考察・分析を残しています。
 
 ここで思い出しました。名前は売れているかもしれないけれど、企業や会社のことなどにほとんどまってく触れていない経済学者もいました。例えばミルトン・フリードマンやハイエクです。

 彼らは、市場原理主義に偏執狂的にとりつかれた経済学者といっても過言ではなく、個人と個人との市場取引について多くを語っていますが、企業という組織の分析をしたことはありません。彼らは、企業を組織を持たない一つの点としか捉えず、その内部組織と性質を研究することはしませんでした。これは物理学で言えば、原子の中の構造を研究しないのと同じことではないでしょうか。
 なぜ彼らが企業組織を研究しなかったかと言えば、そんなことをすれば現代の経済組織が「自由市場」からのみ成立しているのではないことがバレバレだったからと思われます。
 サッチャー氏の頭の中も同様だったのでしょう。

 ここまで書いて思い出しましたが、何年か前に新潟大学在職中に学内の研究会でアメリカ経済学会の会長(オルブロウ氏)に会うことができました。
 彼はサッチャー氏の言葉にむしろ研究意欲をかき立てられたと書いています。
 研究会が終わったあと、会長が問わず語りに、「日本はなぜアメリカ流の市場主義、訴訟社会をつくりだそうとしているのか? 理解に苦しむ。アメリカは、訴訟にお金がかかりすぎて大変だ。日本のように、訴訟に頼らずにやってゆける社会が最善なのに・・・。」といった趣旨の言葉を私に話しかけてまいりました。
 「私もその通りと思います。」と答えたのを思い出します。
 この訴訟というのも、社会関係の一つです。
 
 社会は存在している。ただし、物質ではなく、その社会の成員一人一人の相互関係として、存在している。 しかも、現在の経済社会では、人は、相互に原子的な(atomic)な個人の集合としてではなく、市場で取引をするにすぎないのではなく、様々な仕方で、また領域で相互に社会的関係を取り持つ。

 これが現実的な経済学の出発点でしょう。




マーガレット・サッチャーの迷言 「社会といったものなどない。」

 かつて(1980年代に)イギリスの首相を務めたマーガレット・サッチャー氏(故人)は、かずかずの名言(迷言?)を残しました。

 「他の代替案はない。」(There is no alternative. 略してTINA)
 「くやしかったらがんばりなさい。」
 「社会というものなどない。」
 (その他は省略します。)

「他の代替案」というのは、彼女の推進する「新自由主義政策」で、「くやしかったらがんばりなさい」というのは、これからは何でも「自助」でゆくから、貧しいひとは一生懸命頑張って豊かになりなさい、といった意味ですjが、そもそも社会では、スタートラインに大きな格差があるのだから、誰でも頑張れば大金持ち(資産家)になれるわけではありません。

 このうち「社会というものなどない」(There is no such thing as society.) というのは、社会科学者なら少々考えさせられる言葉ですから、今でもよく覚えています。

 社会学者なら、「社会とは諸個人の社会的関係のアンサンブル(総体)である」といって、答えるかもしれません。

 私は詳しくはありませんが、仏教では、華厳教に「事事無礙の法界縁起」が説かれており、すべての世界事象は、相互に関係しており、相互に溶け合い、関係して存在している(dependent-rising)、というかもしれません。曹洞宗を開いた道元も『正法眼蔵』で法界縁起に時々触れています。

 相互関係ですから、たしかに「物」ではないことは言うまでもありませんが、上記のような意味ならば存在していることは間違いありません。
 ただし、サッチャー氏も、さすがにこれではまずいと思ったのでしょうか、「ただし家族を除いて」と補足しています。つまり、家族関係だけが社会関係だというわけです。

 しかし、仏教の「法界縁起」を持ち出すまでもなく、私たちの住む世界では、家族以外の社会関係が満ちあふれるほど存在しています。
 むしろ、人間は一人で孤独に暮らすことができないようになっているといってよいかもしれません。もちろん、いろんな人が暮らしているのですから、何らかの「妥協」(生物学でいう「共生」symbiosis)が必要となるでしょう。

 経済の世界で現在もっとも基礎的で重要な社会関係をなしているのが「企業」、「会社」であることは、言うまでもありません。その多面的な分析は、経済学者の重要な仕事です。
 ですから、マルクスも、ケインズも、ヴェブレンも、ガルブレイスも、そもそも偉大な研究をなしとげた一流の経済学者は皆企業(または会社、資本)に関する考察・分析を残しています。
 
 ここで思い出しました。名前は売れているかもしれないけれど、企業や会社のことなどにほとんどまってく触れていない経済学者もいました。例えばミルトン・フリードマンやハイエクです。

 彼らは、市場原理主義に偏執狂的にとりつかれた経済学者といっても過言ではなく、個人と個人との市場取引について多くを語っていますが、企業という組織の分析をしたことはありません。彼らは、企業を組織を持たない一つの点としか捉えず、その内部組織と性質を研究することはしませんでした。これは物理学で言えば、原子の中の構造を研究しないのと同じことではないでしょうか。
 なぜ彼らが企業組織を研究しなかったかと言えば、そんなことをすれば現代の経済組織が「自由市場」からのみ成立しているのではないことがバレバレだったからと思われます。
 サッチャー氏の頭の中も同様だったのでしょう。

 ここまで書いて思い出しましたが、何年か前に新潟大学在職中に学内の研究会でアメリカ経済学会の会長(オルブロウ氏)に会うことができました。
 彼はサッチャー氏の言葉にむしろ研究意欲をかき立てられたと書いています。
 研究会が終わったあと、会長が問わず語りに、「日本はなぜアメリカ流の市場主義、訴訟社会をつくりだそうとしているのか? 理会に苦しむ。アメリカは、訴訟にお金がかかりすぎて大変だ。日本のように、訴訟に頼らずにやってゆける社会が最善なのに・・・。」といった趣旨の言葉を私に話しかけてまいりました。
 「私もその通りと思います。」と答えたのを思い出します。
 この訴訟というのも、社会関係の一つです。
 
 社会は存在している。ただし、物質ではなく、その社会の成員一人一人の相互関係として、存在している。 しかも、現在の経済社会では、人は、相互に原子的な(atomic)な個人の集合としてではなく、市場で取引をするにすぎないのではなく、様々な仕方で、また領域で相互に社会的関係を取り持つ。

 これが現実的な経済学の出発点でしょう。




アメリカとイギリスで始まる若者の新しい動き 「新自由主義」批判の波

 アメリカとイギリスの若者の間で、新しい動きがはっきりしてきました。
 それは、新自由主義(ネオリベラル)政策と決別し、新たな社会主義を模索する動きです。
 
 そもそも1980年頃まで、世界経済は現在とはかなり異なる状態にありました。
 いわゆる「資本主義の黄金時代」(golden age of capitalism)といわれる時代にあって、経済の成長率もかなり高かったわけですが、それ以上に特徴的だったのは、労働生産性の上昇とともに、それに比例して、あるいはそれ以上に人々の雇用者報酬(賃金)が引き上げられていったことです。
 そのため、最近日本でも注目されたサエズ、ピケッティの研究が示すように、戦中から戦後にかけて大幅に縮小した所得格差がふたたび拡大することはありませんでした。そして、この時代に大衆消費社会が到来し、中間階層といわれる階層が出現しました。

 ところが、1979年のイギリスの総選挙、それに1980年のアメリカ大統領選挙によって、それぞれサッチャー(保守党)、レーガン(共和党)が首相、大統領に選ばれました。そして、彼らがはじめたのが、新自由主義政策です。これは当時、問題となっていたスタグフレーション(インフレと停滞)に対処する政策として正当化されました。

 
 この政策は、両国において細部は異なりますが、マネタリズム(通貨主義)=高金利による金融引締策、供給側(サプライサイド)の経済学、緊縮財政、「柔軟な労働市場」などなどです。
 アメリカでは、ウルトラ高金利によってたちまち不況に陥るとともに、失業率が上昇し、賃金が抑制されはじめ、その結果、インフレは収まりましたが、アメリカ経済は大打撃をうけました。
 その上、高金利のためドル高、つまり円安・マルク安などとなり、アメリの輸出産業が大打撃を受けただけでなく、内需向けの産業(鉄鋼、自動者など)も日本・ドイツからの輸入によって大打撃を受けました。GMやフォードが従業員の解雇などのリストラを行ったという記事が当時の新聞に載っています。
 ともあれ、高失業時代が到来し、これ以降、賃金は圧縮されはじめました。アメリカ議会予算局の報告(CBO)でも、連邦準備制度のデータでも、実質賃金は、労働生産性に上昇よりはるかに低い率でしか上がらなくなったことがわかります。

 しかも、それだけではありません。レーガンは、供給側の経済学の立場から、法人税の大幅引き下げを実現し、また所得税の限界税率を大幅に引き下げました。これによって富裕者の可処分所得や大企業の可処分所得(税引後の利潤)が増えたことはいうまでもありません。
 レーガンの理屈では、このように大企業・富裕者の所得が増えると、貯蓄が増え、(設備)投資が増え、生産力が上昇するため、経済がふたたび順調に成長する、「はず」でした。そして、「トリクルダウン」によって、所得上位者からはじまった所得増加が、次に低所得者の所得増加につながってゆく、「はず」でした。
 
 しかし、これらの高成長やトリクルダウンは生じませんでした。成長率は以前のような高率にもどったわけではありません。(まあ、高度成長はいつまでも続くわけではないので、この点は問わないとしましょう。)
 では、所得分配はどうなったでしょうか? 
 言うまでもありません。格差は広まる一方となりました。例えば男性の一人・一時間あたりの実質賃金を見ると、1970年代から現在までむしろ低下しています! 一方、所得上位者1%、あるいは0.1%、あるいは0.01%の人々の所得(可処分所得)は大幅に増えています。このことについては、すでに本ブログでも紹介しています。

 イギリスでも似たりよったりですが、ここでは省略します。

 さて、私がここで注目するのは、こうした状況の中で、アメリカやイギリス、つまりこれまで先頭に立って新自由主義の旗振りをしていたアングロ・サクソン系の国で、特に若い層を中心にこれに対する抗議運動が活発化し、方向転換を図ろうとしていることです。

 イギリスでは、数年前に「暴動」(riots)がイギリス各地の都市で起きましたが、現在、労働党の内部では、ブレアーの下でもすすめられた新自由主義政策を否定し、社会民主主義に回帰する動きとそれを支持する動きが若者の間で支持されています。

 アメリカでも数年前に「ウォール街を占拠せよ」(Occupy Wall Street)の運動が起きました。そしていま保守・共和党内部でもトランプという人気取り政治家が台頭し、従来の共和党とは少し異なることを主張しはじめました。(といっても、よく見ると、基本的には旧来の共和党の路線を継承しています。)一方、民主党の内部では、バーニー・サンダース氏の「民主的社会主義」が若者の間で大きな支持を得ました。ヒラリーも、サンダース氏に勝つために、少し、左旋回し、にじりよらなければならなかった程です。

 こうしたアングロ・サクソン系の「自由市場経済」の国で、大きな転換が生じはじめていることは決して無視できません。
 現在、それはまだ新自由主義の「終わりの始まり」、また新しいものの「始まりの始まり」の段階かもしれませんが、イギリスとアメリカは、フランスとならんで「自由と諸権利」を世界でも最も早い時期に実現した国です。空気(雰囲気)が大きく変わっていることは間違いありません。
 

 

2016年10月2日日曜日

昨日の東京新聞の注目記事 アベノミクスの幻想を示す

 先々月(8月)の22日に白内障の手術を受けてから、約5週間。やっと眼科の先生から仕事復帰の

許可がおり、運転免許証更新の際の視力検査もかるがると通過。世界がはっきりと見えるようにな

りました。

 このブログは、書きかけのものが多く、為替相場、EU、英国のEUからの離脱(Brexit)など、中途

半端のまま終わっているものが多々ありますが、その理由は、書きながら調べ、調べながら書いて

いるので、また途中でウチナーグチ(沖縄語)やアイヌ語、日本古代史(近年のDND分析によるも

のなどと含む)、趣味的な事柄に関する本や(場合によっては)専門的な論文などを読みだすもの

だから、なかなか先に進まないという事情もあります。

 それに昨年からは、「九条の会」の活動もあり、さらに日米欧の軍産複合体研究のことも加わり、

忙しくなりました。


 さて、昨日(10月1日)の東京新聞からいくかをピックアップします。

1面 新電力契約伸び悩む 自由化半年、2.7%どまり
 
  「利点を見いだせず様子見する家庭が依然として多いようだ。」
 
 そりゃそうだ。うちも旧来のままです。

 それより、原発の費用が電気料金に上乗せされる。こちらの方が大ニュース。

3面 97条で応酬 細野氏「なぜ削除」 首相「単なる整理

 自民草案「基本的人権巡り」
 
 「単なる整理」の訳がない。これは安部政権のねらいそのものだから。
 
 本来、現在の近代的な憲法(民主主義国、立憲制の国)は、どこの国でも、国家権力を制約する

ものであり、人々(国民)の自由と権利を国家権力が保障しなければならないと規定している。
 
 それが「法の支配」の意味だ。法(right)とは正義(justice, jus)であり、自由と諸権利を意味する。

ところが安部君は、恥ずかしくもなく、「法律の支配」と公言してはばからない人だということからも

わかるように(また改憲草案にもそのことが明記されているが)、国家権力の側から人々の権利を

制限することをもくろんでいる。

 古代の中国では、法律とは「律」であり「令」、つまりお上が明文により制定した行政法と刑法であ

った。それによって「臣」と「人民」を支配しようとした。これはもちろん近代の「法の支配」とは似て

非なるものである。

 聞くところでは、安部君は、現代の中国の政治家に教えたいと言ったそうだが、本当に教えを請

わなければならないのは「あなた(安部君)です」。


5面 社説 配偶者控除  増税がねらいではないか

 読んでみてください。社説の通りです。

 いつか(後日)、コメントしたいテーマです。

7面 暮らしへの影響読めず 金融緩和策修正 長期金利上げ不発

 「日銀が2月にマイナス金利を導入後、預金金利は極限まで低下。保険会社は国債での運用に

困り、貯蓄性の高い保険は次々に販売停止に。・・・
 
 弊害が目立ち始めたため、日銀は長期金利を0%程度に誘導することを「検証後」に決めた。

 しかし、長期金利は「検証後」もマイナス水準で推移。しびれを切らした日銀は「五年超十年以

下」の国債の買い入れ額を前回より減額。」

 しかし、効果なく、マイナス金利は続く。

7面 将来不安大  実質賃金減 かみあわぬ経済政策

 アベノミクスの「アベコベ」ぶりは、いまや知る人ぞ知る事実。
 
 そういえば、安部政権が誕生し、「アベノミクス」が喧伝されはじめたとき、私はある場所で、主に

社会人を相手に日本経済の勉強会を行っていましたが、その時、ある年金生活者が2%のインフ

レーションをターゲットにすると聞いて、大いに怒っていました。

 なぜかって? そりゃそうでしょう。毎年支給される年金額は、減ってゆくのに、消費者物価が上

昇したら、実質年金額はもっと減るわけですから。それに虎の子の貯金も(預金利子がほぼゼロ%

では)実質的に減少します。これが庶民の「期待」(expectation)=予測です。

 当時、2%のインフレをターゲットにすれば、景気がよくなると断言した御仁もいたようですが、「責

任を取れ!」と言いたい気持ちです。

 記事には、配当に対する税率が【何十億円、何百億円でも】20%であり、きわめて不公正である

ことが書かれています。

 私が本ブログで前に示したように、大企業の「実際の」法人税もきわめて低く、また安部政権によ

ってこっそりと引き下げられてきました。私の所得税の昨年の限界税率より低い!

26面 安保法施行後で初  17年度防衛予算概算要求 5兆1685億円を読む

 「無駄  空中給油機・大量の水陸両用車」

 本文中のグラフには、「安部政権で増え続ける防衛予算」が示されています。

 これも私なども含め、多くの人がブログ等で言っていたこと。

 やれ財政赤字だ、財政健全化といいながら、この放漫ぶり、散布は許されないでしょう。

 でも、安部政権が軍産学共同を推進していることは、よくわかります。


 ちなみに、「集団的自衛権」とは、日本を攻撃していない国の軍隊を攻撃するといったきわまりな

い危険なものであり、本来、好ましくないものであることは戦後の国連でも議論されていた通りで

す。もちろん、90%の憲法学者はそれを認めている安保法制を違憲としています。

 実は、戦後米国は、それに反対していましたが、後にそれを理由にベトナムやイラクを攻撃。

 現在の米国では、参加した兵士の中から毎日何人もの精神疾患で苦しむ人が続出。それに加

え、イラク攻撃では死者の70%は民間人(市民)でした。これがIS(イスラム国家)という欧米(日も

か)がおびえる組織を生みました。

 米国の伝説的な経済学者ジョン・ガルブレイスの最後の遺言的著作も経済にとっての軍事=軍

産学複合体の有害性・危険性を指摘しています。


 昨日の東京新聞だけで、これだけのことが示されています。(まだあるのですが、これくらいにし

ておきます。)

 安部政治を放置したらろくなことはありません。

 選挙で自民党・公明党などに投票した人も、今からでも遅くありません。今度は、民進、共産、社

民、生活、緑など、はっきり(または一応)安部政治に反対している政党に投票しましょう。




 

2016年8月16日火曜日

税金を払わない巨大企業 2 アベノミクスは所詮供給(企業)側の経済学の失敗例に過ぎない

 四~六月期のGDPは、名目0.2パーセント、それから物価上昇分を差し引いた実質GDPは0パーセント。個人消費は0.2パーセント。
 政府は、公共事業を中心に景気の活性化を狙うが、その効果は小さく、後には借金が残る。しかも、財政赤字の拡大を理由に社会保障費の負担増や消費税の引き上げがまっている。まさに「三重苦家計を圧迫」という状況が続く(本日の「東京新聞」朝刊より)。

 さて、そのような訳で、今日の「東京新聞」社説は、「三年続くアベノミクスはあらためて効果が乏しいことを裏付けた形だ。四~六月期の実質国民総生産(GDP、速報値)は横ばいだった。「道半ば」ではなく、誤った道を進んでいると気づくべきだ。」としています。
 まったく同感と言わざるをえません。

 さて、これまでもアベノミクスについては、本ブログでも主に金融の観点から、批判的に検討してきましたが、まさにこの点では、アベノミクスの異次元の金融緩和政策は一部の体力(株価など実体経済とは関係ない部分)をほんの一時的に上げるだけの「ドーピング」(金子勝氏)に他ならないということができます。でも、ドーピングの効果はすぐになくなります。

 しかし、アベノミクスには別の側面があります。それは供給側、つまりは企業側の経済学に依拠しているという側面に他なりません。

 供給側の経済学というのは、本質的には、19世紀に起源を有する古い新古典派の経済学に特徴的な考え方であり、20世紀に入ってから根本的に批判されつくしました。
 しかし、1980年代にイギリスとアメリカで保守派(サッチャーの保守党、レーガンの共和党)によって持ち上げられてから、一時一世を風靡しましたが、すぐに誤りであることがわかり、すぐに放棄されました。しかし、思想としての供給側の経済学は根強く、いまでも保守的な政界を中心に信者がたくさんいるようです。

 この思想の要点は難しくありません。次のように要約できるでしょう。
 つまり、経済を発展・成長させるには、供給側、つまり企業側の条件を改善しなければならない。なぜならば、経済は生産力の発展・成長とともに成長するが、その生産性の上昇をもたらすのは(設備)投資であり、その投資を行う企業だからである。企業が十分な利潤を上げることができれば、また富裕者=大株主が十分な配当を受け取ることができれば、それらの所得は貯蓄を通じて(設備)投資に向けられる。そして投資が順調に行なわれれば、生産力が発展し、経済は順調に発展する。
 しかし、供給側の条件を改善するためには、法人税率を軽減したり、富裕者の所得税率を軽減したり、さらには企業が高い人件費・社会保障費負担に苦しまないように、賃金の抑制を行ったり、場合にはよって労働者の力を削ぐために失業率を引き上げる(高い水準に維持する)こともやむを得ない。

 このような供給側の経済学の最後の側面(賃金抑制、失業率)については、かなり政治的に微妙な点もあるため、あまり露骨に表明されることはないかもしれませんが、アカデミックな経済学者の間では公然と議論されていることは、経済学者なら知っていることです。


 さて、こうした供給側の経済学ですが、実際の経済やそれを説明する現実的な経済学には「有効需要」の側の側面があり、こちらも無視できないことはいうまでもありません。つまり、現実の経済では、企業にどんなに供給力があろうとも、有効需要がなければ(あるいは購買者がいなければ)、現実の生産は行われえないという冷厳な事実があります。これについて供給側の経済学者もまったくのアホではないので、答えざるをえません。そして、この答えが「セイ法則」と呼ばれるものです。これは、「供給はそれ自らの需要を創り出す」というものであり、換言すれば、需要は供給が生み出すものだから、供給だけ考えればよいということです。
 
 もう一つ供給側の経済学が突きつけられた問題があります。それは供給側=企業側+富裕者側(のみ)を優遇するがゆえに、労働側に不利な条件を押しつけることになるという点です。これに対する答えとして出されたのが「トリクルダウン」の議論です。つまり、最初、企業や富裕者の所得が増えれば、その後いつか(いつ?!)富の一部が下にしたたり落ちて、労働側や低所得者の所得も増えるだろうという議論です。

 しかし、歴史と理論は両者とも誤りであることを示してきました。例えば1930年代の大不況と高失業は生産力が低下したために生じたのではなく、生産能力に比して有効需要が著しく縮小したことが原因でした。またトリクルダウン、トリクルダウンといいながら、トリクルダウンが生じたためしがありません。所得格差と資産格差は拡大するばかりです。
 それに供給側の経済学では、成長のためには企業に有利な条件(人件費=賃金の圧縮など)が必要だとされているため、いつ賃金の増加が生じるのか明言しません。しようと思ってもできないのです。もちろん新古典派の単純系の経済学にも一応の説明はあり、そこでは、すべてが短期的に(つまり時間のない虚構の世界では短期というしかないようですが)均衡点で決定されます。しかし、彼らは現実の動態的経済の中で何時、どのように賃金所得が変化するのか答えることはできません。新古典派の経済学を学んだことのない人(換言すれば逆説的に現実感覚のある人とも言えます)にとっては、実に奇妙な世界です。

 だいぶまわり道をしましたが、供給側の経済学についてくどくどと説明したのは、アベノミクスが本質的にはこの供給側の経済学に立脚しているからです。安部氏が日本経済を<世界中で企業がもっとも自由にやれる経済にする>という趣旨の発言をしましたが、この点こそ、供給側の経済学の立場をよく示す言葉はありません。
 巨大企業の法人税逃れを可能にすることはその一つです。

 しかし、それは企業の行動をさらにある方向に向かわせます。企業はいくら利潤をあげても低い法人税率でしか課税されないので、もっと利潤を増やそうとして人件費を抑制します。また課税さらない配当金を増やすために、子会社や関連会社の株式を購入することになります。ここで注意しなければならないのは、株式の購入はある意味で「投資」ですが、生産力を成長させるための設備投資ではありません。こうした行動は、資産価格を引き上げる役割を果たしますが、経済を発展させ、人々の暮らしをよくするものではありません。
 しかも、企業の人件費抑制行動は、経済社会全体を見てみると、それをある方向に導きます。つまり、日本社会全体の賃金所得が抑制されてきた状況の下では、もっとも基礎的な個人消費支出が停滞することになります。図示すれば、次の通りです。

     W(賃金所得)の停滞 ⇔ C(消費支出)の停滞
  
 鶏が先か卵が先か? という話ではありませんが、両者は密接に関係しています。賃金が停滞するので、消費が停滞するとも言えますが、消費が停滞するので(経済が停滞し)賃金が停滞するとも言えます。どちらが先かではなく、両者は相互に関連しており、WとCを抑制する構造が成立していると言えるでしょう。ですから、(もし現在でも成長が好ましいならば)WとCの両方を成長させてゆくような構造変化が必要ということになります。

 私は構造という言葉を持ち出したらからといって、ここで橋本財政構造改革や小泉構造改革を支持しているわけではありません。むしろそれらは供給側の経済学の上に立った誤った政策でした。私が主張するのは、構造改革からの脱却という意味での構造変化です。それは賃金主導型、内需主導型の経済成長体制への転換でしかありません。

 さて、安部氏も「有効需要」の重要性が理解できないほど、経済について無知というわけではないと思います。したがって彼は、かりにジェスチャーであろうとも、(特に改憲のための議席を確保するために選挙前には)すくなくとも賃金の上昇の実現のために努力lしているふりをしなければなりませんでした。
 しかし、安部氏が本心から賃金の上昇を実現しようとしていないことは、彼の様々な言動から読み取れます。ここでは詳しく触れませんが、森永卓郎氏(『雇用破壊』角川新書、2016年)が指摘しているように、派遣労働の固定化、ホワイトカラー・エグゼンプション、解雇規制緩和などの「毒矢」を実現することにあると見るべきです。これらは人件費を抑制する企業行動を是とする政策体系です。

 結論します。アベノミクスとは、改憲を狙った経済政策上の毒矢であり、本質的には供給側の経済学に「異次元の金融緩和」という「時間かせぎ」(W・シュトレークの言葉)を接ぎ木したものに過ぎません。またしばしばマスコミによって言及される「トリクルダウン」は現実に賃金が上がらないことへの言い訳でしかなく、政府の賃金の引き上げはジェスチャーに過ぎないと知るべきです。

 

 
 

税金を払わない巨大企業

 昨日、横須賀中央駅前を通ったところ、「年金生活者」のグループが、政府によって毎年老齢音金額を減額されてゆく現状を訴えていました。私も今年から、年金生活者の一員となり、生活不安を抱えている身。将来が不安になります。もちろん若干の蓄えはあるとはいえ、将来不安(健康、自己、子供たちのこと)のため、思い切って消費を増やす気にはなれません。
 その上、消費税の10パーセントへの増税は、自民党の選挙対策の一環としてさしあたりは見送られましたが、選挙に勝ち、「改憲勢力」の3分の2を確保した自公政権にとっては、消費税の引き上げを延期する理由はなくなりました。形式的な理屈上は、日本全体の消費需要がかりに350兆円だとすると、2パーセント・ポイントの引き上げは、7兆円の税収増をもたらすことになります。ただし、これは大衆増税によって景気が悪化しなければの話であり、経済理論の常識やこれまでの経験に照らすと、(政府が増税分を財政赤字の補填などに使ってしまい、人々の生活のための政府支出を増やさない限り)消費需要が大幅に低下し(あるいは、低下しなくても、長期にわたって停滞し)、まさにデフレ不況を深刻化させる危険があります。実際、安部政権のアベノミクスがデフレ不況を克服するというキャッチコピーにもかかわらず、消費税の引き上げ以降、日本経済の状態が悪化したことは明らかです。

 さて、こんな財政状態にあるにもかかわらず、日本の巨大企業は、巨額の税金逃れをしてきましたし、またしています。というと、日本の会社の「実効税率」は世界的にみて高いのでは? という疑問が投げ返されてきそうです。
 実際、私がかつてある県の放送大学のセンターで、社会人を相手に日本経済や世界経済について、勉強会を開いていたとき、よく出された質問の一つが、<日本の高い法人税率>についてのものでした。いや、そもそも<日本の高い法人税率>や、、それではグローバル化した国際経済の環境の中で競争に勝てない>という議論は、マスコミの決まり文句(言説)となっていあす。
 ひょっとすると多くの人はそれを信じているのではないでしょうか?

 しかし、本当にそうでしょうか? 確かに法人税の法定税率が、そこそこの水準に設定されていることは間違いありません。基本的な考え方としては、企業の所得(利益、利潤)に対して法人税がかけれられており、その法定上の率(法人税÷企業所得)は、25.5パーセント(2012年。地方税を除く国税のみ)に設定されています。この率は、国際的に見て、確かに低くはないかもしれませんが、決して高いとは言えません。(外国の例は、後日、折を見て紹介したいと思います)。

 ところが、本当に重要なことは、実際の税率(まさに本当の意味での実効税率)が多くの企業で、これよりはるかに低い額にあることです。
 このことをきちんと説明した富岡幸雄氏の『税金を払わない巨大企業』(文春新書、2014年)から紹介しておきましょう。次の表は、同書の90ページの表をグラフ化したものです。なお、この図のもとになった企業の所得には、申告所得の他に、富岡氏が推計した他の企業所得が含まれています。

 


 
 この図から見られるように、資本金1000万円から5億円の企業にかけて企業規模が拡大するとともに、実効税率は20パーセントから25.44パーセントへと上がっていますが、それより大きな企業になると、税率は急速に低下しており、100億円超の企業の法人税率は、外国税等を含めても、なんと11.54パーセントにしかなりません。100億円超の企業の所得は、きわめて巨額ですから、これは、すさまじい額の税金逃れ(tax evasion)が行われていることを意味します。


 

 出典)上掲書、90ページ。

 このような税金逃れがどのように行われるのか。ここでは、その一つとして巨大企業の「受取配当金」が非課税の所得となっている事実だけを上げておきます。富岡氏の前掲書(97ページ)では、巨大企業が2003~2011年に受け取った約58兆円のうち、何と48兆円以上(73.5パーセント)が無課税の所得となっています。

 もちろん、以上の値のうち企業の所得額は、タックスヘイブンなどにより、企業の所得がただしく申告・把握されていることを前提としています。ところが、企業が税金逃れをするための手法の一つは、比較的税率の高い課税国での所得金額を少なくみせかける(したがって比較的税率の低い課税国の所得lを増やすことになる)価格操作であり、これは同一企業内の多国間取引が行われていることを前提としているので、それが正しいという保証はまったくありません。ただし、ここでは、統計的な実態把握が難しいこともあり、この点は省くことにします。

 では、近年この法人税額や税率はどのように変化してきたのでしょうか?
 論より証拠。まずは次のグラフをみてください。
  
  これは国税庁のデータ(会社標本調査)をもとににして、私が作成したものです。計算の基礎となる企業所得としては、企業の申告所得と益金不算入の配当金を合計したものを用い、その金額で法人税(国税のみ)を割ってあります。したがって欠損企業の場合、益金不参入の配当金は欠損額をカバーするために利用されている可能性がありますが、巨大企業の場合には欠損額が小さく、また中小企業の場合は、益金不参入の配当金額がきわめて小さいので、数値が実態からかけはなれることはありません。
 2つのことが観察されます。第一に、上で見たように、5億円を超える企業階層については、法人税零つがきわめて低くなっていることが確認されます。第二に、安部政権の下で、着実に法人税率が引き下げられてきたことです。
 要するに、一方で99パーセントの庶民に大衆課税を強要しながら、他方では巨大企業を優遇するという政策を実施してきたのが、アベノミクスであり、この事実は経済学者として見逃すことができません。

 

 

 もうちょっとグラフを見てみましょう。
 これは、日本の企業の申告所得(利益計上法人と損益法人)、それに益金不算入の配当金額を乗せたものです。近年のところをみると、2014年の企業所得は1989年の水準とほぼ同じになり、また欧米資産バブルの絶頂期(日本の輸出の好調期)の2006年、2007年に近い水準にたっしており、要するに業所得の回復が認められます。
 ところが、法人税額(国税のみ)は、大幅に減少しています。企業所得が同じだった1989年を基準にとれば、3.5兆円ほどの法事税の減収です。
 これは、歴代の日本政府が企業優遇税制、というより大企業の租税逃れを手助けしてきたために他なりません。


 




 

 おそらく私がここで記したことは、日本の財務省や政府が国民に対して隠したい事実であるに違いありません。その証拠に、日本の法人税の「実効税率」が高いとか、グローバル競争に勝てないとか、財政危機を救うために緊縮財政を実現するべきとか、消費増税を実施するべきとか、という言説はマスコミを通じて流布されるのに、私の知る限り、実際の法人税率がどうなってるかなどは、(政府や企業の意をくむ)マスコミで報道されたためしがありません。