浜矩子さんが述べるように「アベノミクス」は、たしかに「アホノミクス」または「どアホノミクス」と呼べるだろう。
私は、本来性格的に人を激しく非難したくない質だが、安倍氏については、事情が異なる。彼は一国の総理大臣であり、その政策如何によっては日本人をとんでもない場所につれてゆく危険性が大いにある。
ここでは最初に、二人の著名な経済学者・研究者(山家悠紀夫氏と伊東光晴氏)のアベノミクス分析から始めたい。
山家悠紀夫さん(『アベノミクスと暮らしのゆくえ』岩波ブックレット、2014年)は、すでに「アベノミクス」が始まった時点で、その特徴を三つあげているが、私もまったくその通りと考える。
1)「非科学的」な政策
2)多くの経済思想が混在した政策
3)現状認識を見誤った政策
また伊東光晴氏は、次のように述べている(重倉篤郎『日本の死に到る病 アベノミクスの罪と罰』河出書房新社、2016年)。
「祖父(岸信介元首相)を神様のように思っている。思い込みが激しい。改憲をやりたがっている・・・」
「思い込みの激しさが、希望的観測を現実だと思わせている節がある。その好例が五輪招致の際の福島原発汚染水『アンダーコントロール』(完全制御)発言だ。経済政策でも同様だ。成長によって全ての問題を解決しようとしている。ただこれは幻想だ。現実に経済は成長していないし、人々の家計も潤っていない。」
「安倍氏は自分でやっていないことを自分の功績にしてしまう。最初の三本の矢で株高、円安を自分の功績にしたのと同じだ。」
二人は、同じ事実を前にほぼ同じことを述べているが、伊東氏のほうが安倍晋三という人物のメンタルな側面に即した言及と言えるだろう。私の意見をつけ加えると、おそらく安倍氏はコンプレックスを持っているにちがいない。それが、祖父を神様のように思わせるとともに、祖父を超えたいという心的衝動を生み出すのだろう。だが、彼はそれを合理的、論理的な思考と政策によって成し遂げようとするのではなく(もちろん、そうはできないので)、姑息政策(常習的な虚偽、政治的圧力など)によって成し遂げようとする。
だが、何はともあれ、安倍氏が<日本経済を長期停滞から脱出させるための政策>を実施しようとしていることだけは、つまり経済政策上の目標だけははっきりしていると言えるようだ。私は、この目標が彼の軍事路線(戦争法など)、改憲路線と密接に関係していると思うが、この際、この論点は後回しにしよう。
さて、通常、いかなる政策立案者も、政策目標を立てる場合には、まず (1) 現状を明確に認識し、どこに問題があるか(つまりその政策を打ち立てる動機となった原因・要因が何か)を明確にした上で、次に (2) どのような政策手段によってその問題が解消されるか(つまり目的と手段との科学的整合性・妥当性)を検討・説明し、さらに (3) その手段によって生じる結果(副作用を含めて)検討・説明することが求められる。
だが、山家氏の著書が明らかにしているように、安倍晋三氏にそれを求めても無駄であろう。彼はただ「アベノミクスを強力に推進します」、「長期停滞からの脱出に効くはずです」と勝手に宣言しているにすぎない。きちんとした現状分析もなければ、政策目標と政策手段との整合性の説明もない。まさにあるのは「思い込み」や「希望的観測」にすぎない。
もちろん、山家氏が第二の特徴としてあげている「多くの経済思想の混在」も、安倍氏が多くの経済思想を深く学んで、その神髄を理解しているといったことではまったくない。ただ希望的観測にもとづいて、彼にとってよさそうに見えるものをつまみ食いしているでけである。だから、新自由主義政策も、その一つの流れをなすマネタリズムも、いわゆる「リフレ論」も「積極的な財政支出」(「ケインズ政策」)もごちゃ混ぜになっている。
よく知られているように安倍氏は嘘もつく。彼は、財政健全化のために再度の消費増税(8%→10%)は景気動向にかかわらず必ず実施します、と発言していたが、総選挙の大きな争点になりそうだと判断したときに、延期した。
たしかに現状認識については、安倍氏が言及していないわけではない。しかし、その現状認識は、残念ながら、まったく間違っている。
山家氏も指摘しているが、安倍氏は長期停滞(あるいは安倍氏やその周辺が多用する表現「デフレ不況」)が1990年代のバブル崩壊とともに始まっていると述べているが、決してそうではない。むしろ長期停滞や「デフレ不況」というならば、それは1998年頃から始まるというのが正しい。
これは、下図(名目GDPの推移)から明らかである。見られるように、名目GDPの停滞は1998年からはじまる。また、名目GDPの低下・停滞がまさにこの時期に始まる「雇用者報酬」の低下とシンクロしていることも明らかである。
しかし、こうした事実に安倍氏はいっさい言及しない。知らないのだろうか? もしそうだとしたら「どあほ」というしかない。一方、もし知っていて言及しないのであれば、不誠実きわまりない態度である。いずれにせよ、こうした趨勢は、まさに歴代の自民党政権(橋本政権、森政権、小泉政権、第一次安倍政権)の時代に生じたことである。
出典)内閣府「国民経済統計」より作成。
2017年7月13日木曜日
安倍氏の経済政策の経済的帰結 7 「ケインズ政策」の効果?
安倍氏は俗にいう「ケインズ政策」を実施したのか、もしそうだとしたら、その結果どうなたのか? これが前回のブログで、私の提起しておいた問題である。
しかし、結果については、一部は既に示してある。実質GDPについて言えば、それは安倍政権成立前のパフォーマンスを大幅にしたまわっている。要するに低成長である。
この本質的な原因・要因が何かは、あとで詳しく検討しなければならないが、とりあえず言えることは、アベ財政政策がなにかしらの成長率の上昇をもたらしたということはない、ということだろう。
だが、論より証拠、実際の統計を見ておこう。下図は、財務省のホームページから得たものである。
http://www.mof.go.jp/tax_policy/summary/condition/003.htm
この図からすぐにわかることは、アベ政権がいわゆる「ケインズ政策」を実施した形跡はうかがえない。何故か?
第一に、一般会計の歳出額は、増えていない、どころかむしろ減少ぎみである。
第二に、一般会計税収は、増加している。この増加が何によるものかは、既に示したが、繰り返すと、消費増税によるものと、それ以外の(安倍首相にとっての)幸運によるものである。決してアベ政権の自慢できるような手柄ではない。もっとも、人の成果をあたかも自分の成果であるように自慢するのが、安倍氏の性格である。これも既に述べたところである。
要するに、平成24年を起点に見ても、単年度の財政赤字の増加を通して「ケインズ政策」を行った形跡は一般会計の収支からは認められない。むしろ全体として見ると、消費増税の手段を用いた緊縮政策(austerity)が基調となっている。この緊縮に一役買っているのが、あろうことか(すでに指摘した)法人税の減税である。
もちろん、単年度の赤字がなくなったわけではなく、依然として大幅な財政赤字は続いている。またその結果、公債発行額も巨額(40兆円弱)にとどまっており、政府の粗債務残高は増加しつづけている。
したがって、日銀が市中銀行から巨額の国債を購入することは、国債の保有者を転換する効果(市中銀行→日銀)を持つことは確実であり、事実、現在日銀は国債の最大の保有者となっている。
もっとも特別会計を含めてみると、アベ政権成立後も年金などの社会保障関係支出は少し増加しており、また(注意せよ!)国債費(利子・償還)も増加しているが、特段に「ケインズ政策」と呼ぶほどのものではない。念のために、下段に一般会計・特別会計の歳出合計額を示しておこう。(この中には、国債費、つまり償還額および利子支払いが含まれていることに注意。)
財務省のホームページ「一般会計・特別会計歳出の推移」より。
もう一つGDP成長率に対する寄与率の指標も示しておこう。
利用できる国民経済計算統計は、2016年(暦年)までのものであるが、少なくともアベ政権が誕生して2年たっても、政府支出(消費、固定資本形成=投資)の寄与度が上昇しているとはとても言えない。
この図は、まずアベ政権成立前の時期について、リーマンショック後しばらくして輸出が回復するとともに、純輸出の寄与度が上昇したこと、公的固定資本形成のパーセントが2010年、2012年、2013年とかなり高かったことを示している。しかし、アベ政権時代には公的資本形成の寄与度はマイナスとなっており、政府最終消費支出も増えてはいない。
以上がアベ政権の「ケインズ政策」なるものに関する統計的検証である。ただし、誤解をさけるために、一言だけ述べさせてもらうと、私は決して緊縮論者ではない。しかし、同時に野放図な財政支出拡大論者ではない。金融と同じく財政にもそれそうおうの節度が求められる。財政崩壊がきわめて恐ろしい事態であることは、ギリシャの例も示すところである。だが、このことについては、また後で説明する機会があるだろう。
しかし、結果については、一部は既に示してある。実質GDPについて言えば、それは安倍政権成立前のパフォーマンスを大幅にしたまわっている。要するに低成長である。
この本質的な原因・要因が何かは、あとで詳しく検討しなければならないが、とりあえず言えることは、アベ財政政策がなにかしらの成長率の上昇をもたらしたということはない、ということだろう。
だが、論より証拠、実際の統計を見ておこう。下図は、財務省のホームページから得たものである。
http://www.mof.go.jp/tax_policy/summary/condition/003.htm
この図からすぐにわかることは、アベ政権がいわゆる「ケインズ政策」を実施した形跡はうかがえない。何故か?
第一に、一般会計の歳出額は、増えていない、どころかむしろ減少ぎみである。
第二に、一般会計税収は、増加している。この増加が何によるものかは、既に示したが、繰り返すと、消費増税によるものと、それ以外の(安倍首相にとっての)幸運によるものである。決してアベ政権の自慢できるような手柄ではない。もっとも、人の成果をあたかも自分の成果であるように自慢するのが、安倍氏の性格である。これも既に述べたところである。
要するに、平成24年を起点に見ても、単年度の財政赤字の増加を通して「ケインズ政策」を行った形跡は一般会計の収支からは認められない。むしろ全体として見ると、消費増税の手段を用いた緊縮政策(austerity)が基調となっている。この緊縮に一役買っているのが、あろうことか(すでに指摘した)法人税の減税である。
もちろん、単年度の赤字がなくなったわけではなく、依然として大幅な財政赤字は続いている。またその結果、公債発行額も巨額(40兆円弱)にとどまっており、政府の粗債務残高は増加しつづけている。
したがって、日銀が市中銀行から巨額の国債を購入することは、国債の保有者を転換する効果(市中銀行→日銀)を持つことは確実であり、事実、現在日銀は国債の最大の保有者となっている。
もっとも特別会計を含めてみると、アベ政権成立後も年金などの社会保障関係支出は少し増加しており、また(注意せよ!)国債費(利子・償還)も増加しているが、特段に「ケインズ政策」と呼ぶほどのものではない。念のために、下段に一般会計・特別会計の歳出合計額を示しておこう。(この中には、国債費、つまり償還額および利子支払いが含まれていることに注意。)
財務省のホームページ「一般会計・特別会計歳出の推移」より。
もう一つGDP成長率に対する寄与率の指標も示しておこう。
利用できる国民経済計算統計は、2016年(暦年)までのものであるが、少なくともアベ政権が誕生して2年たっても、政府支出(消費、固定資本形成=投資)の寄与度が上昇しているとはとても言えない。
この図は、まずアベ政権成立前の時期について、リーマンショック後しばらくして輸出が回復するとともに、純輸出の寄与度が上昇したこと、公的固定資本形成のパーセントが2010年、2012年、2013年とかなり高かったことを示している。しかし、アベ政権時代には公的資本形成の寄与度はマイナスとなっており、政府最終消費支出も増えてはいない。
以上がアベ政権の「ケインズ政策」なるものに関する統計的検証である。ただし、誤解をさけるために、一言だけ述べさせてもらうと、私は決して緊縮論者ではない。しかし、同時に野放図な財政支出拡大論者ではない。金融と同じく財政にもそれそうおうの節度が求められる。財政崩壊がきわめて恐ろしい事態であることは、ギリシャの例も示すところである。だが、このことについては、また後で説明する機会があるだろう。
2017年7月12日水曜日
安倍氏の経済政策の経済的帰結 6 「ケインズ政策」?
安倍氏の経済政策の中に、明確に「新自由主義」政策的な要素が混入していることを確認してきた。
ところで、経済社会は複雑系であり、様々な要因が複雑にからみあっていて、相互に影響しあっているため、またそれに応じて因果関係も、原因(A)→結果(B)という単純なものでないため、私の説明も先に進んだり、後ろに戻ったりしなければならないが、ここではさしあたり、前に進むことにしよう。
アベノミクスには、様々な要素が雑然と混ぜ合わさっているため、「小泉構造改革」の論理のような単純さに欠けている。そこで、新自由主義政策の側面を持つとともに、またそれと対立するように見える側面も指摘しなければならない。
それというのは、いわゆる「ケインズ政策」のことである。そもそもケインズ自身がどのように捉えていたかは別として、不況・景気後退・停滞に際して財政支出を拡大すること、したがって単年度の財政赤字の拡大を許容し、また累積的な政府粗債務(gross debt)の拡大を許容するような政策を俗に「ケインズ政策」と呼ぶことが多い。もちろん、ケインズ(Keynesian)の修飾語を付けるのがまったく誤りというわけでもない。何故ならば、政府支出の増加は、その他の事情が同じなら(other things being equal)、それと等しい社会全体の有効需要を拡大させ、さらには--必ずそうなるというわけではないが(注意せよ!)--民間投資や家計の消費支出を拡大させるという効果を期待することができるからである。
実際、安倍氏の経済政策には、こうした政府支出の拡大を可能とするような制度的装置が前提とされている。それは、いわゆる「異次元の金融緩和」策である。
このように言うと、首をかしげる人もいるかもしれない。異次元の金融緩和策とは、貨幣供給(貨幣ストック)を拡大させ、インフレーションをもたらし、それによって景気をよくする政策ではないのか、と。たしかに、アベノミクスが喧伝されていたアベ政権の初期には、そのような解説が広く行われていた。しかし、それが効果(成長)をもたらさないだろうということは、本ブログでも何回も触れたし、またその通りとなっている。このt点については、今後も触れることがあるだろう。
しかし、貨幣ストックを増やすためにという名目で実際に採用された具体的な手段を理解すれば、「異次元の金融政策」が通俗的に理解された「ケインズ政策」に他ならないことが自ずからわかるだろう。
ごく初歩的なことだが、社会全体の貨幣供給(貨幣ストック)を増やすためには、銀行が社会。つまり企業(会社)や家計・政府に対して提供する資金を増やさなければならない。ルーズに言えば、それが「貨幣ストック」の定義であり、それ以上でも以下でもない。
では、会社(ここではさしあたり会社だけを取りあげる)は、どのような時に新たな資金を銀行から調達するのだろうか? これも細かく言えばきりがないが、ルースに言えば、例えば会社が生産能力拡大のために設備投資を実施しようとしており、そのための資金を内部では調達しえないときである。会社は、銀行に貸付を依頼する。銀行は審査の上これに対応するだろう。では、その先に行って、会社が設備投資を行うのは、どのような時か? これも多様だが、最も簡単なケースでは、社会全体またはその会社の商品に対する消費需要が拡大しており、適正な生産能力の限界に近づいているときである。
要するに、通常の因果関係から言えば、<消費需要→設備投資需要→資金需要→貨幣ストック>という流れが考えられるはずである。
ところが、である。アベ政権と黒田日銀(およびその理論的支持者、岩田氏)は、まった逆の因果関係を考えていた(くどいようだが、本当に考えているとしたら、という条件つきであるが)。彼らは、日銀が市中銀行に供給するマネー(ベースマネーという)を増やせば、自動的に銀行は会社にカネを貸し、会社は借りたカネで設備投資を行い、設備投資を行えば生産能力が拡大し、そうすればセイ法則(新自由主義の理論上の支柱)によって有効需要(消費需要)が増え、経済は成長する、メデタシメデタシ、考えたことになる。まさに逆転の発想だが、このような逆転した因果系列が実際に生じるはずもない。これはちょっと考えれば、誰でもわかるはずである。そこで、彼らもひとひねりする。
それが「期待」(expectation)である。ただし、ここでいう期待とは、希望という意味あいはなく、むしろ推測という意味に近い。要するに、彼らの説明では、日銀が本気を出して経済を成長さえようとしているという気迫が社会に伝われば、人々は将来の成長を期待して、消費を拡大するだろう。そうすれば、設備投資も拡大し、生産能力も増え、会社の資金需要も増え、銀行の貸し出しも増えることになる。メデタシメデタシというわけである。
しかし、ここでよく考えてみよう。人々は、あるいはすべてといわないまでも多数派をなす人々が本当にそのような期待をいだくだろうか? そのような期待をいだく人はまったくいないとは言わない。しかし、多数派(majority)がそのような期待をいだくと期待するのは、カルト信仰に他ならないではないか。あるいは米国の有名な経済学者、ジェームス・ガルブレイスの言い方を借りると、「バーナンケンシュタイン」という怪物(バーナンキは、同じようなことを考えた前アメリカ中央銀行・FRB議長)に他ならない。
実際、この4年間を振り返ってみても、このような期待が生じた気配はなく、上記の因果関係に沿った成長が生じた形跡もない。
ここで私の経験談を書いてみるのも、無駄ではないかもしれない。ある場所で社会人相手にまだ「アベノミクス」が始まってまもないころ、それについて勉強会を開いていた。ところが、その中の一人(シニアの人)が「インフレーションを人為的におこすなんてとんでもない。私たちの年金が減額され、貯蓄しても利子がゼロなのに、物価があがったら、どうして生活してゆくのか?」とご立腹。もちろん、安倍・黒田の「期待」(希望的観測)に反して、経済が成長するなどという期待は持ち合わせない。これはほんの一例であるが、成長の期待を持っていますという人に私はついに出会わなかった。私が聞いたのは、本当に物価は上がりますか? 利子は上がりますか、経済は成長しますか? といった疑問・質問の声ばかりだった。
だが、「異次元の金融緩和」には、もう一つのサーキットがある。それは、日銀が市中銀行にマネー(ベースマネー)を供給する方法にかかわっている。これもご存じの人はご存じの通り。日銀が市中銀行に貨幣を供給する主な方法は、銀行の保有する有価証券、とりわけ国債を購入することである。もし銀行が10億円の国債を日銀に売却すれば、10億円が銀行の対日銀預金口座に振り込まれる。もちろん、振り込まれたからといって、銀行が会社に貸し付けるマネーを自動的に増やすわけでないことは、上で説明した通りである。
だが、国債というのは、政府の借金である。それを日銀が銀行から買うということは、政府にとっては国債を発行しやすくなることを意味している。
そして、財政支出は、有効需要の拡大を通じて、経済を成長させることになるのではないだろうか?
この「期待」が実際にその通りに働いたかどうかは、実際のデータを用いて検証してみるしかない。 (次回に続く)
ところで、経済社会は複雑系であり、様々な要因が複雑にからみあっていて、相互に影響しあっているため、またそれに応じて因果関係も、原因(A)→結果(B)という単純なものでないため、私の説明も先に進んだり、後ろに戻ったりしなければならないが、ここではさしあたり、前に進むことにしよう。
アベノミクスには、様々な要素が雑然と混ぜ合わさっているため、「小泉構造改革」の論理のような単純さに欠けている。そこで、新自由主義政策の側面を持つとともに、またそれと対立するように見える側面も指摘しなければならない。
それというのは、いわゆる「ケインズ政策」のことである。そもそもケインズ自身がどのように捉えていたかは別として、不況・景気後退・停滞に際して財政支出を拡大すること、したがって単年度の財政赤字の拡大を許容し、また累積的な政府粗債務(gross debt)の拡大を許容するような政策を俗に「ケインズ政策」と呼ぶことが多い。もちろん、ケインズ(Keynesian)の修飾語を付けるのがまったく誤りというわけでもない。何故ならば、政府支出の増加は、その他の事情が同じなら(other things being equal)、それと等しい社会全体の有効需要を拡大させ、さらには--必ずそうなるというわけではないが(注意せよ!)--民間投資や家計の消費支出を拡大させるという効果を期待することができるからである。
実際、安倍氏の経済政策には、こうした政府支出の拡大を可能とするような制度的装置が前提とされている。それは、いわゆる「異次元の金融緩和」策である。
このように言うと、首をかしげる人もいるかもしれない。異次元の金融緩和策とは、貨幣供給(貨幣ストック)を拡大させ、インフレーションをもたらし、それによって景気をよくする政策ではないのか、と。たしかに、アベノミクスが喧伝されていたアベ政権の初期には、そのような解説が広く行われていた。しかし、それが効果(成長)をもたらさないだろうということは、本ブログでも何回も触れたし、またその通りとなっている。このt点については、今後も触れることがあるだろう。
しかし、貨幣ストックを増やすためにという名目で実際に採用された具体的な手段を理解すれば、「異次元の金融政策」が通俗的に理解された「ケインズ政策」に他ならないことが自ずからわかるだろう。
ごく初歩的なことだが、社会全体の貨幣供給(貨幣ストック)を増やすためには、銀行が社会。つまり企業(会社)や家計・政府に対して提供する資金を増やさなければならない。ルーズに言えば、それが「貨幣ストック」の定義であり、それ以上でも以下でもない。
では、会社(ここではさしあたり会社だけを取りあげる)は、どのような時に新たな資金を銀行から調達するのだろうか? これも細かく言えばきりがないが、ルースに言えば、例えば会社が生産能力拡大のために設備投資を実施しようとしており、そのための資金を内部では調達しえないときである。会社は、銀行に貸付を依頼する。銀行は審査の上これに対応するだろう。では、その先に行って、会社が設備投資を行うのは、どのような時か? これも多様だが、最も簡単なケースでは、社会全体またはその会社の商品に対する消費需要が拡大しており、適正な生産能力の限界に近づいているときである。
要するに、通常の因果関係から言えば、<消費需要→設備投資需要→資金需要→貨幣ストック>という流れが考えられるはずである。
ところが、である。アベ政権と黒田日銀(およびその理論的支持者、岩田氏)は、まった逆の因果関係を考えていた(くどいようだが、本当に考えているとしたら、という条件つきであるが)。彼らは、日銀が市中銀行に供給するマネー(ベースマネーという)を増やせば、自動的に銀行は会社にカネを貸し、会社は借りたカネで設備投資を行い、設備投資を行えば生産能力が拡大し、そうすればセイ法則(新自由主義の理論上の支柱)によって有効需要(消費需要)が増え、経済は成長する、メデタシメデタシ、考えたことになる。まさに逆転の発想だが、このような逆転した因果系列が実際に生じるはずもない。これはちょっと考えれば、誰でもわかるはずである。そこで、彼らもひとひねりする。
それが「期待」(expectation)である。ただし、ここでいう期待とは、希望という意味あいはなく、むしろ推測という意味に近い。要するに、彼らの説明では、日銀が本気を出して経済を成長さえようとしているという気迫が社会に伝われば、人々は将来の成長を期待して、消費を拡大するだろう。そうすれば、設備投資も拡大し、生産能力も増え、会社の資金需要も増え、銀行の貸し出しも増えることになる。メデタシメデタシというわけである。
しかし、ここでよく考えてみよう。人々は、あるいはすべてといわないまでも多数派をなす人々が本当にそのような期待をいだくだろうか? そのような期待をいだく人はまったくいないとは言わない。しかし、多数派(majority)がそのような期待をいだくと期待するのは、カルト信仰に他ならないではないか。あるいは米国の有名な経済学者、ジェームス・ガルブレイスの言い方を借りると、「バーナンケンシュタイン」という怪物(バーナンキは、同じようなことを考えた前アメリカ中央銀行・FRB議長)に他ならない。
実際、この4年間を振り返ってみても、このような期待が生じた気配はなく、上記の因果関係に沿った成長が生じた形跡もない。
ここで私の経験談を書いてみるのも、無駄ではないかもしれない。ある場所で社会人相手にまだ「アベノミクス」が始まってまもないころ、それについて勉強会を開いていた。ところが、その中の一人(シニアの人)が「インフレーションを人為的におこすなんてとんでもない。私たちの年金が減額され、貯蓄しても利子がゼロなのに、物価があがったら、どうして生活してゆくのか?」とご立腹。もちろん、安倍・黒田の「期待」(希望的観測)に反して、経済が成長するなどという期待は持ち合わせない。これはほんの一例であるが、成長の期待を持っていますという人に私はついに出会わなかった。私が聞いたのは、本当に物価は上がりますか? 利子は上がりますか、経済は成長しますか? といった疑問・質問の声ばかりだった。
だが、「異次元の金融緩和」には、もう一つのサーキットがある。それは、日銀が市中銀行にマネー(ベースマネー)を供給する方法にかかわっている。これもご存じの人はご存じの通り。日銀が市中銀行に貨幣を供給する主な方法は、銀行の保有する有価証券、とりわけ国債を購入することである。もし銀行が10億円の国債を日銀に売却すれば、10億円が銀行の対日銀預金口座に振り込まれる。もちろん、振り込まれたからといって、銀行が会社に貸し付けるマネーを自動的に増やすわけでないことは、上で説明した通りである。
だが、国債というのは、政府の借金である。それを日銀が銀行から買うということは、政府にとっては国債を発行しやすくなることを意味している。
そして、財政支出は、有効需要の拡大を通じて、経済を成長させることになるのではないだろうか?
この「期待」が実際にその通りに働いたかどうかは、実際のデータを用いて検証してみるしかない。 (次回に続く)
2017年7月10日月曜日
小泉構造改革 「抵抗勢力」というキャッチコピーを考える
小泉純一郎は、小泉構造改革を始めた頃、「抵抗勢力」というキャッチーな言葉をしきりと使った。敵ながら、ある種の「政治的性格」(political character)を持っていたことは認めなければならない。このキャッチコピーに騙されて支持した人も多いかと思う。しかし、それがまやかしのキャッチコピーにすぎないことを以下で説明したいと思う。
さて、「抵抗勢力」とは何かを少し考えてみる。
英語では、まず 'forces of resistance' などと訳すことができるだろうか?
文字通り、抵抗の勢力、抵抗する勢力であり、レジシタンスなどというカタカナ語からは、ナチズム、ファシズムに抵抗する人々という肯定的なイメージも浮かんでくる。
しかし、小泉純一郎がこの言葉を用いた文脈ではそうではない。それは「守旧派」、つまり反動的な勢力、推進するべき改革に抵抗する勢力といったところだろうか。
英語には、insurgent という単語もあるが、こちらは反乱者、造反者という意味合いがあり、政府に反乱を起こした者、党内で造反した者という意味のようである。彼が「自民党をぶっ潰す」といった時には、彼自身が造反者だったという見方もできるが、彼の側から見れば、構造改革に造反する者を抵抗勢力といったとする見方も可能かもしれない。
さて、私がここで言いたいことは、実は、そんなキャッチーな用語の語義の事ではなく、もう少し経済の歴史に即したことである。
「構造改革」(restructuring)の思想は、自由市場礼賛、市場原理主義、市場優先主義の思想に由来することは、今ではよく知られるようになっている。この思想は、19世紀後半の新古典派経済学にまでさかのぼることができ、またこの新古典派の思想は、それ以前の古典派経済学、またはむしろ そのバルガライザー(vulgarizers)、つまり古典派経済学の難解な経済学を通俗化しようとした人々にまでさかのぼる。
自由市場が経済を効率化し、安定化し、成長させ、自然的な分配を実現する、等々という思想は、19世紀に一連の経済学者によって打ち立てられた。もちろん、そのためには、現実の経済社会の実相とは異なる様々な想定(虚構)が必要であった。そのような虚構との中でも重要なのは、規模に関する収穫逓減(費用逓増)、セイ法則(供給がそれ自らの需要を創出する)、需給による価格決定などである。
しかし、19世紀は同時に、これらの想定が経済社会の実相とは異なる虚構にすぎないことを明らかにする経済学をも生み出しはじめていた。マルサス、マルクス、ヴェブレン、リストなどこちら側の経済学者も多数いる。
しかも、これらの流れは、20世紀前半に圧倒的となった。もちろん、スラッファ、ケインズ、カレツキ、ヴェブレン、ジョウン・ロビンソン、カルドア、ハロッドなど蒼々たる経済学者の尽力によるところも大きいが、それ以上に市場原理主義にもとづく経済運営が破綻したことの意義も大きい。このことは、1929年10月の米国の大恐慌が自由な金融活動と金融バブルの膨張による金融破綻によって生じ、1930年代初頭に大不況にまで進展したことを考えれば、容易に理解することができる。それはドイツにおけるナチズムの形成の一大要因となってしまった。また19世紀末から20世紀前半にかけて政治的民主主義が進展するとともに、産業民主制の思想が伸張したことも作用した。
かくして市場原理主義(およびそのひどい帰結)は、人々の脳裏に焼き付けられ、自由な市場ではなく、「規制された市場」(regulated market)と「産業民主制」こそが人間の顔をした経済であることを人々は理解した。
だが、である。ここで三つのことを指摘しなければならない。
まず歴史は忘却されるということである。第二次世界大戦後の規制された資本主義経済の高成長、「黄金時代」の到来とともに、新古典派の経済学者の中には、それが「自由市場経済」によるものであるという主張をなすものがふたたび台頭していた。また人々も、ソ連や中国の失敗を見ながら、その主張に同調しはじめた。
もうひとつ、企業、とりわけ大会社の利害関係者(経営者、株主)や金融にとっては、市場に対する規制ほど我慢ならないものはなかった。高い法人税率、高い限界所得税率、一連の労働保護立法(これは企業の社会的負担を意味する)、金融規制(各国によって方法は異なる)などに対する不満を並べるのは、言うまでもなく、彼らの仕事である。
そして、1970年代に石油危機が生じ、インフレーションと不況、景気停滞が同時に生じると、 古い自由市場体制を懐かしむ経済学者・理論家、企業者、政治家の声は絶頂に達した。
これが、1980年代の英米の新自由主義政策と「構造改革」(restructuring)の思想の台頭を許した背景である。
日本では、1990年代の金融危機(それ自体が米国の新自由主義によって強要された金融自由化の所産だったが)の結果、経済成長率が低下し(それでも今よりは高かったが)、企業や金融機関が不良債権の処理に悩まなければならなくなるとともに、いっそう新自由主義=構造改革の思想とそれを受け入れる背景は強まった。
しかしながら、それは今日までに経済成長を加速するものではなく、むしろ格差を拡大させるようなものであったことがわかっている。
結論しよう。新自由主義=構造改革派こそが、大きな経済史の流れの中では、19世紀末~20世紀初頭のレジームに戻そうとする「抵抗勢力」に他ならない。この抵抗勢力は、現在でも、大きな勢力でありつづけている。いや、資本主義経済が続く限り、それはなくならないであろう。
しかし、それを修正しようとする反対勢力(forces of resistance)も決してなくなることはない。その証拠に、どんなに構造改革を推進したといっても、現実の市場は「規制された市場」(coordinated market)にとどまっている。政府の財政規模は、先進国の中で最も低い財政比率を持つ日本でも、30パーセントを超えているのである。
さて、「抵抗勢力」とは何かを少し考えてみる。
英語では、まず 'forces of resistance' などと訳すことができるだろうか?
文字通り、抵抗の勢力、抵抗する勢力であり、レジシタンスなどというカタカナ語からは、ナチズム、ファシズムに抵抗する人々という肯定的なイメージも浮かんでくる。
しかし、小泉純一郎がこの言葉を用いた文脈ではそうではない。それは「守旧派」、つまり反動的な勢力、推進するべき改革に抵抗する勢力といったところだろうか。
英語には、insurgent という単語もあるが、こちらは反乱者、造反者という意味合いがあり、政府に反乱を起こした者、党内で造反した者という意味のようである。彼が「自民党をぶっ潰す」といった時には、彼自身が造反者だったという見方もできるが、彼の側から見れば、構造改革に造反する者を抵抗勢力といったとする見方も可能かもしれない。
さて、私がここで言いたいことは、実は、そんなキャッチーな用語の語義の事ではなく、もう少し経済の歴史に即したことである。
「構造改革」(restructuring)の思想は、自由市場礼賛、市場原理主義、市場優先主義の思想に由来することは、今ではよく知られるようになっている。この思想は、19世紀後半の新古典派経済学にまでさかのぼることができ、またこの新古典派の思想は、それ以前の古典派経済学、またはむしろ そのバルガライザー(vulgarizers)、つまり古典派経済学の難解な経済学を通俗化しようとした人々にまでさかのぼる。
自由市場が経済を効率化し、安定化し、成長させ、自然的な分配を実現する、等々という思想は、19世紀に一連の経済学者によって打ち立てられた。もちろん、そのためには、現実の経済社会の実相とは異なる様々な想定(虚構)が必要であった。そのような虚構との中でも重要なのは、規模に関する収穫逓減(費用逓増)、セイ法則(供給がそれ自らの需要を創出する)、需給による価格決定などである。
しかし、19世紀は同時に、これらの想定が経済社会の実相とは異なる虚構にすぎないことを明らかにする経済学をも生み出しはじめていた。マルサス、マルクス、ヴェブレン、リストなどこちら側の経済学者も多数いる。
しかも、これらの流れは、20世紀前半に圧倒的となった。もちろん、スラッファ、ケインズ、カレツキ、ヴェブレン、ジョウン・ロビンソン、カルドア、ハロッドなど蒼々たる経済学者の尽力によるところも大きいが、それ以上に市場原理主義にもとづく経済運営が破綻したことの意義も大きい。このことは、1929年10月の米国の大恐慌が自由な金融活動と金融バブルの膨張による金融破綻によって生じ、1930年代初頭に大不況にまで進展したことを考えれば、容易に理解することができる。それはドイツにおけるナチズムの形成の一大要因となってしまった。また19世紀末から20世紀前半にかけて政治的民主主義が進展するとともに、産業民主制の思想が伸張したことも作用した。
かくして市場原理主義(およびそのひどい帰結)は、人々の脳裏に焼き付けられ、自由な市場ではなく、「規制された市場」(regulated market)と「産業民主制」こそが人間の顔をした経済であることを人々は理解した。
だが、である。ここで三つのことを指摘しなければならない。
まず歴史は忘却されるということである。第二次世界大戦後の規制された資本主義経済の高成長、「黄金時代」の到来とともに、新古典派の経済学者の中には、それが「自由市場経済」によるものであるという主張をなすものがふたたび台頭していた。また人々も、ソ連や中国の失敗を見ながら、その主張に同調しはじめた。
もうひとつ、企業、とりわけ大会社の利害関係者(経営者、株主)や金融にとっては、市場に対する規制ほど我慢ならないものはなかった。高い法人税率、高い限界所得税率、一連の労働保護立法(これは企業の社会的負担を意味する)、金融規制(各国によって方法は異なる)などに対する不満を並べるのは、言うまでもなく、彼らの仕事である。
そして、1970年代に石油危機が生じ、インフレーションと不況、景気停滞が同時に生じると、 古い自由市場体制を懐かしむ経済学者・理論家、企業者、政治家の声は絶頂に達した。
これが、1980年代の英米の新自由主義政策と「構造改革」(restructuring)の思想の台頭を許した背景である。
日本では、1990年代の金融危機(それ自体が米国の新自由主義によって強要された金融自由化の所産だったが)の結果、経済成長率が低下し(それでも今よりは高かったが)、企業や金融機関が不良債権の処理に悩まなければならなくなるとともに、いっそう新自由主義=構造改革の思想とそれを受け入れる背景は強まった。
しかしながら、それは今日までに経済成長を加速するものではなく、むしろ格差を拡大させるようなものであったことがわかっている。
結論しよう。新自由主義=構造改革派こそが、大きな経済史の流れの中では、19世紀末~20世紀初頭のレジームに戻そうとする「抵抗勢力」に他ならない。この抵抗勢力は、現在でも、大きな勢力でありつづけている。いや、資本主義経済が続く限り、それはなくならないであろう。
しかし、それを修正しようとする反対勢力(forces of resistance)も決してなくなることはない。その証拠に、どんなに構造改革を推進したといっても、現実の市場は「規制された市場」(coordinated market)にとどまっている。政府の財政規模は、先進国の中で最も低い財政比率を持つ日本でも、30パーセントを超えているのである。
2017年7月9日日曜日
安倍氏の経済政策の経済的帰結 5
これまで「アベノミクス」を「新自由主義」政策の枠組みの中で把握できると説明してきたが、正直に言うと、安倍氏がそのような政策の哲学を理解しているかどうかも、かなり怪しい。むしろ安倍氏の頭の中にあるのは、激しい「思い込み」にすぎないようである。これについては、伊東光晴氏が倉重篤郎著『日本の死に至る病 アベノミクスの罪と罰』(河出書房新社、2016年)の中で述べていることが事実であろう。ちなみに、少し引用すると、
「祖父(岸信介元首相)を神様のように思っている。思い込みが激しい。改憲をやりたがっている・・・・・」
「思い込みの激しさが、希望的な観測を現実だと思わせている節がある。その好例が五輪招致の際の福島原発汚染水『アンダーコントロール』(完全制御)発言だ。ただこれは幻想です。経済政策でも同様だ。現実の経済は成長していないし、人々の家計も潤っていない。」
幻想か現実か、論より証拠、とにかく現実を見ておこう。
下段に、1995年から2016年までの経済成長率(実質GDPの対前年比、%)を示す。(服部茂幸氏が公式統計データから作成した図があったので、それを利用させてもらうことにする。)
この図からも明らかなように、アベ政治=「アベノミクス」期の成長率は、それ以前の成長率と比べても低い。首相就任前の成長率が比較的高いのは、2008~09年のリーマン危機(米国金融崩壊)や欧州の金融危機後の大不況からの回復期のみかけけのことだから、措くとしても、あの小泉構造改革時より低い。ちなみに、小泉構造改革時も初発の時点では自ら招いた景気後退があったため、2003~2007年が比較的好調の時期であったにもかかわらず、それほど高い成長率を達成していない(平均して年1%ほどにすぎない)。それより低い数値である。
もっとも、より詳しく見ると、たしかに成長率は上がっている。しかし、それは消費増税直前の駆け込み消費需要増のためにすぎない。したがって消費増税が実施された後にはマイナス成長を記録し、その後は暫くしても(駆け込み購入の効果が薄れてからも)、実質成長率は1パーセントにも達しないというミゼラブルな率にとどまっている。

出典)服部茂幸『偽りの経済政策ーー格差と停滞のアベノミクス』岩波新書、2017年、11ページより。
だが、安倍晋三氏は、租税問題では幸運だったはずである。彼は、政権について、「税収21兆円増」を実現したことを誇っている。だが、もちろん、そのうちの8兆円は、民主党政権時代に(野田政権によって)決定されていた消費増税を実施しただけであり、安倍氏は国民大衆からの非難を浴びずに、増税を実現することができたにすぎない。
残りの13兆円はどうか? これも伊東光晴氏が明らかにしているように、アベノミクスの果実とは到底いえない(重倉前掲書参照)。
1)金融機関の法人税収の増加
従来、金融バブル崩壊によって生じた不良債権の処理のために、その処理費を毎年の利益から償却することが認められてきたが、その特典制度が満了したため。
2)リーマンショックによってトヨタなどのメーカーが深刻な負債を抱え込んだが、安倍政権の成立とほぼ同時にその償却を終え、法人税を払えるようになったため。トヨタなどが巨額の利益をあげながら、しばらく法人税を支払っていなかったことは、しばしば批判の対象となっていた。
3)金融資産のキャピタルゲイン(差益)やインカムゲイン(利子)に対する金融所得課税が10%の軽減措置から本則の20%に戻ったため。
実際、日本の巨大企業がいかに税制上の特典(特権)を受けていたかは、私のこれまでのブログでも紹介してきた。
ところが、「安倍氏は自分でやっていないことを自分の功績にしてしまう」というわけである。
しかし、安倍政権が誕生してからすでに4年以上が経過している。それにもかかわらず、約束した高成長は実現しないだけでなく、惨めな結果に終わっている。それは何故なのか?
その最大の理由が消費税の増税にあることは、後でも説明するが、まったく明らかである。グラフが示すように、それは国民大衆から8兆円もの可処分所得を奪ったのである。この増加分は国民全体の消費需要の3%、またはGDPの1.6%(=8÷500)に相当する。したがって、この消費需要の縮小を補う何らかの需要増加をもたらす要因がない限り、激しいデフレ効果をもたらすことは明らかである。
しかし、これに対して、経済学者の中には、異なる主張をする人もいる。
例えば吉川洋氏は、安倍政権が選挙政策の一環として、再度の消費増税(8%→10%)を延期したことに関して、それを「消費増税を財政健全化のために行っても、国民の消費性向を下げ、景気を悪化させ、結果的に税収を減らし、かえって財政健全化を疎外する、というアベノミクス論者が得意とする議論」に反論するという形で、次のように述べている。
「単純な誤解だ。なぜならば、消費増税は駆け込み需要とその後の落ち込みをもたらすが、平均すると消費トータルの落ち込みはなく、当然のことながら税収は安定的で増税分がそのまま上乗せされる。税収の中で減るものがあるとすればそれは消費税収ではなく、所得・法人税収である。そして、それは消費増税が原因によるものではない。」
だが、この説明は意味不明であり、そもそも説明になっていない。どのような理由から「平均すると消費トータルの落ち込みはなく、当然のことながら」と言うことができるのだろうか? また何故所得税や法人税が減少するのだろうか?
吉川氏は、一般的には良識的なケインズ派(およびシュンペーター総合)とみられており、所得分配と消費需要との関係などには敏感なはずであるが、あまりにもシュンペーターの「技術革新」説に傾くあまり、知らずとセイ法則を認めてしまっているのだろうか?
もっとも別の箇所で、吉川氏は、「長期的課題(社会保障・税財政政策)と短期的課題(景気動向)を切り分けて考えるべきところを混同、消費税が一時的に景気に与える影響に目を奪われ、長期的課題解決の好機をみすみす犠牲にした」と述べてているので、長期的な課題、とりわけ社会保障の充実のために、消費税増税がやむをえない措置と考えているのかもしれない。
しかし、それならば、消費税だけでなく、法人税や所得税もともに合わせて総合的に考えるべきであり、逆累進性を特徴とする消費税だけを引きあげるかのような発言は、おおいに疑問である。
実際、1990年年代から一貫して自民党政府は、法人税率と所得税の限界税率の引き下げと消費税率の引き上げという「税制のフラット化」に邁進してきたが、安倍政権の下でもこの動きはすすめられている。下図は、法人税率の動きである。所得税の限界税率の減税については、おそらくよく知られていることであり、ここでは省略しよう。
このような減税が消費増税と合わせて所得と富の格差を拡大し、長期にわたって消費性向を引き下げ、社会保障制度の基礎をくずすことは明らかであるように思われる。
「祖父(岸信介元首相)を神様のように思っている。思い込みが激しい。改憲をやりたがっている・・・・・」
「思い込みの激しさが、希望的な観測を現実だと思わせている節がある。その好例が五輪招致の際の福島原発汚染水『アンダーコントロール』(完全制御)発言だ。ただこれは幻想です。経済政策でも同様だ。現実の経済は成長していないし、人々の家計も潤っていない。」
幻想か現実か、論より証拠、とにかく現実を見ておこう。
下段に、1995年から2016年までの経済成長率(実質GDPの対前年比、%)を示す。(服部茂幸氏が公式統計データから作成した図があったので、それを利用させてもらうことにする。)
この図からも明らかなように、アベ政治=「アベノミクス」期の成長率は、それ以前の成長率と比べても低い。首相就任前の成長率が比較的高いのは、2008~09年のリーマン危機(米国金融崩壊)や欧州の金融危機後の大不況からの回復期のみかけけのことだから、措くとしても、あの小泉構造改革時より低い。ちなみに、小泉構造改革時も初発の時点では自ら招いた景気後退があったため、2003~2007年が比較的好調の時期であったにもかかわらず、それほど高い成長率を達成していない(平均して年1%ほどにすぎない)。それより低い数値である。
もっとも、より詳しく見ると、たしかに成長率は上がっている。しかし、それは消費増税直前の駆け込み消費需要増のためにすぎない。したがって消費増税が実施された後にはマイナス成長を記録し、その後は暫くしても(駆け込み購入の効果が薄れてからも)、実質成長率は1パーセントにも達しないというミゼラブルな率にとどまっている。

出典)服部茂幸『偽りの経済政策ーー格差と停滞のアベノミクス』岩波新書、2017年、11ページより。
だが、安倍晋三氏は、租税問題では幸運だったはずである。彼は、政権について、「税収21兆円増」を実現したことを誇っている。だが、もちろん、そのうちの8兆円は、民主党政権時代に(野田政権によって)決定されていた消費増税を実施しただけであり、安倍氏は国民大衆からの非難を浴びずに、増税を実現することができたにすぎない。
残りの13兆円はどうか? これも伊東光晴氏が明らかにしているように、アベノミクスの果実とは到底いえない(重倉前掲書参照)。
1)金融機関の法人税収の増加
従来、金融バブル崩壊によって生じた不良債権の処理のために、その処理費を毎年の利益から償却することが認められてきたが、その特典制度が満了したため。
2)リーマンショックによってトヨタなどのメーカーが深刻な負債を抱え込んだが、安倍政権の成立とほぼ同時にその償却を終え、法人税を払えるようになったため。トヨタなどが巨額の利益をあげながら、しばらく法人税を支払っていなかったことは、しばしば批判の対象となっていた。
3)金融資産のキャピタルゲイン(差益)やインカムゲイン(利子)に対する金融所得課税が10%の軽減措置から本則の20%に戻ったため。
実際、日本の巨大企業がいかに税制上の特典(特権)を受けていたかは、私のこれまでのブログでも紹介してきた。
ところが、「安倍氏は自分でやっていないことを自分の功績にしてしまう」というわけである。
しかし、安倍政権が誕生してからすでに4年以上が経過している。それにもかかわらず、約束した高成長は実現しないだけでなく、惨めな結果に終わっている。それは何故なのか?
その最大の理由が消費税の増税にあることは、後でも説明するが、まったく明らかである。グラフが示すように、それは国民大衆から8兆円もの可処分所得を奪ったのである。この増加分は国民全体の消費需要の3%、またはGDPの1.6%(=8÷500)に相当する。したがって、この消費需要の縮小を補う何らかの需要増加をもたらす要因がない限り、激しいデフレ効果をもたらすことは明らかである。
しかし、これに対して、経済学者の中には、異なる主張をする人もいる。
例えば吉川洋氏は、安倍政権が選挙政策の一環として、再度の消費増税(8%→10%)を延期したことに関して、それを「消費増税を財政健全化のために行っても、国民の消費性向を下げ、景気を悪化させ、結果的に税収を減らし、かえって財政健全化を疎外する、というアベノミクス論者が得意とする議論」に反論するという形で、次のように述べている。
「単純な誤解だ。なぜならば、消費増税は駆け込み需要とその後の落ち込みをもたらすが、平均すると消費トータルの落ち込みはなく、当然のことながら税収は安定的で増税分がそのまま上乗せされる。税収の中で減るものがあるとすればそれは消費税収ではなく、所得・法人税収である。そして、それは消費増税が原因によるものではない。」
だが、この説明は意味不明であり、そもそも説明になっていない。どのような理由から「平均すると消費トータルの落ち込みはなく、当然のことながら」と言うことができるのだろうか? また何故所得税や法人税が減少するのだろうか?
吉川氏は、一般的には良識的なケインズ派(およびシュンペーター総合)とみられており、所得分配と消費需要との関係などには敏感なはずであるが、あまりにもシュンペーターの「技術革新」説に傾くあまり、知らずとセイ法則を認めてしまっているのだろうか?
もっとも別の箇所で、吉川氏は、「長期的課題(社会保障・税財政政策)と短期的課題(景気動向)を切り分けて考えるべきところを混同、消費税が一時的に景気に与える影響に目を奪われ、長期的課題解決の好機をみすみす犠牲にした」と述べてているので、長期的な課題、とりわけ社会保障の充実のために、消費税増税がやむをえない措置と考えているのかもしれない。
しかし、それならば、消費税だけでなく、法人税や所得税もともに合わせて総合的に考えるべきであり、逆累進性を特徴とする消費税だけを引きあげるかのような発言は、おおいに疑問である。
実際、1990年年代から一貫して自民党政府は、法人税率と所得税の限界税率の引き下げと消費税率の引き上げという「税制のフラット化」に邁進してきたが、安倍政権の下でもこの動きはすすめられている。下図は、法人税率の動きである。所得税の限界税率の減税については、おそらくよく知られていることであり、ここでは省略しよう。
このような減税が消費増税と合わせて所得と富の格差を拡大し、長期にわたって消費性向を引き下げ、社会保障制度の基礎をくずすことは明らかであるように思われる。
5月3日『読売新聞』「安倍首相インタビュー全文」を読む 雑感
ある所で、例の改憲に関する「安倍首相インタビュー全文」(『読売新聞』5月3日付)を読む機会があった。
新聞には、<自衛隊の合憲化使命>、<「違憲かもしれないが命張れ」では無責任>、<国民の目の前で具体的な議論していく>、<教育「一億総活躍」に役割>などの見だしが並んでいる。
以下はそれを読んだ感想である。
1)特にアベ改憲を実現しないようにするためにも、よく読んでほしい。
それなりに説得力のありそうな文章だからだ。
2)このインタビュー全文は、おそらく読売新聞社との綿密な相談の上に文章化されたものであろう。もちろん、その証拠を私が持っているわけではない。しかし、国会で追及されたとき、安倍氏が自分で説明するのではなく、新聞を読むように求めたことは、そう推測させる一つとなる。また安倍氏が理路整然とこのように語りえたとは、私には到底思えない。だが、特に根拠があるわけではないので、この点は措いておこう。
3)現状では、自衛隊は災害救助をはじめ、国民を守る仕事をしているが、一方で、80パーセントもの憲法学者が「違憲」を主張しているという現状(「違憲かもしれないが命張れ」では無責任)は、そこそこに有権者に訴える力を持つかもしれない。
また現行9条の1,2項はそのままにしておき、自衛隊に関する条項をつけ加える(加憲)もまた有権者に訴える力を持つかもしれない。
4)しかし、ここで憲法9条をよく読んでみよう。
第九条 日本国民は、正義と秩序とを基調とする国際平和を誠実に希求し、陸海空軍その他の戦力を保持せず。 国の交戦権を否認することを声明す。
第二項 前掲の目的を達するため、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを抛棄する。
これに「自衛隊」条項を付加した場合、どのような条文となるのだろうか?
一方で、<戦力を保持せず、国の交戦権を否認する>、<戦争><武力による威嚇又は武力の行使>を放棄するとしている項目とどう整合するのだろうか? しかし、それ以上に重要なことがある。
5)まず、改憲案がこのように変化したのは、安倍首相自身の現状に対する認識の変化があったからであろう。つまり安倍氏の軍事路線は「危ない」という認識の国民の間での高まりである。
本来の(かつての)自民党の改憲案(2012年)では、次のように書かれている。
9条2項削除・国防軍創設
第二章 安全保障
(平和主義)
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。
2 前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。
(国防軍)
第九条の二 我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。
4 前2項に定めるもののほか、国防軍の組織、統制及び機密の保持に関する事項は、法律で定める。
5 国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪又は国防軍の機密に関する罪を犯した場合の裁判を行うため、法律の定めるところにより、国防軍に審判所を置く。この場合においては、被告人が裁判所へ上訴する権利は、保障されなければならない。
見られるように、第9条の改憲案では、武力・軍隊(国防軍)を保持することが合憲化され、かつ「自衛権」(つまり自衛という名目の戦争)を認める方向に根本的に変えられている。
6)この改憲案と5月3日の「安倍首相インタビュー」の間に、何があったのか? それはもちろんアベ政治・アベ改憲への国民的な拒否の高まりである。各種の世論調査でも、自民党の改憲案のあまりのひどさにマスコミも公表を尻込みし、また改憲に反対する意見が日ごとに高まっていた。「安倍首相インタビュー」はこうした情勢を見通した変化を示すものであることは明らかである。
7)安倍晋三氏は、明らかに失敗したと言わざるをえない。もし、これまでの安倍政治(特定秘密法、戦争法、共謀罪法、安倍友学園問題<これには文書の隠滅、警察への圧力、省庁への処分をちらつかせる圧力などを含む>、失態・失言など)の経過がなく、いきなり、9条の1,2項をそのままにして簡潔に「自衛権」条項を付加するだけでならば、有権者は説得されてしまったかもしれない。
8)だが、安倍氏は、首相就任以来、軍事にひた走ってきた。特定秘密法の制定があり、さらに勝手な「解釈改憲」を行い、安保法制(「戦争法」)によって日本が自衛隊を外国で戦争することができる国にしてしまった。また「集団的自衛権」を認めたが、これは外国(さしあたり米国)と軍隊の存在を前提とする軍事同盟を結ぶことを公式に認めるものであり、かつ米国が「先制攻撃」を否認していない以上、その「先制攻撃」を認めることにしてしまった。つまり自衛のための先制攻撃(!)を認めたのである。
9)原稿憲法の下でさえ、このような状態である。もし仮に安倍政権にもくろむこのような改憲(加憲)が認められてしまえば、それは自衛隊員の死(戦死)の危険性を高めるだけにでなく、日本を戦争に巻き込む危険性を持つものであることは言うまでもない。
そのような軍隊が合法化は、軍事法廷に関する法律の制定をもたらし、共謀罪法と連携して日本の国民をさらに軍事に導く危険性を持つ。
決して安倍氏の虚言に騙されてはならない、と思う今日このごろである。
新聞には、<自衛隊の合憲化使命>、<「違憲かもしれないが命張れ」では無責任>、<国民の目の前で具体的な議論していく>、<教育「一億総活躍」に役割>などの見だしが並んでいる。
以下はそれを読んだ感想である。
1)特にアベ改憲を実現しないようにするためにも、よく読んでほしい。
それなりに説得力のありそうな文章だからだ。
2)このインタビュー全文は、おそらく読売新聞社との綿密な相談の上に文章化されたものであろう。もちろん、その証拠を私が持っているわけではない。しかし、国会で追及されたとき、安倍氏が自分で説明するのではなく、新聞を読むように求めたことは、そう推測させる一つとなる。また安倍氏が理路整然とこのように語りえたとは、私には到底思えない。だが、特に根拠があるわけではないので、この点は措いておこう。
3)現状では、自衛隊は災害救助をはじめ、国民を守る仕事をしているが、一方で、80パーセントもの憲法学者が「違憲」を主張しているという現状(「違憲かもしれないが命張れ」では無責任)は、そこそこに有権者に訴える力を持つかもしれない。
また現行9条の1,2項はそのままにしておき、自衛隊に関する条項をつけ加える(加憲)もまた有権者に訴える力を持つかもしれない。
4)しかし、ここで憲法9条をよく読んでみよう。
第九条 日本国民は、正義と秩序とを基調とする国際平和を誠実に希求し、陸海空軍その他の戦力を保持せず。 国の交戦権を否認することを声明す。
第二項 前掲の目的を達するため、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを抛棄する。
これに「自衛隊」条項を付加した場合、どのような条文となるのだろうか?
一方で、<戦力を保持せず、国の交戦権を否認する>、<戦争><武力による威嚇又は武力の行使>を放棄するとしている項目とどう整合するのだろうか? しかし、それ以上に重要なことがある。
5)まず、改憲案がこのように変化したのは、安倍首相自身の現状に対する認識の変化があったからであろう。つまり安倍氏の軍事路線は「危ない」という認識の国民の間での高まりである。
本来の(かつての)自民党の改憲案(2012年)では、次のように書かれている。
9条2項削除・国防軍創設
第二章 安全保障
(平和主義)
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。
2 前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。
(国防軍)
第九条の二 我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。
2 国防軍は、前項の規定による任務を遂行する際は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。
3 国防軍は、第一項に規定する任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。
4 前2項に定めるもののほか、国防軍の組織、統制及び機密の保持に関する事項は、法律で定める。
5 国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪又は国防軍の機密に関する罪を犯した場合の裁判を行うため、法律の定めるところにより、国防軍に審判所を置く。この場合においては、被告人が裁判所へ上訴する権利は、保障されなければならない。
見られるように、第9条の改憲案では、武力・軍隊(国防軍)を保持することが合憲化され、かつ「自衛権」(つまり自衛という名目の戦争)を認める方向に根本的に変えられている。
6)この改憲案と5月3日の「安倍首相インタビュー」の間に、何があったのか? それはもちろんアベ政治・アベ改憲への国民的な拒否の高まりである。各種の世論調査でも、自民党の改憲案のあまりのひどさにマスコミも公表を尻込みし、また改憲に反対する意見が日ごとに高まっていた。「安倍首相インタビュー」はこうした情勢を見通した変化を示すものであることは明らかである。
7)安倍晋三氏は、明らかに失敗したと言わざるをえない。もし、これまでの安倍政治(特定秘密法、戦争法、共謀罪法、安倍友学園問題<これには文書の隠滅、警察への圧力、省庁への処分をちらつかせる圧力などを含む>、失態・失言など)の経過がなく、いきなり、9条の1,2項をそのままにして簡潔に「自衛権」条項を付加するだけでならば、有権者は説得されてしまったかもしれない。
8)だが、安倍氏は、首相就任以来、軍事にひた走ってきた。特定秘密法の制定があり、さらに勝手な「解釈改憲」を行い、安保法制(「戦争法」)によって日本が自衛隊を外国で戦争することができる国にしてしまった。また「集団的自衛権」を認めたが、これは外国(さしあたり米国)と軍隊の存在を前提とする軍事同盟を結ぶことを公式に認めるものであり、かつ米国が「先制攻撃」を否認していない以上、その「先制攻撃」を認めることにしてしまった。つまり自衛のための先制攻撃(!)を認めたのである。
9)原稿憲法の下でさえ、このような状態である。もし仮に安倍政権にもくろむこのような改憲(加憲)が認められてしまえば、それは自衛隊員の死(戦死)の危険性を高めるだけにでなく、日本を戦争に巻き込む危険性を持つものであることは言うまでもない。
そのような軍隊が合法化は、軍事法廷に関する法律の制定をもたらし、共謀罪法と連携して日本の国民をさらに軍事に導く危険性を持つ。
決して安倍氏の虚言に騙されてはならない、と思う今日このごろである。
安倍晋三氏と金正恩氏の奇妙な「共同」関係
アベ政治が危機に陥っている。
しかし、アベ内閣には、外に有力な味方がいる。
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の金正恩(キム・ジョンウン)氏である。
もちろん、安倍氏と金氏が個人的に仲の良い関係にあるというわけでは決してない。金氏は、森友や加計のような、いわゆる「安倍友」ではない。
客観的に国際政治の観点から見れば、金氏のねらいはあくまで米国であり、なんとかして米国から国際的な存立承認を得たいということであろう。1950年に勃発した朝鮮戦争は、1953年7月の休戦協定によって事実上終了した。その後、朝鮮半島の両国間には中立を宣言したスイス、スウェーデン、チェコスロバキア(当時)、ポーランドの4カ国によって中立国停戦監視委員会が置かれ、中国軍も1958年に完全撤収した。
しかし、今日にいたるまで平和(講和)条約は結ばれていない。しかも、韓国には日本と同様に米軍が駐留しており、米国は「集団的安全保障」を盾に、外国軍との軍事同盟を結んでいるだけではなく、敵国に対する「先制攻撃」も否定していない。一方、このような中で、かつの中国は北朝鮮にとって頼みの綱であったが、1980年代の改革開放政策の中で関係は著しく変化してしまった。
たしかに、一時きわめて高まった米・北朝鮮間の緊張も、米中会談によってトランプが中国の北朝鮮に対する圧力政策によって解決することを探った時点で、若干和らいでいる。しかし、中国の北朝鮮に対する接近にも限界があることがかなりはっきりしてきている。
中国自体もアベ政権にとっては、潜在的な敵国として日本の有権者を煽る対象とされてきた。もっとも、さすがに日本が中国を相手に戦争するという強硬な姿勢を支持する人はきわめて少ないだろう。日本になんとなく(または明確にか?)漂う反中国感情は、日本の経済社会の長期停滞と中国経済のめざましい成長の対比とは無関係ではないようである。観光地を旅行すれば、日本の高齢者(私もその一人だが)とともに、東アジアからの旅行客がきわめて多いことはいまや誰でも知っている事柄である。これは、観光地にとっては自分自身の経営=生活の存続にかかわることであり、否定できない現実であるが、それと同時に屈折した感情をもたらしているようである。このことは、私がこれまで宿泊した旅館の人々のちょっとした発言からも何となく感じられることである。
しかし、だからといって実際に中国と戦争しようとする人はまずいないであろう。それは現在のグローバル化した世界の中では、日本経済のみならず、世界経済にとって破滅的な被害を意味している。
ともあれ、北朝鮮の体制側のねらいは、自国体制の存続の保障であり、その交渉相手は米国に他ならない。あらゆる面で対米従属の立場を保持してきた日本など眼中にもないといってもよい。
もちろん、私は北朝鮮の瀬戸際政策(核開発、ミサイル実験)を擁護しているのではない。実に腹立たしく、困ったことだと思っている。
しかし、窮地に陥ったアベ政治には、こうした北朝鮮の態度は使える起死回生策となる可能性・危険性がある。また安倍晋三氏は、これまで露骨にそれを利用してきた。「ミサイル発射実験」に際して電車を止めてみたり、NHKに戦時さながらの緊急放送を繰り返させてみたり(それともNHKが忖度して放送しているのか?)、米軍と一緒に北朝鮮に対する軍事的挑発を繰り返しながら、彼の軍事路線、9条改憲を国民に対して宣伝するのに必死になっている。その軍事路線は、特定秘密法、日本の自衛隊が外国の軍隊と一緒に外国で戦争に参加できる体制を整えた安保法制(戦争法)、共謀罪(何をしたら罪になり罰せられるかわからない法律を制定し、政府に対する反対意見・運動を抑止する)などに顕著に表れている。
少なくとアベ政治にとって金正恩氏が暴走すればするほど、アベ政治=軍事路線にとっては国民的な支持が集まりやすくなることは否定できない。
しかし、仮に万が一、米国が北朝鮮を先制攻撃し、北朝鮮が反撃することとなれば、相手国は米国だけではない。日本国内の米軍基地はもちろん、自衛隊基地、それに北朝鮮が仮にそれらを狙ったとしても、北朝鮮の武器の低い性能のため、日本全体が攻撃対象となることもありうるだろう。
米軍の傘にしたにいれば安全というのは、神話にすぎない。
過去の多くの戦争も、またとりわけ二つの世界戦争は、「狂気の政治家」によって、またそれに追随した人々によって惹起されてきた。また、その背景には、経済の破綻(失業と格差)があった。しかし、幸運なことに、現在の経済がどんなに多くの困難な問題を抱えているといっても、20世紀前半のようなひどいものではない。人類は、それなりに賢くなってきている。
われわれが追求するべきは、軍事的挑発とそれによる国民的同化ではないはずである。
しかし、アベ内閣には、外に有力な味方がいる。
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の金正恩(キム・ジョンウン)氏である。
もちろん、安倍氏と金氏が個人的に仲の良い関係にあるというわけでは決してない。金氏は、森友や加計のような、いわゆる「安倍友」ではない。
客観的に国際政治の観点から見れば、金氏のねらいはあくまで米国であり、なんとかして米国から国際的な存立承認を得たいということであろう。1950年に勃発した朝鮮戦争は、1953年7月の休戦協定によって事実上終了した。その後、朝鮮半島の両国間には中立を宣言したスイス、スウェーデン、チェコスロバキア(当時)、ポーランドの4カ国によって中立国停戦監視委員会が置かれ、中国軍も1958年に完全撤収した。
しかし、今日にいたるまで平和(講和)条約は結ばれていない。しかも、韓国には日本と同様に米軍が駐留しており、米国は「集団的安全保障」を盾に、外国軍との軍事同盟を結んでいるだけではなく、敵国に対する「先制攻撃」も否定していない。一方、このような中で、かつの中国は北朝鮮にとって頼みの綱であったが、1980年代の改革開放政策の中で関係は著しく変化してしまった。
たしかに、一時きわめて高まった米・北朝鮮間の緊張も、米中会談によってトランプが中国の北朝鮮に対する圧力政策によって解決することを探った時点で、若干和らいでいる。しかし、中国の北朝鮮に対する接近にも限界があることがかなりはっきりしてきている。
中国自体もアベ政権にとっては、潜在的な敵国として日本の有権者を煽る対象とされてきた。もっとも、さすがに日本が中国を相手に戦争するという強硬な姿勢を支持する人はきわめて少ないだろう。日本になんとなく(または明確にか?)漂う反中国感情は、日本の経済社会の長期停滞と中国経済のめざましい成長の対比とは無関係ではないようである。観光地を旅行すれば、日本の高齢者(私もその一人だが)とともに、東アジアからの旅行客がきわめて多いことはいまや誰でも知っている事柄である。これは、観光地にとっては自分自身の経営=生活の存続にかかわることであり、否定できない現実であるが、それと同時に屈折した感情をもたらしているようである。このことは、私がこれまで宿泊した旅館の人々のちょっとした発言からも何となく感じられることである。
しかし、だからといって実際に中国と戦争しようとする人はまずいないであろう。それは現在のグローバル化した世界の中では、日本経済のみならず、世界経済にとって破滅的な被害を意味している。
ともあれ、北朝鮮の体制側のねらいは、自国体制の存続の保障であり、その交渉相手は米国に他ならない。あらゆる面で対米従属の立場を保持してきた日本など眼中にもないといってもよい。
もちろん、私は北朝鮮の瀬戸際政策(核開発、ミサイル実験)を擁護しているのではない。実に腹立たしく、困ったことだと思っている。
しかし、窮地に陥ったアベ政治には、こうした北朝鮮の態度は使える起死回生策となる可能性・危険性がある。また安倍晋三氏は、これまで露骨にそれを利用してきた。「ミサイル発射実験」に際して電車を止めてみたり、NHKに戦時さながらの緊急放送を繰り返させてみたり(それともNHKが忖度して放送しているのか?)、米軍と一緒に北朝鮮に対する軍事的挑発を繰り返しながら、彼の軍事路線、9条改憲を国民に対して宣伝するのに必死になっている。その軍事路線は、特定秘密法、日本の自衛隊が外国の軍隊と一緒に外国で戦争に参加できる体制を整えた安保法制(戦争法)、共謀罪(何をしたら罪になり罰せられるかわからない法律を制定し、政府に対する反対意見・運動を抑止する)などに顕著に表れている。
少なくとアベ政治にとって金正恩氏が暴走すればするほど、アベ政治=軍事路線にとっては国民的な支持が集まりやすくなることは否定できない。
しかし、仮に万が一、米国が北朝鮮を先制攻撃し、北朝鮮が反撃することとなれば、相手国は米国だけではない。日本国内の米軍基地はもちろん、自衛隊基地、それに北朝鮮が仮にそれらを狙ったとしても、北朝鮮の武器の低い性能のため、日本全体が攻撃対象となることもありうるだろう。
米軍の傘にしたにいれば安全というのは、神話にすぎない。
過去の多くの戦争も、またとりわけ二つの世界戦争は、「狂気の政治家」によって、またそれに追随した人々によって惹起されてきた。また、その背景には、経済の破綻(失業と格差)があった。しかし、幸運なことに、現在の経済がどんなに多くの困難な問題を抱えているといっても、20世紀前半のようなひどいものではない。人類は、それなりに賢くなってきている。
われわれが追求するべきは、軍事的挑発とそれによる国民的同化ではないはずである。
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