年末・年始に体調を崩してから、ブログの更新ができない状態が続きました。
医師による診断・問診の結果では、特にこれといって悪い所見は見られないけれど、PCを相手の長時間作業による眼精疲労と肩こり、自律神経失調症などが考えられるとのこと。出来れば仕事をしないようにと言われました。
しかし、「すまじきものは宮仕え」。完全にダウンして休職でもしない限り、日々の仕事はこなさなければなりません。シンポジウムや研究会の準備、その他学内運営の各種の仕事は次々に出てきます。
そんなわけで、年があけ、授業が再開された1月7日、恐る恐る授業をしてみましたが、60分ほどに短縮して何とか行うことができました。
そんなとき、たまたま本屋で、"「体を温める」と病気は必ず直る"(温熱健康法)という本を見つけました。実は平熱が35.5度前後と低体温気味だったので、「イワシの頭も信心から」と騙されたつもりで、自分でショウガ粉を作り、毎日、飲み続けたところ、平熱が36度台に上昇し、漸く体調もすこしずつ回復してきました。
ここらで、たまにはブログの更新もしたいところです。
次のようなことを検討してみたいと思っています。
1 20世紀の経済史
OECD諸国と途上国
供給側(生産力、技術)と需要側の視点
労働力・雇用と所得分配
マルクス問題、ケインズ問題、ポランニー問題、ヴェーバー問題
Emmanuel Todd氏の問題提起
新ヨーロッパ大全、経済幻想、帝国以後、デモクラシー以後、など
2 ユーロ圏の債務危機
マーストリヒト条約、成長安定協定の問題
中進国(独仏)と周辺国の関係
英国などの経済学者の議論
ユーロ圏存続の条件、さもなければ解体?
それはそうと、昨年末から本ブログへのアクセスが突然急増しました。何故かは不明ですが、誰かが紹介してくれたのでしょうか?
ただ、本ブログは、第一義的には、私自身のために、自分の頭の整理のために始めたものです。また自分で後で読んだとき訂正したいと思うところも多々あります。読まれる方はそのあたりをご理解願います。
2014年2月2日日曜日
2014年1月3日金曜日
体調不良につき、しばし休止の予定
新年あけましておめでとうございます。
さて、昨年末に体調をくずし、12月30日だけでなく、大晦日の31日にも時間外診療を受けることになってしまいました。最高血圧170、心拍110台/分ほど。CTスキャンの検査では脳に特別の異常は見つからないとのこと。とりあえず風邪薬を処方してもらい、一安心しましたが、その後も血圧は高め、気分もよくありません。しばらく安静にするように言われたため、本ブログもしばらく休止します。
再開後は、1980年代以降進行してきた、国際通過危機、グローバル金融危機、ヨーロッパ(ユーロ圏)の債務危機について、欧米日の文献・学術雑誌(Cambridge Journal of Economics, Journal of Post Keynesian Economics, IMFのInternational Stability Report, Levy Bard CollegeのWorking Paperなど)の研究成果を 紹介しながら、現代の金融資本主義(Financial Capitalism)、金融主導型資本主義( Finance-dominated Capitalism)の実態に迫り、99%の人々のための代替案を探る予定。人々を「新自由主義サイクルの罠」に落とし込んだしくみを解明し、そこからの脱出策を考える。
人々の「社会的信条」(social credo、常識、宗教・信仰・思想)ともなっている事柄が問題であることを示す。
請う御期待。
2014年1月3日
さて、昨年末に体調をくずし、12月30日だけでなく、大晦日の31日にも時間外診療を受けることになってしまいました。最高血圧170、心拍110台/分ほど。CTスキャンの検査では脳に特別の異常は見つからないとのこと。とりあえず風邪薬を処方してもらい、一安心しましたが、その後も血圧は高め、気分もよくありません。しばらく安静にするように言われたため、本ブログもしばらく休止します。
再開後は、1980年代以降進行してきた、国際通過危機、グローバル金融危機、ヨーロッパ(ユーロ圏)の債務危機について、欧米日の文献・学術雑誌(Cambridge Journal of Economics, Journal of Post Keynesian Economics, IMFのInternational Stability Report, Levy Bard CollegeのWorking Paperなど)の研究成果を 紹介しながら、現代の金融資本主義(Financial Capitalism)、金融主導型資本主義( Finance-dominated Capitalism)の実態に迫り、99%の人々のための代替案を探る予定。人々を「新自由主義サイクルの罠」に落とし込んだしくみを解明し、そこからの脱出策を考える。
人々の「社会的信条」(social credo、常識、宗教・信仰・思想)ともなっている事柄が問題であることを示す。
請う御期待。
2014年1月3日
2013年12月21日土曜日
新重商主義(利潤主導・輸出主導型成長)からの転換 今でしょう!
アダム・スミスの『諸国民の富』(1776年)が重商主義を批判し、政府の「見える手」にかえて「見えざる手」(利己的な個々人の行動がしばしば(frequently)公共の利益を最もよく実現することがあるという思想)、つまり自由放任主義を持ち出したことはよく知られている事実です。
ところで、その重商主義ですが、古典派以前にそれを支持した経済学者たちが、貿易収支の黒字をもたらすような政策を主張したことはよく知られている事実です。このことは、簡単に言えば、有効需要の原理から簡単に説明できます。
アダム・スミスも認めていたように、特に経済発展の初期の段階では、国内市場の規模がきわめて限られています。また、これもアダム・スミスがよく認識していたように、「規模の経済」または「規模に関する収穫逓増」が現実の経済では成立しています。したがって外国市場に輸出を拡大する(より正確には完成品の輸入を極力抑えて、貿易収支の黒字幅を大きくする)ことが当該国にとっては有利になります。すなわち、輸出額が増えるほど、企業の利益は拡大し、それによって投資誘因だけでなく、投資のための資金の供給も拡大します。
ただし、アダム・スミスの時代のイギリスともなれば、貿易収支の黒字は「政府の見える手」を借りなくても、実現できるようになっていました。だから、スミスは安心して重商主義政策を批判することができました。
ケインズ『一般理論』の第24章は、こうした事実をふまえ、重商主義の学説史的意義を高く評価しました。すなわち、対外市場の拡大は、有効需要の1項目(XーM)の拡大であることを重商主義の経済学者たちはよく理解していたというわけです。
ところが、D・リカードゥを始めとするスミス後の古典派の経済学者はその意義を理解することができなくなっていました。もちろんR・マルサスなど一部の経済学者が有効需要の特別の意味を理解していましたが、リカードゥがそれを理解することはついにありませんでした。対外関係については、自由放任主義がそれらの経済学の帰結であり、リカードゥの「比較生産費説」、ベンタムとジョン・バウリングの「功利主義」がその経済学的・社会学的根拠となって終わってしまいました。
ところが、現実の世界では、19世紀末になると事情がふたたび変わってきます。「新重商主義」と特徴づけられる政策がイギリスやドイツで採用されるようになりました。それは長期にわたる国内需要の停滞(貯蓄性向と投資誘因との不均衡。貯蓄性向>投資誘因)の矛盾を外にそらそうとするものだったと考えられます。しかし、すべての国が貿易収支の黒字を実現することはできません。それは列強諸国間の外国市場獲得競争を激化し、結局、2度に渡る世界戦争の勃発を導いたのでした。
時は移って第二次世界大戦後、人類はかつての歴史に学び、ブレトンウッズ体制(準固定相場ドル本位制)のもとでほぼ貿易収支の均衡を達成しつつ、完全雇用を実現するのに必要な生産量を保証するような有効需要を生み出すことに成功しました。これが(完全に実現されたわけではないとしても)「フォーディズム」として知られているものです。
貿易収支均衡XーM=0、国内需要(有効需要C+I)の拡大→生産拡大→完全雇用
しかし、この体制も長くは維持されませんでした。
1970年代初頭の成長率の低下、変動相場制(変動相場ドル本位制)への移行とともに、貿易収支の不均衡が常態化し、赤字国(米国)と黒字国(日本、ドイツ、中国、ロシア、産油国など)への分化が生じて来たからです。
しかも、ドイツや日本は、1990年代以降も、貿易収支の大幅黒字国なのに、そして(完全雇用水準を維持するのに必要な)国内需要の大幅な不足状態に置かれているのに、「単位労働費用」をさらに引き下げることに躍起になってきました。それが勤労所得をいっそう抑制し、消費支出を抑えることによって、(企業家の期待利潤率・限界利潤率を引下げることによって)企業の投資誘因を削ぐにもかかわらずです。しかも、そのように努力すればするほど、貿易収支の黒字は増加し、名目為替相場はいっそうマルク高・円高の方向にすすみました。(ただし、直近の2年に限って言えば、日本の貿易収支は赤字に陥っています。しかし、それでも米国に対しては日本の貿易収支は黒字です。)
こうしてドイツや日本は、かつてケインズが危惧した状態(新重商主義の症候群)に陥っています。金融緩和政策がぎりぎりのところまで行われて来たにもかかわらず、さらに「異次元の金融緩和」が語られ、円安、つまり輸出拡大による有効需要の拡大策が計られているのです。
本当のところは、オバマが2008年に述べたように、「変化」(change)が必要です。それは、従来のように国内需要を抑制をもたらす賃金抑制をすすめることによって対外輸出を増やし、それによって対外紛争を招くような政策から転換し、むしろ国内で問題を解決する方策への大転換です。
私はTPPにまったく反対ですが、民主党のオバマ大統領が何故TPPを撤回せずに、「輸出倍増計画」の一環として推進してきたのか、その理由はしっかり理解する必要があるでしょう。
ところで、その重商主義ですが、古典派以前にそれを支持した経済学者たちが、貿易収支の黒字をもたらすような政策を主張したことはよく知られている事実です。このことは、簡単に言えば、有効需要の原理から簡単に説明できます。
アダム・スミスも認めていたように、特に経済発展の初期の段階では、国内市場の規模がきわめて限られています。また、これもアダム・スミスがよく認識していたように、「規模の経済」または「規模に関する収穫逓増」が現実の経済では成立しています。したがって外国市場に輸出を拡大する(より正確には完成品の輸入を極力抑えて、貿易収支の黒字幅を大きくする)ことが当該国にとっては有利になります。すなわち、輸出額が増えるほど、企業の利益は拡大し、それによって投資誘因だけでなく、投資のための資金の供給も拡大します。
ただし、アダム・スミスの時代のイギリスともなれば、貿易収支の黒字は「政府の見える手」を借りなくても、実現できるようになっていました。だから、スミスは安心して重商主義政策を批判することができました。
ケインズ『一般理論』の第24章は、こうした事実をふまえ、重商主義の学説史的意義を高く評価しました。すなわち、対外市場の拡大は、有効需要の1項目(XーM)の拡大であることを重商主義の経済学者たちはよく理解していたというわけです。
ところが、D・リカードゥを始めとするスミス後の古典派の経済学者はその意義を理解することができなくなっていました。もちろんR・マルサスなど一部の経済学者が有効需要の特別の意味を理解していましたが、リカードゥがそれを理解することはついにありませんでした。対外関係については、自由放任主義がそれらの経済学の帰結であり、リカードゥの「比較生産費説」、ベンタムとジョン・バウリングの「功利主義」がその経済学的・社会学的根拠となって終わってしまいました。
ところが、現実の世界では、19世紀末になると事情がふたたび変わってきます。「新重商主義」と特徴づけられる政策がイギリスやドイツで採用されるようになりました。それは長期にわたる国内需要の停滞(貯蓄性向と投資誘因との不均衡。貯蓄性向>投資誘因)の矛盾を外にそらそうとするものだったと考えられます。しかし、すべての国が貿易収支の黒字を実現することはできません。それは列強諸国間の外国市場獲得競争を激化し、結局、2度に渡る世界戦争の勃発を導いたのでした。
時は移って第二次世界大戦後、人類はかつての歴史に学び、ブレトンウッズ体制(準固定相場ドル本位制)のもとでほぼ貿易収支の均衡を達成しつつ、完全雇用を実現するのに必要な生産量を保証するような有効需要を生み出すことに成功しました。これが(完全に実現されたわけではないとしても)「フォーディズム」として知られているものです。
貿易収支均衡XーM=0、国内需要(有効需要C+I)の拡大→生産拡大→完全雇用
しかし、この体制も長くは維持されませんでした。
1970年代初頭の成長率の低下、変動相場制(変動相場ドル本位制)への移行とともに、貿易収支の不均衡が常態化し、赤字国(米国)と黒字国(日本、ドイツ、中国、ロシア、産油国など)への分化が生じて来たからです。
しかも、ドイツや日本は、1990年代以降も、貿易収支の大幅黒字国なのに、そして(完全雇用水準を維持するのに必要な)国内需要の大幅な不足状態に置かれているのに、「単位労働費用」をさらに引き下げることに躍起になってきました。それが勤労所得をいっそう抑制し、消費支出を抑えることによって、(企業家の期待利潤率・限界利潤率を引下げることによって)企業の投資誘因を削ぐにもかかわらずです。しかも、そのように努力すればするほど、貿易収支の黒字は増加し、名目為替相場はいっそうマルク高・円高の方向にすすみました。(ただし、直近の2年に限って言えば、日本の貿易収支は赤字に陥っています。しかし、それでも米国に対しては日本の貿易収支は黒字です。)
こうしてドイツや日本は、かつてケインズが危惧した状態(新重商主義の症候群)に陥っています。金融緩和政策がぎりぎりのところまで行われて来たにもかかわらず、さらに「異次元の金融緩和」が語られ、円安、つまり輸出拡大による有効需要の拡大策が計られているのです。
本当のところは、オバマが2008年に述べたように、「変化」(change)が必要です。それは、従来のように国内需要を抑制をもたらす賃金抑制をすすめることによって対外輸出を増やし、それによって対外紛争を招くような政策から転換し、むしろ国内で問題を解決する方策への大転換です。
私はTPPにまったく反対ですが、民主党のオバマ大統領が何故TPPを撤回せずに、「輸出倍増計画」の一環として推進してきたのか、その理由はしっかり理解する必要があるでしょう。
2013年12月20日金曜日
経済における「期待」 雇用を拡大させるのはどのような期待か?
「期待」(expectation)が経済事象では大きな役割を演じています。
しかし、意外にそのことが知られていません。
「期待」とは、将来、あることが起こるだろうと想像、推測することです。そこには必ずしも希望、つまりこうなって欲しいという心理的状態は含まれていません。数学の確率論で「期待値」という言葉がありますが、それに近い用語法といってよいでしょう。
期待が大きな役割を演じていることを実例で示します。
例えば企業家があらたに労働者を雇用するときのことを例に取ります。
どのような時に、労働者がより多数雇われるのかについては、本ブログでも何度か書いてきました。その要点は、雇用は生産量が拡大されるときに増加し、逆に労働生産性はそれ自体としては雇用を減らす要因だということです。(ここで「自体」というのは、例えば労働生産性が上昇し、その結果、生産量がそれ以上の割合で増加するというようなことを考えないためです。)
一定期間が経過したあと事後的に検証すると、このことは事実をよく説明しることがわかります。
しかし、よく考えてみましょう。企業家は、生産を増やしたあとで、労働者をより多く雇用するわけではありません。逆です。生産を増やそうと決断したあとで、追加的な労働者を雇用し、生産能力を拡充し、その後で生産を増加させるのです。
それでは企業家に生産を拡大させようと決断させるものとは何でしょうか?
それが「期待」です。
企業家は、将来(通常は、1年以上、少なくとも何年かにわたって)自社製品の販売量が増えると予想して、もしその販売量に比べて生産能力が少なければ、生産量を増やすことになります。
まとめると、次のようになるでしょう。
1 企業家は、将来の販売量(それにもちろん利潤)が増えると期待し、自社の生産能力を高めようとする。
2 そのために外部からの労働力の追加が必要であれば、雇用を増やそうとする。
3 その際、増加する労働力に比して資本装備が不足していると判断すれば設備投資を決断するであろう。新旧資本装備の入れ換えを検討するかもしれない。
4 その他、生産増加前に必要な事柄についても配慮する。
ところで、現実の経済事象をさらに深く理解するためには次の課題に答えることが必要になります。
1 企業家の期待に影響を与えるのは、どのような事象か?
2 <期待→雇用・投資の決定→資本財の注文・設計・雇用の拡大と訓練→生産拡大>という一連の企業家行動によって経済全体にどのような変化がもたらされるか?
このうち1については、これまでも説明したので、簡単に済ませます。それは終局的には、人々が安心して消費支出をしよう(消費性向を高めよう)と考えるときです。もちろん、企業が従業員に対して自由に首切りできるような社会では、また非正規の低賃金労働が拡大しているような社会では、そのようなことは望むべくもありません。
詳しくは「マルクス問題」・「ケインズ問題」・「ポランニー問題」の説明を参照してください。
2については、それがマネーサプライに与える影響に触れておくだけにします。明らかなように、当該企業が実際に生産を拡大するまえに、企業は一連の支出を余儀なくされます。そのような支出とは、資本財の注文・設計にともなう支出(前払い金)や、雇用の拡大や新しく採用した労働者の訓練にともなう費用の支払に当てられる部分です。資本財の注文を受けた企業がその生産を開始する前に、そのような支出は必要になります。
したがって生産を拡大しようという決定が、次に実際の生産拡大が生じるまえに貨幣需要を、したがってマネーサプライを拡大することになるわけです。
しかし、マネーサプライが増加したあと、生産が拡大したからといって、マネーサプライの増加が原因で、生産の拡大が結果であるという結論を導くのは、明確な誤りです。
世にマネーサプライを増やせば景気がよくなるという経済学者は多いのですが、現実はまったく異なります。
上の書いたことは、ケインズの『一般理論』第18章「雇用の一般理論 再論』でも説明されていることですので、少なくとも経済専門家は読んでおくべきでしょう。
しかし、意外にそのことが知られていません。
「期待」とは、将来、あることが起こるだろうと想像、推測することです。そこには必ずしも希望、つまりこうなって欲しいという心理的状態は含まれていません。数学の確率論で「期待値」という言葉がありますが、それに近い用語法といってよいでしょう。
期待が大きな役割を演じていることを実例で示します。
例えば企業家があらたに労働者を雇用するときのことを例に取ります。
どのような時に、労働者がより多数雇われるのかについては、本ブログでも何度か書いてきました。その要点は、雇用は生産量が拡大されるときに増加し、逆に労働生産性はそれ自体としては雇用を減らす要因だということです。(ここで「自体」というのは、例えば労働生産性が上昇し、その結果、生産量がそれ以上の割合で増加するというようなことを考えないためです。)
一定期間が経過したあと事後的に検証すると、このことは事実をよく説明しることがわかります。
しかし、よく考えてみましょう。企業家は、生産を増やしたあとで、労働者をより多く雇用するわけではありません。逆です。生産を増やそうと決断したあとで、追加的な労働者を雇用し、生産能力を拡充し、その後で生産を増加させるのです。
それでは企業家に生産を拡大させようと決断させるものとは何でしょうか?
それが「期待」です。
企業家は、将来(通常は、1年以上、少なくとも何年かにわたって)自社製品の販売量が増えると予想して、もしその販売量に比べて生産能力が少なければ、生産量を増やすことになります。
まとめると、次のようになるでしょう。
1 企業家は、将来の販売量(それにもちろん利潤)が増えると期待し、自社の生産能力を高めようとする。
2 そのために外部からの労働力の追加が必要であれば、雇用を増やそうとする。
3 その際、増加する労働力に比して資本装備が不足していると判断すれば設備投資を決断するであろう。新旧資本装備の入れ換えを検討するかもしれない。
4 その他、生産増加前に必要な事柄についても配慮する。
ところで、現実の経済事象をさらに深く理解するためには次の課題に答えることが必要になります。
1 企業家の期待に影響を与えるのは、どのような事象か?
2 <期待→雇用・投資の決定→資本財の注文・設計・雇用の拡大と訓練→生産拡大>という一連の企業家行動によって経済全体にどのような変化がもたらされるか?
このうち1については、これまでも説明したので、簡単に済ませます。それは終局的には、人々が安心して消費支出をしよう(消費性向を高めよう)と考えるときです。もちろん、企業が従業員に対して自由に首切りできるような社会では、また非正規の低賃金労働が拡大しているような社会では、そのようなことは望むべくもありません。
詳しくは「マルクス問題」・「ケインズ問題」・「ポランニー問題」の説明を参照してください。
2については、それがマネーサプライに与える影響に触れておくだけにします。明らかなように、当該企業が実際に生産を拡大するまえに、企業は一連の支出を余儀なくされます。そのような支出とは、資本財の注文・設計にともなう支出(前払い金)や、雇用の拡大や新しく採用した労働者の訓練にともなう費用の支払に当てられる部分です。資本財の注文を受けた企業がその生産を開始する前に、そのような支出は必要になります。
したがって生産を拡大しようという決定が、次に実際の生産拡大が生じるまえに貨幣需要を、したがってマネーサプライを拡大することになるわけです。
しかし、マネーサプライが増加したあと、生産が拡大したからといって、マネーサプライの増加が原因で、生産の拡大が結果であるという結論を導くのは、明確な誤りです。
世にマネーサプライを増やせば景気がよくなるという経済学者は多いのですが、現実はまったく異なります。
上の書いたことは、ケインズの『一般理論』第18章「雇用の一般理論 再論』でも説明されていることですので、少なくとも経済専門家は読んでおくべきでしょう。
2013年12月18日水曜日
負担は公的負担だけではない
しばしばマスコミ人は、公的負担(租税負担、社会保障費負担、政府の負債など)を論じるとき、それが負担のすべてであるかのように論じる傾向があるように感じるのは、私だけでしょうか。また現役世代の負担を論じるとき、公的負担が軽いほど現役世代の負担が軽くなると、短絡的に考えている節があるようにも感じます。
まず前者から見ておきましょう。
私たちは公的負担(租税や社会保障費負担)を担っていますが、それが負担のすべてではありません。私的負担も負担の大きな項目です。
負担=公的負担+私的負担
この簡単な式から分かるように、公的負担が少ないほど負担が少なくなるとは限りません。というのは、むしろ私的負担が増えることが予想されるからです。
例えばヨーロッパ諸国では、大学までの学費が無償化されている国がたくさんありますが、それが無償化されていない日本や英国、米国では、良心が子供の教育費をその分だけ余計に支出(私的負担)しなければなりません。このことは、医療費や年金、失業給付金、その他の様々なことに当てはまるのですが、くどくどとは説明しません。(個人的に経験したことですが)例えば基礎年金しか出ていない両親の扶養義務を負う子供たちは結局私的負担を増やさなければなりません。あるいは、<現在の高齢者の中には、自分が公的負担をしなかったのに年金を受け取っている人がいる>といって批判している人もいるようですが、多くの人々の中には現役時代に両親を自分の財布や介護等で扶養していた人たちもいるはずです。
このように言うと、<私的負担であろうと公的負担であろうと、結局、国民が支出した額を国民が受け取っているので同じだ>という人もいます。たしかにマクロ的にはその通りです。しかし、公的負担には、累進課税制度などを通じた所得再分配の機能があります。また人々は将来のリスクに対して個人個人では備えないという性向があるので、政府が制度を構築してそれに備えるという意味もあります。したがって、ミクロ的には公的負担には大きな意味があります。
要するに、この問題を考えるとき<私的負担>と<公的負担>の関係をどのように考えるのかという視点がきわめて重要となるはずですが、まるで公的負担が少なければ、負担全体が少なくなるといわんばかりの主張が行われています。しかし、そのような見解が問題だということは言うまでもありません。それともマスコミで働いている人々の多くは高給を食んでいるので、高い公的負担が自分たちにとって不利だからそれに反対したいのでしょうか? 決してそうではないことを望みます。
さて、もう一つの点ですが、少ない公的負担が若者の雇用を破壊しているという側面もあります。現在、問題となっているのは、例えば介護保健事業所における介護士さんたちの厳しい労働条件です。きつい労働内容、それに決して満足とは言えない給与所得という現実は、少ない公的負担が若者に決してやさしくはないということの実例です。多くの人々が資格を有しながらも2つの理由のために離職しているという現実があります。
ジョン・K・ガルブレイスは、「労働」をめぐる「欺瞞」について、「仕事を最も楽しんでいる連中こそがほとんど例外なしに最高の報酬を得ているのである。・・・他方、反復的で、退屈で、骨の折れる仕事に就いている人の賃金はいたって安いのが当たり前とされている」と述べましたが、これが営利企業が支配する現代の企業家経済の特徴といってよいでしょう。
民主的に組織された政府の介入なしに、こうした現実を変えることはできません。
まず前者から見ておきましょう。
私たちは公的負担(租税や社会保障費負担)を担っていますが、それが負担のすべてではありません。私的負担も負担の大きな項目です。
負担=公的負担+私的負担
この簡単な式から分かるように、公的負担が少ないほど負担が少なくなるとは限りません。というのは、むしろ私的負担が増えることが予想されるからです。
例えばヨーロッパ諸国では、大学までの学費が無償化されている国がたくさんありますが、それが無償化されていない日本や英国、米国では、良心が子供の教育費をその分だけ余計に支出(私的負担)しなければなりません。このことは、医療費や年金、失業給付金、その他の様々なことに当てはまるのですが、くどくどとは説明しません。(個人的に経験したことですが)例えば基礎年金しか出ていない両親の扶養義務を負う子供たちは結局私的負担を増やさなければなりません。あるいは、<現在の高齢者の中には、自分が公的負担をしなかったのに年金を受け取っている人がいる>といって批判している人もいるようですが、多くの人々の中には現役時代に両親を自分の財布や介護等で扶養していた人たちもいるはずです。
このように言うと、<私的負担であろうと公的負担であろうと、結局、国民が支出した額を国民が受け取っているので同じだ>という人もいます。たしかにマクロ的にはその通りです。しかし、公的負担には、累進課税制度などを通じた所得再分配の機能があります。また人々は将来のリスクに対して個人個人では備えないという性向があるので、政府が制度を構築してそれに備えるという意味もあります。したがって、ミクロ的には公的負担には大きな意味があります。
要するに、この問題を考えるとき<私的負担>と<公的負担>の関係をどのように考えるのかという視点がきわめて重要となるはずですが、まるで公的負担が少なければ、負担全体が少なくなるといわんばかりの主張が行われています。しかし、そのような見解が問題だということは言うまでもありません。それともマスコミで働いている人々の多くは高給を食んでいるので、高い公的負担が自分たちにとって不利だからそれに反対したいのでしょうか? 決してそうではないことを望みます。
さて、もう一つの点ですが、少ない公的負担が若者の雇用を破壊しているという側面もあります。現在、問題となっているのは、例えば介護保健事業所における介護士さんたちの厳しい労働条件です。きつい労働内容、それに決して満足とは言えない給与所得という現実は、少ない公的負担が若者に決してやさしくはないということの実例です。多くの人々が資格を有しながらも2つの理由のために離職しているという現実があります。
ジョン・K・ガルブレイスは、「労働」をめぐる「欺瞞」について、「仕事を最も楽しんでいる連中こそがほとんど例外なしに最高の報酬を得ているのである。・・・他方、反復的で、退屈で、骨の折れる仕事に就いている人の賃金はいたって安いのが当たり前とされている」と述べましたが、これが営利企業が支配する現代の企業家経済の特徴といってよいでしょう。
民主的に組織された政府の介入なしに、こうした現実を変えることはできません。
高齢者を余計ものにするマスコミの問題報道
マスコミでは、しばしば次のような半ば「常識」(「社会的信条」というべきか)となった言説が流されます。
・「少子高齢化社会で、少数の若者が高齢者を支えなければならなくなっている。」
・「65歳までの雇用義務化。若者を中心に雇用を圧迫か?」
ただし、この2つの言説が同じ番組や紙面で同時に報じられることはありません。明らかに矛盾しているからです。しかし、人はそれに別の番組、別の時間に接すると、それぞれについて「なるほど」と受け入れてしまいます。(このような矛盾した報道は、他にもあるのですが、ここでは上の例にとどめておきます。)
この2つの言説が組合わさるとあやしい主張となることを示しましょう。
まずは上の2つの言説が矛盾していることを示します。
たとえば100人の村(または町)があり、そのうち、60歳以上の人(高齢者)が20人、労働年齢人口(15歳〜60歳)が60人、若年者(15歳未満)が20人だとしましょう。現役世代60人が20人+20人=40人を支える必要があります。一人あたり2/3人になります。
少子高齢化がすすんで、100人の村の構成が次のようになったとしましょう。例えば高齢者が35人、若年者が15人、現役世代が50人です。現役世代50人が50人を支えることになります。一人あたり1人になります。
このとき60歳〜65歳の人(例えば5人)が現役世代にとどまれば、55人が45人を支える勘定になります。一人あたり9/11人となり、一人あたりの負担は軽減されます。それで問題があるのでしょうか? (ただし、ここでは、60歳〜65歳の人が働きつづけたいかどうかは、問わないことにします。)
ところが、今度はそれが若者の雇用を圧迫するという言説が出てきます。
こんな馬鹿な論理があるでしょうか?
よく考えてみましょう。例えば戦後から1980年代まで、日本の労働力人口はずっと増加してきました。が、だからといって、その時に雇用が圧迫されて、失業者が街にあふれるというような状態になったでしょうか?
もちろん、そんなことはありません。当時、日本は世界でもまれなほど低い失業率を誇っていました。
どうしてでしょうか?
理由は簡単です。雇用は、所得をもたらします。そして所得は支出され、消費財に対する有効需要を構成します。有効需要があれば、企業がそれに応じた生産を行い、それに応じて人々を雇用します。
もう少し詳しく企業がどのように雇用を決定するのを見ておきましょう。
ケインズ『一般理論』の第18章は、それをきわめて現実の経済に即してリアルに説明しているので、それにもとづいて説明します。
簡単に言えば、ここでの要点は、雇用は企業家のいだく「期待」に依存しているということにあります。
「期待」という理由は、企業は特定量の生産を開始する前に資本装備や労働力を準備しなければならないからです。企業がこれから始まる期間(月、四半期、年など)に自分の会社の生産する商品に対して有効需要が十分あると判断すれば、それに応じて労働者を雇います。そして期待が高ければ、雇用量も増加します。戦後、1980年代まで労働力人口が増えても失業率が高くならなかったのは、このような期待があったからであり、そのような「期待」が今度は経済成長と雇用の拡大を実現したからです。
けっして60歳〜65歳の人々が労働市場に残っても、それがただちに若者の雇用を圧迫するわけではありません。
65歳定年延長が若者の雇用を圧迫すると心配するマスコミ人はおそらく、何となく雇用量が一定だと考えて、単純な引き算を行ったのでしょう。もしあらかじめ雇用量が一定だと仮定すれば、その仮定が成立する限り、定年延長は若者の雇用を間違いなく圧迫するでしょう。しかし、そのような仮定が間違っていることは言うまでもありません。
もちろん、65歳に定年延長をするときに、その給与水準や労働内容については、それ相応の配慮が必要になることは言うまでもありません。
私の言うことが正しいことは、現実の統計からも言えます。
「就業構造基本調査」などが示しているように、そもそも若者の雇用が1990年代から現在にかけて劣化してきました。つまり、20代、30代の男女を通じて非正規の低賃金労働が拡大してきたのです。実は、そのこと自体、そしてそのような状態をもたらした日本企業の「雇用戦略の転換」(非正規・低賃金労働の拡大による人件費の圧迫)が大きな問題です。それは、日本全体の勤労所得を圧縮し、消費支出を縮小し、それによって企業自らの「期待」を大きく縮小させてきたからです。
最初に掲げた言説は、とにかく「高齢者の存在が問題だ」と主張し、問題の本質をそらしたり、政府に失業や低賃金労働拡大の言い訳を許す言説以外の何物でもありません。
・「少子高齢化社会で、少数の若者が高齢者を支えなければならなくなっている。」
・「65歳までの雇用義務化。若者を中心に雇用を圧迫か?」
ただし、この2つの言説が同じ番組や紙面で同時に報じられることはありません。明らかに矛盾しているからです。しかし、人はそれに別の番組、別の時間に接すると、それぞれについて「なるほど」と受け入れてしまいます。(このような矛盾した報道は、他にもあるのですが、ここでは上の例にとどめておきます。)
この2つの言説が組合わさるとあやしい主張となることを示しましょう。
まずは上の2つの言説が矛盾していることを示します。
たとえば100人の村(または町)があり、そのうち、60歳以上の人(高齢者)が20人、労働年齢人口(15歳〜60歳)が60人、若年者(15歳未満)が20人だとしましょう。現役世代60人が20人+20人=40人を支える必要があります。一人あたり2/3人になります。
少子高齢化がすすんで、100人の村の構成が次のようになったとしましょう。例えば高齢者が35人、若年者が15人、現役世代が50人です。現役世代50人が50人を支えることになります。一人あたり1人になります。
このとき60歳〜65歳の人(例えば5人)が現役世代にとどまれば、55人が45人を支える勘定になります。一人あたり9/11人となり、一人あたりの負担は軽減されます。それで問題があるのでしょうか? (ただし、ここでは、60歳〜65歳の人が働きつづけたいかどうかは、問わないことにします。)
ところが、今度はそれが若者の雇用を圧迫するという言説が出てきます。
こんな馬鹿な論理があるでしょうか?
よく考えてみましょう。例えば戦後から1980年代まで、日本の労働力人口はずっと増加してきました。が、だからといって、その時に雇用が圧迫されて、失業者が街にあふれるというような状態になったでしょうか?
もちろん、そんなことはありません。当時、日本は世界でもまれなほど低い失業率を誇っていました。
どうしてでしょうか?
理由は簡単です。雇用は、所得をもたらします。そして所得は支出され、消費財に対する有効需要を構成します。有効需要があれば、企業がそれに応じた生産を行い、それに応じて人々を雇用します。
もう少し詳しく企業がどのように雇用を決定するのを見ておきましょう。
ケインズ『一般理論』の第18章は、それをきわめて現実の経済に即してリアルに説明しているので、それにもとづいて説明します。
簡単に言えば、ここでの要点は、雇用は企業家のいだく「期待」に依存しているということにあります。
「期待」という理由は、企業は特定量の生産を開始する前に資本装備や労働力を準備しなければならないからです。企業がこれから始まる期間(月、四半期、年など)に自分の会社の生産する商品に対して有効需要が十分あると判断すれば、それに応じて労働者を雇います。そして期待が高ければ、雇用量も増加します。戦後、1980年代まで労働力人口が増えても失業率が高くならなかったのは、このような期待があったからであり、そのような「期待」が今度は経済成長と雇用の拡大を実現したからです。
けっして60歳〜65歳の人々が労働市場に残っても、それがただちに若者の雇用を圧迫するわけではありません。
65歳定年延長が若者の雇用を圧迫すると心配するマスコミ人はおそらく、何となく雇用量が一定だと考えて、単純な引き算を行ったのでしょう。もしあらかじめ雇用量が一定だと仮定すれば、その仮定が成立する限り、定年延長は若者の雇用を間違いなく圧迫するでしょう。しかし、そのような仮定が間違っていることは言うまでもありません。
もちろん、65歳に定年延長をするときに、その給与水準や労働内容については、それ相応の配慮が必要になることは言うまでもありません。
私の言うことが正しいことは、現実の統計からも言えます。
「就業構造基本調査」などが示しているように、そもそも若者の雇用が1990年代から現在にかけて劣化してきました。つまり、20代、30代の男女を通じて非正規の低賃金労働が拡大してきたのです。実は、そのこと自体、そしてそのような状態をもたらした日本企業の「雇用戦略の転換」(非正規・低賃金労働の拡大による人件費の圧迫)が大きな問題です。それは、日本全体の勤労所得を圧縮し、消費支出を縮小し、それによって企業自らの「期待」を大きく縮小させてきたからです。
最初に掲げた言説は、とにかく「高齢者の存在が問題だ」と主張し、問題の本質をそらしたり、政府に失業や低賃金労働拡大の言い訳を許す言説以外の何物でもありません。
森・小泉構造改革 日本で高失業率が容認・促進された決定的な瞬間
その決定的瞬間は、2001年1月の中央省庁再編のときでした。
このとき経済企画庁が消滅し、内閣府に事務が引き継がれました。
2003年2月の衆議院予算委員会の審議(小泉構造改革の最中です)
竹中平蔵(経済財政政策担当大臣)の発現
「いまの労働市場は、構造的に大変厳しい需要と供給のミスマッチを抱えている。それをとにかく放置しておいては大変失業率が上がる。それを何とか食いとめるために様々な措置を講じたい。その中の重要なものを予算の措置でお願いしているわけですが、この構造的な部分というのはかなり根強いものがありまして、結果的に失業率は若干高まるということを甘受せざるを得ない。・・・」
ここには、大変問題となることが述べられています。
1 失業は構造的なものであり、需要と供給のミスマッチによる。
2 そのための政策措置(だけ)を講じる。
一体「構造的」とは何のことでしょうか? 「ミスマッチ」ということでしょうか? つまりいわゆる「摩擦的失業」と考えられて来たものでしょうか?
もしそうだとしたら、竹中氏はそのことをどのようにして解明したのでしょうか? かれは唯そう断定しているだけであり、何も証明はしていません。
私のブログでも縷々説明してきたように、失業をそのような「ミスマッチ」、「摩擦」、「構造」によって説明することにはほとんど根拠がありません。どのようなミスマッチがあったというのでしょうか? もしそうならば、特定の産業や地域に失業があり、他の産業・地域では労働力不足があったはずですが、それはどの地域・産業にどの程度あったのでしょうか?
本当は、ケインズの理論が明らかにしたように、失業率の上昇は、1992年以降の金融危機に端を発する長期不況・停滞の中で、人々の消費支出が停滞し、企業の長期期待(投資誘因)が低下していたからに他なりません。1997年以降の金融危機の再燃、不況、さらに2000以降の金融危機の再燃、不況がこれに加わりました。
ところが、そうした本質的な要因を一切無視して、ミスマッチによって説明するということは、別の地域・産業・職に移動すれば、失業が解消するのに、解消しない人々(特に若者)の責任だと、責任を転嫁するものです。
私の出席した審議会等(何とは言いませんが)でも、さかんに「ミスマッチ解消」のための措置が盛んに喧伝されるようになり、私は嫌気がさしてきた覚えがあります。2001年〜2003年といえば、1990年代末以降の企業の「雇用戦略の転換」に応じて非正規低賃金労働の拡大によって日本全体の賃金所得(勤労所得)が大幅に低下しはじめた時期です。むしろ、それによって勤労者の消費支出が減少し、日本経済の健全性が損なわれ始めていた時期です。
とにかく、この時期は、日本政府が公式に完全雇用政策を積極的に放棄したという意味で記憶に残る年月です。私たちはそのことを知り、決して忘れてはなりません。
このとき経済企画庁が消滅し、内閣府に事務が引き継がれました。
2003年2月の衆議院予算委員会の審議(小泉構造改革の最中です)
竹中平蔵(経済財政政策担当大臣)の発現
「いまの労働市場は、構造的に大変厳しい需要と供給のミスマッチを抱えている。それをとにかく放置しておいては大変失業率が上がる。それを何とか食いとめるために様々な措置を講じたい。その中の重要なものを予算の措置でお願いしているわけですが、この構造的な部分というのはかなり根強いものがありまして、結果的に失業率は若干高まるということを甘受せざるを得ない。・・・」
ここには、大変問題となることが述べられています。
1 失業は構造的なものであり、需要と供給のミスマッチによる。
2 そのための政策措置(だけ)を講じる。
一体「構造的」とは何のことでしょうか? 「ミスマッチ」ということでしょうか? つまりいわゆる「摩擦的失業」と考えられて来たものでしょうか?
もしそうだとしたら、竹中氏はそのことをどのようにして解明したのでしょうか? かれは唯そう断定しているだけであり、何も証明はしていません。
私のブログでも縷々説明してきたように、失業をそのような「ミスマッチ」、「摩擦」、「構造」によって説明することにはほとんど根拠がありません。どのようなミスマッチがあったというのでしょうか? もしそうならば、特定の産業や地域に失業があり、他の産業・地域では労働力不足があったはずですが、それはどの地域・産業にどの程度あったのでしょうか?
本当は、ケインズの理論が明らかにしたように、失業率の上昇は、1992年以降の金融危機に端を発する長期不況・停滞の中で、人々の消費支出が停滞し、企業の長期期待(投資誘因)が低下していたからに他なりません。1997年以降の金融危機の再燃、不況、さらに2000以降の金融危機の再燃、不況がこれに加わりました。
ところが、そうした本質的な要因を一切無視して、ミスマッチによって説明するということは、別の地域・産業・職に移動すれば、失業が解消するのに、解消しない人々(特に若者)の責任だと、責任を転嫁するものです。
私の出席した審議会等(何とは言いませんが)でも、さかんに「ミスマッチ解消」のための措置が盛んに喧伝されるようになり、私は嫌気がさしてきた覚えがあります。2001年〜2003年といえば、1990年代末以降の企業の「雇用戦略の転換」に応じて非正規低賃金労働の拡大によって日本全体の賃金所得(勤労所得)が大幅に低下しはじめた時期です。むしろ、それによって勤労者の消費支出が減少し、日本経済の健全性が損なわれ始めていた時期です。
とにかく、この時期は、日本政府が公式に完全雇用政策を積極的に放棄したという意味で記憶に残る年月です。私たちはそのことを知り、決して忘れてはなりません。
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