為替相場の決定理論に限らず、新古典派には絶対に譲ることのできない「信条」とも呼ぶべきものがあります。それは、市場均衡と市場効率性の理論、合理的期待、セイ法則と呼ばれるものなどです。
彼らは、それらの原理を必死に護ろうとします。私などは「現実世界の経済学」を明らかにすることを目標としているので、ポスト・ケインズ派や制度派の見解(不均衡の存在、不確実性、市場以外の制度の重要性、有効需要の固有の原理など)を現実的なものとして何の抵抗もなく受け入れることができますが、おそらく特に米国の主流派・新古典派・正統派と称する人々は、それらを受け入れたら現代経済体制の正当性を基礎づけられなくなるという宗教的な使命感を持っているのでしょうか、とにかく必死になるのです。
もちろん、経済学が宗教であれば、信仰箇条を護るのは立派な態度と言えるでしょう。しかし、残念ながら経済学は宗教ではありません。社会科学です。J・M・ケインズは、『一般理論』(1936年)で、現実離れした前提から出発した誤った理論が「悲惨な結果」をもたらすといい、彼の経済学を構築しましたが、ケインズが述べたことを現在の経済学者も繰り返さなければならないのは悲しいことです。
さて、このようなことを述べたのは、新古典派の「思想」・「信条」(市場均衡、市場効率性、合理的期待、セイ法則、完全雇用など)から自由にならない限り、現実経済の動きを見極めることができず、もちろん外国為替相場の動きの背後にあるものを理解できないからです。現実には、貿易収支の不均衡があり、それに対応した資本収支の不均衡があり、非自発的雇用があり、社会慣習と諸個人の時に非合理ともいえる行動様式、市場と私的所有以外の諸制度が存在しています。
特に前回示したように、現実の国際経済が貿易取引の40倍以上の国際資本移動によって特徴づけられている(ということは、外国為替取引のほとんどは国際資本取引にともなうものとなっている)ときに、国際資本移動に言及しないような理論は欠陥理論であるに違いないと想像できるでしょう。実際、新古典派の中にも定期的に資本フローの重要性に触れる良心的な研究者が現れます。しかし、そうした場合、彼らは無視されるか、辺境に追いやられるか、どちらかの扱いを受けます。かつて、米国の偉大な経済学者、J・K・ガルブレイスはそのような事実を揶揄して、現代の経済学者の住む村には真実ではないことを真実として扱う社会的風習があると指摘し、それを「制度的真実」と呼びました。
まずは、そのような風習から自由になることが肝要です。そのような自由な態度を持たない人には、為替相場の決定要因は決して理解できないはずです。何故ならば、そのような人は現実に不均衡が生じているのに、均衡理論にもとづいて説明するという不可能事をなさなければならないからです。これに対して、自由になれる人にとっては、以下で行なう外国為替相場の決定要因の説明は受け入れ可能となるはずです。ただし、サルにも分かるほど易しいとはいいません。小学生でも無理かもしれません。
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