2013年10月4日金曜日

シュルツェ・ゲーヴァニッツ 帝国主義と自由貿易 その2


 シュルツェ・ゲーヴァニッツは、ここでアイルランドとイングランドの精神史に、特に宗教改革の遂行の歴史的意義について述べます。
 宗教改革については、マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の「精神」」があり、その内容は、理解の濃淡の相違はあれ、よく知られていると思います。しかし、シュルツェ・ゲーヴァニッツは、マックス・ヴェーバーの言及していない多くの事柄に触れており、きわめて興味深いものがあります。


 (シュルツェ・ゲーヴァニッツの続き)
 否定的な側面は、中世の諸個人が担い、支え、保護していた伝統と社会的結びつきの衰退、個人の精神的、国家的な解放を意味している。この運動の始まりは時間的にははるかに古く、場所的にはイタリアにさかのぼる。すでにダンテは、人間に理性があることを告げている。「汝はこれからは汝自身の司祭(精神的主人)であり、汝の侯(世俗生活における主人)である。」しかし、この目的がはじめてより広範な、経済的に指導的な国民階層についてのものとなったのは、オランドとイングランドの土壌においてであり、国民全体に到達したのはイングランドにおいてであった。
 他のすべての事の基礎となったのは、言葉の最も広い意味での伝統主義の粉砕であった。そんなに長い間、僧侶と教会が人間を宗教的な未成年扱いしており、そんなに長い間、彼は経済的な事柄において習慣と権威に選ぶことなく喜んで従っていた。そんなに長い間、近代のself made manは子供の学校にこっそり隠れていた。人間に経済的自助と自己責任を呼び起こし、「資本主義的精神」が高揚する土壌を準備するためには、過去との徹底した決別、一つの大きな精神的な打撃が遂行されなければならなかった。ヨーロッパ大陸はイングランド人を「商人根性の国民」として扱うとき、軽蔑だけでなく、同時に紳士をたらしこみ、しゃぶりつくす資本の秘密に満ちた力に対する恐怖を感じたのである。 
 しかし、この優越についての説明として「個人の解放」、「資本主義的精神」等のような言葉で安心するだけでは十分ではない。資本主義的精神自体は、きわめて複雑な精神史的な発展時代の所産である。教会改革との関連について、マックス・ヴェーバーは、最近、輝く強烈な光を投げかけた。(教会の)祭壇神聖視的伝統と権威は、カルヴィニストが全人間仲間から離れ、神だけに対峙するあの孤高の高みの下に深く横たわっている。説教からも秘跡からも救いを期待しない人、独自の解答を求めて聖書を解釈する人、人間に頼らず友情をさえ被造物神化として疑う人は、経済的自己規定の入口に立つ。疑いなく、そのような「異端者の資本家」は、すでにペティが示したように、資本主義発展の重要な経過点である。これは、ロシアについては、今日古信仰派(正教会から分離した宗派)とストゥンディスト(時間派と呼ばれた宗派)の間で繰り返されている現象である。だが、後には資本主義的精神は宗教的な支えをもはや必要でなくなり、純粋に此岸の土壌に自分の家を建てた最近の金融家で完成する。それは、宗教改革時代人の宗教的な寄せて砕ける波が引いた後では、沈殿物として余計なものとなっているあの本質的に否定的な世界観の土台で満足している。
 そのような「近代的な貨幣人」に対して、やっかいな世界観の問題を出してみよう。彼はそこから喜んで「実践的な」質問に移ってゆく。われわれが彼に見いだすわずかな、ステレオタイプの一片の制度は、総じて「イングランド製」(made in England)であり、しかも18世紀型のそれである。われわれはそれを次の文章をもって、三つの方向で簡潔に記述することができる。
 a. 長い間、人間は此岸について、価値ある彼岸に至る短くて、どうでもよい遍歴の旅と捉えており、長い間、彼の此岸における実在を整えることは、ホテルの部屋での退屈が家に向って急ぐ客にとってどうでもよいように、どうでもよかった。高みを目指す精神は修道院の現世逃避に入った。今でも、古風なアイルランド人、ロシアの農民、総じて多くの所で生活している中世的な人間はそのように考え、行動する。資本主義的精神は、実在の此岸化を求める。マックス・ヴェーバーは、ピューリタンにとって彼岸は確かに目的として存立しているが、此岸が選ばれた者と神の主人化の守護の領域としてどのように意義を得たかを示している。しかし、後になって彼岸は色あせた。それとともに子供と動物のナイーブな形而上学がふたたび打ち立てられ、それは啓蒙によってただ理論的な形にまとめられた。現実的なものは外的な、われわれから独立した物であり、それは経験によって模写される。その際、人間に固有な活動は重要ではないと考えられ、ますます背後に退く。つまり経験主義である。このような彼岸の廃止のための範式を見つけることがイングランドの哲学の課題であった。「反省」は「感覚」と組み合わされて、最終的に放棄される。
 実践的な関連では、発展は倫理を神学と形而上学から分離することに、エゴイズムの運動根拠に対する共感的なものを無視することに行き着いた。それとともにあの、近代の貨幣人を包摂する実践的な唯物論が発生した。イングランドの倫理哲学の発展全体が、ヘンゼルの強調するように、一目散にこの方向に向かい、それはベンタムにおいて頂点に達する。
 ベンタムではないとしても、何千人もの頭脳にあるベンタムの精神が、「地質学者の捉えられた水が地殻を粉砕するように、旧世界を粉砕した」。ベンタムにあっては、ほんのちょっと前のイングランド急進主義者と異なって、宗教的な前時代の記憶は完全に失われている。その倫理は純粋に此岸的である。善意の欲求は、エゴイズムの計算に還元されている。「最大多数の幸福」は、そうすれば個人の啓発されたエゴイズムにとって有用として現れるという理由づけだけで、追求される。統治者にあっては、通常、個々の利益が統治されるものの利益と乖離しているので、国家権力の所有者を最大多数の幸福に結びつけるためには人為的な統制手段が必要である。ベンタムの偉大さは、彼の首尾一貫した、しばしば学術的な一面性にある。それより好意を持てるが成果に乏しいのは、「すべての参加者の幸福」を倫理的な基準とし、功利主義から個人の幸福の犠牲者を蒸留しようとしたジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)である。
 求められる快感は、粗雑にも感覚的に捉えられ、それで事実上の一般的有効性という利益がもたらされる。食事、飲み、性交。洗練されたもの、おそらく希少な性質のものには「より高い」効用が考えられよう。美術的に形成された環境、芸術的な生活がスローガンとなり、その背後には単純な功利主義が隠れている。芸術(かつて高貴な世界の娘だった)は、贅沢の侍女となり、近侍、maitressen, 競馬、および多くの人の尊敬する「社会的地位」と同列に低下する。粗悪なものと素敵なものを慎重に混合する両種の快感を理解する者は最も確実にすすむ。ベンタムに従ってすべての快感を同等なものと見ることは最も首尾一貫している。ベンタムの考えでは、何か高貴なもののために音楽と詩歌を、事情によってはあれより多くの効用を準備することができるボーリングとして説明することは常套語句である。
 この教えの実施可能性は、生命の体系化を求めており、ピューリタンの自己管理はその前例を提供している。様々な効用と負の効用の感情は一様ではない。その量的な相違は、功利主義の求めているあの比較計量を妨げる。それを実践的に実施するためには、共通の名称が必要である。これを提供するのは、資本主義経済制度の土壌の上では、貨幣である。すべての効用は、名誉も愛も、貨幣で購入することができ、貨幣で交換可能である。「貨幣は、総じて個々の目的に特別の関係を持たないので、目的の総合のためにそのようなものを獲得する。」貨幣は決して目的とはならない。貨幣の中では、人間の目的設定のすべての量的相違が量的に失われているように見えるので、人間の生命の数学的な利得と損失計算を行うことが可能であり、複式簿記がそれを指導する。この土壌の上で、(苦悩と感情を気にせずに)人間と事物を純粋に理性的に、有効な簿記の目的に沿って取り扱う、あの型の人間が完成する。この経済的な急進主義は、ジンメルが正当にも強調するように、倫理には無関心である。しかし、まさにこの故に、それには世界を根本から変えるのに必要な意思の衝動が欠けている。それは功利主義的世界観の実践的エゴイズムと結びついてはじめて経済的前時代を粉々に粉砕する破壊力を与えられる。
 この見解は、リカードウで頂点に到達する。リカードウにとって、有効な簿記はすべての人間存在の目的をなしている。アダム・スミスに対立して、彼は、「純所得」が個々人にとってだけでなく、どれだけの人間があの所得の産出に従事したかに関係なく、国民全体にとって決定的な利益であると説明する。

ハイエクは、そんなに偉大か? その2

 ハイエクの「経済学」(というより後で述べるように「思想」)は、決して難しくありません。むしろ、その発想は驚くほど簡単です。彼の著書としては『隷従への道』が有名ですが、それを含む彼の著作の主張は次の2点にまとめられます。もちろん、彼は様々なことを述べていますが、その他のことは概ねこの2つの主張の「系論」(colorary)です。
 1 自由な経済活動とは「自由市場」における活動である。
 2 それを超え、社会的なものを志向する活動は、必ず諸個人の社会全体への「隷従」をもたらす。

 1 われわれは日常的に経済活動をしています。例えば市場で食料品を買い、貨幣を支払います。その時、肉や魚の値段を見て、購入するか、別の商品を買うか、別の店に行くかなどの決断をします。そのような日常の市場における諸個人の経済活動、これはハイエクにあっては「自由な経済活動」、彼の推奨する人間の活動です。
 2 しかし、社会的なものを志向する活動は、性質が異なる、とハイエクは言います。一例だけあげましょう。例えば所得格差が拡大しているとします。この場合、もちろん、まず所得格差が拡大しているという社会全体の傾向に対する知識が前提となります。その前提にもとづいて妥当な政策が追求されることもあるでしょう。例えば第二次世界大戦後に普及したように、累進課税制度が議会で制定され、実施されたように、です。
 しかし、ハイエクは、それこそが「隷従」を導く、社会的なものを志向する行動であるといいます。彼の見解では、それは「設計主義」、つまりあらかじめ社会全体を特定の方向に導こうとする思想に帰着し、結局は社会全体における諸個人の隷従を導くことになるというわけです。もちろん、ソ連の計画経済などはもっての他であり、ひとたびそのようなものが出来上がると、元に(どこへ?)戻ることができなくなるということになります。

 ハイエクのいくつかの系論(持論)は、ここから出てきます。
 1 近代の思想家のうちロック(John Locke)は個人主義の土壌に立脚するがゆえに、正しく、擁護される「べき」であるが、ルッソー(Jean Jack Rousseau)は、社会的正義の思想を含むがゆえに間違っており、危険であり、避ける「べき」である。
 これは社会思想に価値評価(べき)を持ち込むものですが、実際に彼の社会思想史に関する研究を読めば、事実であることがわかるはずです。
 2 自由市場における諸個人の「自由な行動」は許されるが、それを超える社会的な志向をもつ行動は許されない。したがって、チリの有権者の行動は、それが「自由と権利」(民主主義)にもとづいた行動であっても許されず、民主的・社会主義的な志向を持つアジェンデ政権も許されない。これに反して、それを阻止しようとした自分の政治的行動は許される。

 いやはや、である。「隷従」(全体主義)に至る道は、すべて阻止すべきである。たとえそれが人々の「自由と権利」(民主主義)を踏みにじり、人々を死に追いやることがあっても、だというわけですから。人の死は、個人的自由を守護するためには、何でもない!

 しかし、これこそ彼が自由主義という「隷従」の道に人々を追いやっている行為に他なりません。彼は言います。<私の言うことが正しい。言うことを聴かないと、ただではおかないぞ。>
 『アニマル・ファーム』(1984年)という小説があります。一人の社会的理想に燃えた人が理想的社会をつくろうとして結局は独裁国家を生むことになるというものであり、しばしばソ連社会主義を批判するものと解釈されています。しかし、それは実は、ハイエクにもあてはまります。市場自由主義という理想(ただし、彼は自由市場経済が様々な問題をもたらしていることを認めており、この点では確かに他の凡庸な新古典派経済学者と異なっていたかもしれません。しかし、そんなことは普通の学生でも理解できます)を守るためには、市場的・日常的知識しか許さず、それ以外の行動は禁止する。これこそ、市場自由主義版のアニマル・ファームに他なりません。
 
 社会的志向を持つ行動が「隷従」をもたらすという思想自体が誤りであり、したがってハイエクはしばしばケインズを批判しましたが、同時にケインズによってたしなまれたりしました。


ハイエクは、そんなに偉大か? その1

 昔、ハイエク(Hayek)という経済学者がいました。
 ときどき彼を論じる本が出版されたり、「ケインズとハイエク」というようにケインズと並び称する著書が書かれたりします。
 しかし、彼はそんなに偉大な経済学者なのでしょうか? 私には決してそのように思われません。
 まず経済学者としての評価の前に、人間としての評価をしましょう。何故ならば、経済学は「モラル・サイエンス」であり、何よりも人間の物質的生活にとどまらず、精神的な生活に直接・間接にかかわる学問であるからです。
 1970年代にチリで民主的に成立したアジェンダ政権が軍事クーデターによって倒されるという事件があったことをご存知でしょうか? 今日では、その背後に米国CIAの策略があったことがよく知られています。よく「陰謀史観」の人が根拠なしに憶測で「陰謀」で歴史が作られたことを主張する場合がありますが、それと異なって数多くの史料がそれを明白に明らかにしています。クーデターのあと、多くの人々が米国の支援を受けたピノチェ政権によって迫害されたこともよく知られています。何万人もの人々が行方不明になりましたが、彼らの多くは様々な方法で、例えば飛行機から突き落とすというような方法で殺されました。
 民主主義、自由と権利を標榜する国と人々がそのようなことを行ったのです。
 ところで、その時、ハイエクは、まさに軍事クーデターを支持し、ピノチェ政権を支援する活動をしていたのです。私は人間としげ決してハイエクを許すことはできませんし、したがって彼の経済学(らしきもの)を評価する気にもなれません。
 しかし、そのことは置いておき、彼の経済学なるものをも一瞥することにしましょう。
 (続く)

2013年10月3日木曜日

マルクス 1

 元IMFのエコノミスト、Nouriel Roubini がグローバル金融危機の勃発に際して、「マルクスは正しかった」と発言したことは、その道の人ならばよく知っているだろう。
 マルクスが資本主義経済の科学的分析の点で偉大な経済学者であったことは、言うまでもない。20世紀の最も偉大な経済学者がケインズとカレツキであったとするならば、資本主義的生産様式の包括的な制度分析を行った『資本論』(Das Kapital, 1868〜)の著者は、19世紀を代表する経済学者である。
 これに対して人は言うかもしれない。彼の構想した「共産主義」は失敗し、崩壊したではないか、と。しかし、その言説は正しくない。彼はソ連圏や中国で建設された計画経済や国家社会主義を推進者ではなかった。むしろ彼はそれの批判者であった。そのことは、彼の影響下にあったSPD(ドイツ社会民主党)の綱領的文書を読むことでもすぐに理解できる。計画経済(国家社会主義)体制は、資本主義経済よりも労働者にとって抑圧的であるがゆえに彼らの目標ではないことが明示されている。計画経済がマルクスの思想でるかのように宣伝したのは、ソ連・中国の政治的指導者であり、したがってソ連・中国の共産主義の失敗をマルクスの失敗だと単純に考えている人は、知らずに、ソ連・中国の宣伝を受け入れていることになる。
 それでは、マルクス本来の思想とは何であったか? 彼は資本家のもとに従属している労働者がより多くの自由を得ることを考えており、その方法とは協同組合的な経済社会、労働者が同時に所有者・経営者でもあるような自主管理的な社会であった。
 もちろん、そのような自主管理的社会、協同組合的社会はこれまで実現されてこなかった。むしろ多くの人々は、資本主義を完全に廃止するのではなく、現存する資本主義経済を間的なものに改善する方向をめざすことに同意してきたからである。西欧諸国における社会民主主義、福祉国家とはそのようなものである。
 ここで注意しなければならないことは、資本主義、特に19世紀〜20世紀初頭に存在していたような粗野な自由資本主義もまた20世紀に失敗・崩壊したことである。(1930年以降の世界恐慌を思い出そう。)
 ところが、20世紀末の国家社会主義の崩壊時に、資本主義が勝利したという誇大宣伝が様々な場でなされ、それと同時に、社会民主主義や福祉国家を否定し、19世紀の粗野な資本主義、つまり「自由市場」の純粋資本主義に戻るのが正しいかの言説が横行した。また実際にもそうした志向を持つ「改革」が行われた。いわゆる「民営化」「小さい政府」「規制緩和」「民間活力」などのキャッチコピーに示される構造改革、マネタリズム政策がそれである。
 しかし、そのような動きはふたたび悪夢を再現しはじめた。2006年〜2008年の金融危機、大不況、ヨーロッパ債務危機などは決して偶然に生じたのではない。
 マルクスは偉大であった。もちろん、われわれは原理主義者・教条主義者になる必要はない。ケインズが偉大であっても、カレツキの経済学の方により合理的な核心があることがあるように、マルクスも絶対視する必要はない。実際、フランスのレギュラシオン理論は、マルクス、ケインズ、カレツキ、制度派の理論の最良の部分を接合し、資本主義経済の実相を明らかにする点で成功をおさめている。
 結論しよう。マルクスは資本主義経済分析において当時の経済学者をはるかに超える偉大な貢献をした。資本主義経済が本来的に持っている問題性は、現代でも未解決であり、それゆえマルクスは今でも意義を失っていない。とりわけ彼が、巨大な多国籍企業の自由や利害などではなく、むしろそれに押しつぶされそうになる多くの人々の自由(個人的自由と権利)を考えていたことは、忘れてはならない。
 われわれにとって重要なのは、「常識」として繰り返される政治的プロパガンダ(宣伝)ではなく、真実、学問的真実である。

2013年10月2日水曜日

世界経済史Ⅱ 第1回

 今日の講義の要点

1 履修上の注意(略)
2 年代・時期区分
   第一次世界大戦(1914〜1919年)
   両大戦間期(1919〜1939年)
   第二次世界大戦(1939〜1945年)
   戦後
    戦後復興期(1945〜1950年代前半)
    資本主義の黄金時代(1950年代中葉〜1973年)
    黄金時代の黄昏(1973〜1979年)
    変調=ネオリベラル政策の台頭(1979年〜 )
3 講義の焦点
   ・「所得分配と雇用」を中心的主題として、それに関係する事柄を説明する。
   ・コンドラチェフ=シュンペーターの長期波動説は採用しない。
   ・しかし、ある傾向が一定期間にわたって持続することがある。
    その歴史的事情・要因を検討する。
   ・両大戦間期=「危機の20年間」
     ドイツに対する賠償金問題、超インフレ、ナチズム
     1929年の金融危機
     1930年代の世界恐慌
     SPDの対応、ナチスによる政権掌握と軍備拡張政策
   ・第二次世界大戦 戦時体制の経済社会への影響
   ・戦後の復興 国際経済秩序、国内経済秩序の形成
     混合経済、福祉国家、フォーディズム、完全雇用の政策目標
   ・黄金時代・黄昏・ネオリベラル政策
4 若干の理論ツール
   ポスト・ケインズ派、レギュラシオン理論、SSA、制度派の理論の有効性
   ・Y=W+R         所得分配
   ・Y=C+I+G+(XーM)  有効需要
   ・Y*=σK           生産能力(E・ドーマー)
   ・U=Y/Y*         稼働率(生産能力の利用率)
   ・N=Y/ρ         雇用(労働需要、単純化した現実的モデル)
   ・規模に関する収穫逓増   
   ・合成の誤謬(ミクロとマクロの接点)

 雇用(労働需要)
  新古典派の労働市場論は、マーシャリアン・クロス(右下がりの労働需要、右上がりの労働供給)を理論的に前提している。しかし、この二つの公準は、ケインズ(『一般理論』、1936年)、ダグラス大佐(『賃金理論』1936年)、スラッファ、ドッブ(『賃金論』)、ロビンソン(『ケインズ雇用理論』)などによって批判されつくしており、成立しない。
 これに代わるケインズ=ロビンソン型の雇用理論は、若干簡素化すると、N=Y/ρ で示される。すなわち、労働需要(雇用量)は、生産量(額)に比例し、労働生産性に反比例する。例えば1000単位の製品を生産する場合、一人の労働者が1日に標準的に10単位を生産することができるならば(労働生産性=10単位/人・日)、100人の労働力が必要になる。(現実には、一部分、必要労働力の非比例的部分がある。)
 ところで、生産量は、有効需要によって決まる。また労働生産性は、様々な要因(教育、技能・熟練、労働手段の性質など)によって決まるが、最も簡単なモデルでは、ドーマーが明らかにしたように、労働者一人あたりの標準的な固定資本ストック(K/L)に比例する。したがって労働力の要因を捨象すると、純投資(粗投資マイナス減価償却費)が行われている限り、労働生産性(ρ)は上昇すると考えることができる。通常の経済では、例えば景気後退のときでも純投資が行われている限り、労働生産性は上昇するので、生産額が減少しなくても、雇用量(労働需要)は低下することになる。
 これは、新古典派の労働市場論に代わり、現実をよく説明する理論である。この理論によれば、物価一定の下で、実質賃金率を引き下げるために貨幣賃金を多くの企業が引き下げると、社会全体の貨幣所得が減少し、総消費需要が低下するという結果が導かれるため、企業も投資を縮小し、総需要=総生産が縮小し、その結果、雇用はむしろ縮小する(もちろん失業者は増加する)ことになる。
 

地球温暖化? 似非科学と宣伝を超えて

 個人的な経験から話をします。
 昔、私がまだ子供だった頃、つまり保育園や小中学校に通っていただった頃の話です。西暦では1950年代〜60年代です。私の育った田舎(現在の新潟県糸魚川市)では、真冬になると沢山雪が降りました。一月、二月には晴れ間がなく毎日のように大雪が降り、子供心に「毎日雪が降り続け、降りやまなかったらどうなるんだろうか」と不安になったことを覚えています。あまりに雪が多くて、二階から出入りしなければならなくなるほどの大雪だった年もあります。
 ところが、大学に進学し、田舎を離れた頃から、つまり1970年代以降ですが、かつてのように雪が降らなくなり、年によっては雪が少し降ってもすぐに消えてしまい、「根雪」にならないことさえありました。「暖冬」という言葉が聴かれるようになったのはこの頃です。
 これはまさに「地球温暖化」を実感させる出来事だったと言えるでしょう。人間が経済発展とともに大量に放出しはじめた二酸化炭素が「地球温暖化」(global warming)をもたらしているという言説を実感的に納得させる経験だったと言ってもよいかもしれません。
 
 ところが、1990年代に入ったある年に、私の祖父が20歳の頃から70数歳までの間に書き残し、納屋に放置してあった日記(70年分)や書き物を日干ししながら、整理し、その中身を拾い読みすることがありました。その中には、東京、横須賀の他に、1920年に私の出身地に移転したあとは、そこ生じた災害(洪水、地震、火事)や、様々な出来事を記したものがありましたが、私の注意を引いたのは、暖冬化の記録です。例として昭和七年(1932年)の冬における降雪の記事の一部分をあげておきます。

 1月1日 地上雪ナシ無類ノ好天気 我軍錦州入城 ラジオ放送
 1月24日 地上雪ナク春ノ如ク日中室内温度華氏40度
  2月   4日 近隣ノ梅咲ケリ 蕗ノ玉モ出デタリ
      (以下略)

 1932年は、いわゆる満州事変の年です。
 言うまでもなく、私が1950年代や1960年代に一度も経験したことのない暖冬の記事です。<この頃にも暖冬があったのか。しかし、それは新潟県だけだったのだろうか、世界的にも温暖化があったのではないだろうか?> これは誰でもいだく疑問といってよいでしょう?
 私はしばらくして調べてみました。そして、1920年代から1930年代にかけての時期に「地球温暖化」があったことが間違いないことを発見しました。例えば北太平洋、北大西洋の海水温は、1920年頃から1930年代にかけて上昇していたことが知られており、日本海沿岸でも同様な傾向があったようです。(例えば http://www.climate4you.com/ ) 
 
 ところが、その後、1950年頃から1970年頃にかけて地球規模の寒冷化がありました。それはちょうど私の幼年時代に重なっています。根津順吉という人が『寒冷化する世界』という本を1974年に出版しています。
 
 この事はこの数十年の間だけでも気候の大きな上下変動があったことを示しています。もとより私は、ここに示した事だけで地球の気温変化について何か科学的に意味のあることを言おうとしているわけではありません。ただし、自分の狭い経験だけで、何かあることを盲信することの危険性を示しているということはできるでしょう。
 次のような言葉があります。
 「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ。」
 ともあれ、上のことは、私が「地球温暖化」という言説を盲信するのではなく、様々な見解とその根拠を調べようと思ったきっかけです。その頃、ある人(元名大教授ですが、ここでは名前を伏せておきます)から人間が化石燃料の燃焼によって放出した二酸化炭素が地球温暖化の犯人であることを科学の名前の下に明言することはほとんど不可能であること、地球はこれまでもまだ科学的に明確には解明できていない何らかの要因(太陽黒点や地球との位置関係の変化、地球大気など)によって変動を繰り返して来たこと、を教えられもしました。
 
 日本では、<地球温暖化二酸化炭素犯人説>を自明のこととして信じている人が多い(ほとんど?)のようにも見えます。アル・ゴア氏のノーベル平和賞を受ける理由になったにもかかわらず、きわめて問題の多い著書(『不都合な真実』)が影響しているのかもしれません。もちろん科学は相異なる見解の切瑳琢磨によって発展します。もしかすると、二酸化炭素説が政治的理由(つまり「権益」)から主張されている可能性もあるかもしれませんが、もしそうならば何をかいわんや、です。

貨幣数量説 再論

 ミルトン・フリードマンの率いるシカゴ学派の貨幣数量説が成立しないことは、このブログでもすでに取り上げている。
 しかし、まだ一点だけ論じていないことがあるので、それに触れておこう。

 MV=PT という方程式で、右辺は商品の生産額(価格×生産量)であり、左辺はその取引を可能とする貨幣的要因である。左辺は貨幣量×貨幣の流通速度を意味する。
 シカゴ学派は、左辺の中央銀行によって決定される外生的・独立的な貨幣的要因(特に貨幣量M)が右辺(特に価格P)に影響を与えると説き、その際、時間差(半年から2年ほどの間で変動する)を根拠にMの変動が原因であり、Pの変動が結果であると主張する。時間的に先行する要素が原因であり、後で生じる要素が結果であることは、否定できないというわけである。例えばある人(A)が別の人(B)をたたいたので、B が怒る場合、Aが最初に行った「たたく」という行動が原因であり、Bの「怒り」はその結果である、のと同じである、と。

 しかし、それは決して正しくない。事はそれほど簡単ではない。
 貨幣数量説の方程式を、フリードマンは左辺から右辺にむかって読む。あくまでMVが外生的、独立的な原因であり、PTが従属的な原因であるというわけである。これが間違いであることは、すでに説明しているが、ここでは時間的先行についてのみ触れておこう。
 まず結論を先に示せば、PTが独立的な原因であり、MVが結果であっても、MVが時間的に先行することはありうる。何故か? それは、経済においては、生産量(T)を増やすという行為に先行して、その意思決定と準備が行われるからである。上のA、Bのけんかの例と異なって、行為は瞬時に行われるわけではない。
 企業は生産量を増やすという決定をすると、生産拡大に先行してより多くの労働者を雇い、賃金を支払いはじめる。また原材料の購入等のために事前に運転資本を増やすことを余儀なくされる。もちろん、それはまだ生産量が増えていない段階で貨幣需要を拡大する。
 時間差が発生するもう一つの理由は、貨幣に対する(実物生産のための需要ではなく)金融的需要に求められるかもしれない。資本主義経済においては、金融資産の価格が上昇するときにキャピタル・ゲイン(つまり資産の売買差益)が生じることは常識である。それは貨幣需要を拡大する。ところが、キャピタル・ゲインの増加は、資産効果を通じて消費需要を、したがってまた投資需要を刺激する。その結果、生産量が増加する。この過程を全体としてみれば、貨幣需要が先行的に増加して、次に生産量が増加し、その結果、好況の中で物価水準が上昇しはじめることになる。
 このことは、MV=PT という方程式の別の限界をも示す。そもそもこの式は、すべての貨幣が商品取引のために使われ、金融資産取引に使われることを示していないのであるから。

 というわけで、MVが時間的に先行し、PTがある時間差を置いて生じるという「事実」は、MVがPTの原因であったり、MがPの原因であることを示すものではない。
 
 フリードマンとシュワーツの研究手法は、1970年代の石油危機時にはあてはまらないし、さらに皮肉なことに、マネタリズム(数量説)にもとづいて英米で行われた1979〜1982年の実験時にはなおさらあてはまらない。マネタリズムがすぐに信用を失墜し、投げ捨てられた所以である。