フランスの家族と相続に移る前に、もう少しロシアの事情について触れておきます。
前回、ロシアの均分相続を伴う共同体家族と土地割替を伴う村落共同体について触れましたが、実は後者は19世紀から現在にいたる歴史学のきわめて大きな主題でした。
土地共有制というのは、世界的に見て決して珍しいものではありません。例えば古代中国の「均田制」やそれに倣ったとされている古代日本の「班田収受の法」は、国家の土地(公地)を公民に分与し、それに対して王朝国家が労役や生産物を徴するという制度(マックス・ヴェーバーは「ライトゥルギー」と呼び、そのような国家をライトゥルギー国家と呼びました)でした。したがって労働能力を失った人からは土地は収公されます。現代に近いところでは、近世沖縄の土地割替慣行が知られていますし、インドネシアのデサ共同体(desa)や、オスマン・トルコ治下のエジプトの土地制度がそれに類似しています。
しかし、ともかくヨーロッパ人の常識から見て、このような土地制度は奇習でした。というのも、少なくもとヨーロッパの西半分(西欧)では、封建制の時代から土地(耕地)は農民の私有地(Hufe、virgate、mansusなど)だったからです。
ロシアの共産主義的土地制度は、一般的にはハクストハウゼン(August von Haxthausen)の『ロシア研究』(1848)によって知られてから、その起源が西欧における知的興味の対象となりました。ちなみに、ハクストハウゼンは、その「太古的(uralt)起源」について語りましたが、決して実証研究をしたわけではありません。すでに19世紀中頃には先駆的な研究書が現れますが、本格的な実証的歴史研究は19世紀末から始まったといってよいでしょう。研究は20世紀に入り密度を増し、ソ連時代にも続けられました。
その結果、現在までに多くのことがはっきりとしています。
まずどのように古くさかのぼっても16世紀以前には、土地割替を伴う土地共有制は存在しなかったことがわかっています。つまりそれは起源的にはきわめて新しいものです。
そのことは16世紀頃のロシアの農村事情を知れば、自ずと理解されます。
当時、ロシア(1917年以前の用語法では大ロシア)では、農民(村落住民、krest'iane)は、セロー(selo)と呼ばれる村落か、ジェレーヴニャ(derevnia)と呼ばれる小部落に居住していました。ここでは仮に前者を村、後者を部落と訳しておきますが、それらのほとんどは1世帯または2、3世帯からなる集落であり、多少とも大きな集落をイメージするのは誤っています。むしろ散居制に近い状態でした。
ところで、その頃の状態を示した史料には、「村と諸部落」(selo s dervniami)という表現が繰り返されていますが、もちろん、この表現は村落間に何らかの結びつきがあったことを示しています。端的に言うと、普通、村にはキリスト教(正教会)の教会があり、周辺の諸部落から日曜日に信徒(農民)たちが参集していました。つまり、村と諸部落というのは教区でした。
ロシアの多くの歴史家は、いくつかの史実を根拠にして、この「村と諸部落」が同時に広域的な行政団体であり、かつ土地共同体(郷、volost')を構成していたと考えています。ただし、土地割替が行われていたというわけではありません。むしろ、逆です。この点について、ソ連の多くの研究者は、帝政末期の歴史家、クーリッシャー(Iosif Kulisher)の研究(『ロシア経済史』)に従っているように思います。
そもそも16世紀の時点では、広大な領域内に多数の部落が存在していたとはいえ、土地に比して人口は圧倒的に少数でした。開墾されていない「自由な土地」(広大な森林)が広がっていました。このような状態のもとで、郷の領域内では部落、つまり農民世帯(またはその少数の集合)による土地の「自由占取」(freie Okkupation)が行われていたと考えられます。当時の史料に頻繁に出現する「鋤、鍬、鎌のゆくところ」(自由に占取できる)という表現がそのことを示します。またいったん開墾された土地がしばしば放棄されて荒廃地(pustosh)に変じていたという事情もそのことを支持します。
しかし、変化は徐々に、しかし確実に生じてきました。一つの顕著な変化は、郷内の人口と世帯数が16世紀から18世紀にかけて急速に増加したことです。すでに17世紀から18世紀に、村や部落がかなり多数の農家世帯を数えるほどに大規模化していたことが分かります。そして、それとともに注目されるのが、各郷内の部落間において土地紛争が発生しはじめていたことです。部落(農民世帯の近所)から始まった森林開墾(自由占取)の動きは次第に部落の周辺部に向かい、そこで部落と部落との土地をめぐる接触と紛争がはじまったと考えられます。このことは自由占取の時代が終わったことを意味していました。
あらためて言うまでもありませんが、新たに開墾する土地がなくなったとき、村落内の人口増加に対処するためには、すでに開墾した土地を住民間で再配分するしか方法はありません。そして、史料はまさにこの頃に土地割替が始まったことを明示しています。
1861年の農奴解放令では、こうして土地を共有し、ときおり割替を行う団体(村、部落またはそれらの連合体)は、「共同体」「村団」(obshchestvo、obshchina)の名称を与えられ、正式に「農民法」の一部として承認されるに至ります。
ただし、ここで注意しなければなりませんが、自由占取の時期が終われば、自動的に土地割替を伴う土地共有制度に移行するというわけではありません。実際、西欧の多くの地域では、11世紀〜13世紀の森林開墾の終了時にフーフェ制(形式的平等原則にもとづく私有制)に移行し、それにもとづく村と土地制度の再編成を行っています。しかも、こうした変化の波は、ロシアの西側、または西欧の東側に位置するポーランドやリトアニアでは16世紀〜17世紀に及んでいます。
一体、ロシアでは如何なる事情が土地割替を伴う土地共有制度をもたらしたのでしょうか? これはかなり難しい問題であり、簡単に答えのでる問題ではありません。少なくとも、次のような点を合わせ考えないとならないでしょう。
1 それまでの農民世帯・家族のありかた(農家の家族形態や相続戦略)
16世紀以前の状態はよく知られていませんが、少なくとも近代にはロシアは男子間の均分相続制度を伴う典型的な共同体家族の国になりました。
2 政治的条件(イワン雷帝からピョートル大帝にいたる政治史)
ロシアの専制国家化(家産官僚制国家の成立)と、ロシア国家・ツァーリ=皇帝の対農村租税政策などの作用が分析されなければならないでしょう。特に農民階層に重くのしかかった人頭税の作用が考慮されなければなりません。
また西欧の多くの国・地域と異なって、ロシアでは、16世紀以前の旧分領制時代の支配階層だった公とボヤールは、半ば強制的に半ば自発的に実施していた均分相続制の下で零細化し、没落しました。それに代わって16世紀以降に登場してきたのが、公とボヤールの家臣からツァーリの家産官僚に転じ、国家から秩録として一代限りで土地を与えられた宮廷貴族(ドヴォリャーニン)でした。彼らは少なくとも出発点においては、ツァーリ=皇帝の徴税請負人の役割を演じました。(その退廃的な姿は、ゴーゴリの小説『死せる魂』の中に見ることができます。)
3 ロシア正教の作用
(これについては、機会をみつけて論じます。)
最後に一言。
ロシアでは、以上に示したような土地制度の中で、各農家に対して概ね男性人口(納税人口)を基準として「平等に」耕地が配分されたため、また当然ながら土地配分時の各農家の男性人口が異なっていたために、農家に配分され・耕作される土地面積がバラバラになりました。土地台帳から見ると、農家の男性人口は零から10人を超えるものまで様々でした。
これは、一見して、どのような時点でも農民階層の両極への分解が生じているかのような外見を呈する理由になりました。
しかし、ロシアの経済学者(例えばA・チャヤーノフ)は、この点でも大きな仕事をしました。つまり、ある時点(例えば1900年)に大家族であり経営面積も広い農家が10年後(1910年)には家族分割(財産分割)によってより小さな経営に移行しており、逆に最初に小経営だった家族が後により大きな経営に移行するということが見られました。(この点でトゥーラ県の統計はきわめて貴重な統計的貢献を行いました。)
ともあれ、こうしてロシアでは1930年頃まで、共同体的土地所有と均分相続制度の下で農村人口・農業人口が急速に増加してゆく、という西欧諸国ではあまり見られなかったような事態を経験することになりました。しかも、ロシアの西側に隣接するほとんどの諸国が工業化と都市化を達成し、経済発展を遂げているときにです。
ある意味ではスターリンの経済政策をそれに終止符を打とうとするものであったということができます。
2014年2月28日金曜日
2014年2月27日木曜日
ヨーロッパの伝統的家族と相続 2 不平等相続・一子相続制の帰結
家族類型がどのような経済事情と関係していたかを深く知るためには、それを静態的にではなく動態的に考える必要があります。つまりライフ・サイクルや人口動態の中で家族の問題を考える必要があります。
まず出発点として人口が一定の場合を考えましょう。例えば合計特殊出生率が3〜4(つまり一人の成人女性が平均して出産する子供の数が3、4人)であり、そのうち2人が成人し結婚するような人口の長期的な定常状態を考えます。この場合、社会全体では、人口は長期的にほぼ一定となり、男女比もほぼ50対50になると考えることができます。もちろん、このような状態の下では、どのような相続規則であっても、子の世代は親の世代から同じ面積の土地(耕地)を受け継ぐことができます。
ただし、これは平均すればということであり、個別の場合には必ずしもそうはいきません。特に平等な相続の場合はそうです。しかし、不平等相続・一子相続の場合は、着実に土地を次の世代に引き渡すことができます。例えば複数の男子を持つ親は一人に全財産を譲り渡すことできます(ただし、その他の兄弟は相続を断念しなければなりません)また子供のいない親は養子(または養女)をもらい、それに配偶者を迎えさせることになります。また娘だけの親は他の家族から婿養子を迎えることになります。これらのいずれの場合も、土地=経営は分割されずに次の世代(養子、婿養子など)に伝えられることになります。
これに対して平等相続の場合は少々やっかいです。われわれの想定している平均的に2人の子供という前提のもとでさえ、個々の家族にとって子供の数が多いことは土地=経営の細分化という危険性を意味します。その際、財産の相続に参加できるのが男子だけなのか、それとも女子を含むのかによって個別農家にとっての結果は異なってきます。
次に、人口が増加しているような社会(16世紀以降、西欧はそのような地域になりました)を考えます。西欧でもこの時期には森林開墾の時代はすでに終わっており、新しい耕地を開墾することはほぼできなくなっていました。教会は聖職者の独身主義(celibacy)のために絶えず外部から聖職者が供給されることを必要としていましたが、それにも限度があります。また工業が人口増加を吸収できるほどにはまだ工業化は進展していませんでした。
このような条件の下では、次の2つのケースしか考えることはできません。
1 不平等相続または一子相続制の場合
兄弟のうち一人(長男など)が親からの財産相続を通じて農業者となるが、その他の成員は何らかの種類の農村下層民に転落する。
2 平等相続の場合
兄弟(姉妹)は親から平等に財産を相続するが、それに応じて相続する土地面積を減らしてゆく。(ただし、土地市場が成立している場合には、人は土地を購入するか、借地することによって経営面積を拡大することができることは言うまでもありません。)
問題は、こうした事が実際に生じていたかにあります。
ここで1に関連してすぐに思い出されるのは、近代のイングランドやドイツなどを始めとする多くの地域で、農業者(英:farmers、独:Bauern)と並んで奉公人(英:servants, 独:Knechte, Magte)や小屋住み(英:cottagers、独:Hausler)などと呼ばれる農村内の階層が生まれていた事実です。その数は決して少数とは言えず、かなり多数に達していました。多くの場合、奉公人は富裕な農民の屋敷に住み、様々な労働に従事していました。また小屋住みは、共同地(農家の私有地となっていない総有地)の中に狭い土地(屋敷地)を分け与えられ「小屋」を建てて住んでいた階層を意味しています。
これらの階層はどのようにして生じたのでしょうか?
かつては、これらの農村下層階層は近代になってから農民層分解によって現れたと考えられていました。つまり近代のある時点で、自由な土地(売買・借地)市場が成立すると、中間的な農民たちの中から、一方には土地を集積する少数の富裕な農民たちが現れ、他方には土地を失ってゆく貧しい農民たちが現れるというわけです。これは何らかの史料にもとづいて実証的に明らかにされたというわけではありません。その証拠に、昔私は西洋経済史を学んだとき、そのような学説は知りましたが、それを示すような史料を教えられたことはありませんでした。
しかし、近年の家族史、特に個人レベルのライフ・サイクルまで追跡した実証研究によって、イングランドでもドイツでもバルト地域でも、これらの階層(奉公人や小屋住み)が最初農民の子女から現れて来たことは否定しえなくなりました。もちろん、19世紀になってもこの階層には農民の子女からリクルートされた人々が付け加わり、膨れ上がりつつありました。当時の農村の内部事情を直接に観察した人々は、このことを当然のこととして取り扱い、それに疑問を持ちませんでした。ちなみに、これらの人々は、農村にあって富裕な農民たちのために働き生活の資を得るか、農村工業(近年「プロト工業」と呼ばれるもの)に従事して給金を得るような階層でした。それはいわば農村過剰人口の現実的な存在形態でした。
ところが、19世紀にイングランドでもドイツでもバルト地域でも急激な経済変化が生じます。いわゆる産業革命=工業化です。われわれにとって注目すべきことは、この激動のの中で農村下層民たちがあっというまに姿を消し、農村からは消えてしまったことです。その理由は明白です。例えばバルト地域や東部ドイツでは、これらの農業労働者たちが高賃金の都市・工業中心地に流出してしまい、農村部で「労働力不足」が生じ、農業労働者の賃金が高騰して困るといった農業経営者の嘆きの声がしばしば新聞等で報じられていました。
しかし、これは19世紀末のことです。20世紀に入ると、中世から近代・19世紀末までの歴史的事情はまったく忘れ去られてしまいました。
考えてみると、奇妙な歴史ではあります。
そもそも西欧中世の農村社会では形式主義ともいわれるほどの平等原理が支配していました。しかも、その形式的平等主義は、1フーフェ(=33エーカー)の土地面積をきちんと測量して同じ村の中の各農家に平等に配分するするほど徹底していました。また地味による差異をなくすために耕地(三圃制のため3つの圃場)を地味・その他の土地条件に応じてブロックに分け、各農家が各ブロックに1つの土地片(strip)を保有するような工夫さえ講じていました。ちなみに、各農家にひとたび配分された土地片は各農家の私有地となっており、近現代の耕地整理の時まで古い状態を残していました。
ところが、こうした形式的な平等主義のもとで、イエ(家族、世帯)の内部では経営的観点・経済的合理主義が作用し、兄弟間の不平等さえも許容されていたわけです。言い換えれば、企業者と労働者は「イエ」の内部を誕生の地としていたことになります。かつてM・ヴェーバーは、<形式は自由の産みの母である>といいましたが、このような精神的態度なくして近代の経済発展はなかったのかもしれません。
また偶然か、または何らかの偶然的ならざる結びつきがあったのか、議論の分かれるところですが、イングランドやドイツ、バルト地域はまた宗教改革(ルター派、カルバン派などプロテスタンティズム)の広まった地域でもあります。
しかし、不平等相続・一子相続制はヨーロッパのある地域に広まっていたとはいえ、ヨーロッパ全体がそれ一色に染まっていたわけではありません。前回述べたように、西欧に限っても、フランス北部・パリ盆池やイタリア、スペインなどでは平等主義的な相続制度が広まっていました。フランスはまたプロテスタンティズムではなく、カソリシズムの牙城でもありました。
そこで次にフランスの事情も含めた平等主義の経済的影響を検討することにします。
まず出発点として人口が一定の場合を考えましょう。例えば合計特殊出生率が3〜4(つまり一人の成人女性が平均して出産する子供の数が3、4人)であり、そのうち2人が成人し結婚するような人口の長期的な定常状態を考えます。この場合、社会全体では、人口は長期的にほぼ一定となり、男女比もほぼ50対50になると考えることができます。もちろん、このような状態の下では、どのような相続規則であっても、子の世代は親の世代から同じ面積の土地(耕地)を受け継ぐことができます。
ただし、これは平均すればということであり、個別の場合には必ずしもそうはいきません。特に平等な相続の場合はそうです。しかし、不平等相続・一子相続の場合は、着実に土地を次の世代に引き渡すことができます。例えば複数の男子を持つ親は一人に全財産を譲り渡すことできます(ただし、その他の兄弟は相続を断念しなければなりません)また子供のいない親は養子(または養女)をもらい、それに配偶者を迎えさせることになります。また娘だけの親は他の家族から婿養子を迎えることになります。これらのいずれの場合も、土地=経営は分割されずに次の世代(養子、婿養子など)に伝えられることになります。
これに対して平等相続の場合は少々やっかいです。われわれの想定している平均的に2人の子供という前提のもとでさえ、個々の家族にとって子供の数が多いことは土地=経営の細分化という危険性を意味します。その際、財産の相続に参加できるのが男子だけなのか、それとも女子を含むのかによって個別農家にとっての結果は異なってきます。
次に、人口が増加しているような社会(16世紀以降、西欧はそのような地域になりました)を考えます。西欧でもこの時期には森林開墾の時代はすでに終わっており、新しい耕地を開墾することはほぼできなくなっていました。教会は聖職者の独身主義(celibacy)のために絶えず外部から聖職者が供給されることを必要としていましたが、それにも限度があります。また工業が人口増加を吸収できるほどにはまだ工業化は進展していませんでした。
このような条件の下では、次の2つのケースしか考えることはできません。
1 不平等相続または一子相続制の場合
兄弟のうち一人(長男など)が親からの財産相続を通じて農業者となるが、その他の成員は何らかの種類の農村下層民に転落する。
2 平等相続の場合
兄弟(姉妹)は親から平等に財産を相続するが、それに応じて相続する土地面積を減らしてゆく。(ただし、土地市場が成立している場合には、人は土地を購入するか、借地することによって経営面積を拡大することができることは言うまでもありません。)
問題は、こうした事が実際に生じていたかにあります。
ここで1に関連してすぐに思い出されるのは、近代のイングランドやドイツなどを始めとする多くの地域で、農業者(英:farmers、独:Bauern)と並んで奉公人(英:servants, 独:Knechte, Magte)や小屋住み(英:cottagers、独:Hausler)などと呼ばれる農村内の階層が生まれていた事実です。その数は決して少数とは言えず、かなり多数に達していました。多くの場合、奉公人は富裕な農民の屋敷に住み、様々な労働に従事していました。また小屋住みは、共同地(農家の私有地となっていない総有地)の中に狭い土地(屋敷地)を分け与えられ「小屋」を建てて住んでいた階層を意味しています。
これらの階層はどのようにして生じたのでしょうか?
かつては、これらの農村下層階層は近代になってから農民層分解によって現れたと考えられていました。つまり近代のある時点で、自由な土地(売買・借地)市場が成立すると、中間的な農民たちの中から、一方には土地を集積する少数の富裕な農民たちが現れ、他方には土地を失ってゆく貧しい農民たちが現れるというわけです。これは何らかの史料にもとづいて実証的に明らかにされたというわけではありません。その証拠に、昔私は西洋経済史を学んだとき、そのような学説は知りましたが、それを示すような史料を教えられたことはありませんでした。
しかし、近年の家族史、特に個人レベルのライフ・サイクルまで追跡した実証研究によって、イングランドでもドイツでもバルト地域でも、これらの階層(奉公人や小屋住み)が最初農民の子女から現れて来たことは否定しえなくなりました。もちろん、19世紀になってもこの階層には農民の子女からリクルートされた人々が付け加わり、膨れ上がりつつありました。当時の農村の内部事情を直接に観察した人々は、このことを当然のこととして取り扱い、それに疑問を持ちませんでした。ちなみに、これらの人々は、農村にあって富裕な農民たちのために働き生活の資を得るか、農村工業(近年「プロト工業」と呼ばれるもの)に従事して給金を得るような階層でした。それはいわば農村過剰人口の現実的な存在形態でした。
ところが、19世紀にイングランドでもドイツでもバルト地域でも急激な経済変化が生じます。いわゆる産業革命=工業化です。われわれにとって注目すべきことは、この激動のの中で農村下層民たちがあっというまに姿を消し、農村からは消えてしまったことです。その理由は明白です。例えばバルト地域や東部ドイツでは、これらの農業労働者たちが高賃金の都市・工業中心地に流出してしまい、農村部で「労働力不足」が生じ、農業労働者の賃金が高騰して困るといった農業経営者の嘆きの声がしばしば新聞等で報じられていました。
しかし、これは19世紀末のことです。20世紀に入ると、中世から近代・19世紀末までの歴史的事情はまったく忘れ去られてしまいました。
考えてみると、奇妙な歴史ではあります。
そもそも西欧中世の農村社会では形式主義ともいわれるほどの平等原理が支配していました。しかも、その形式的平等主義は、1フーフェ(=33エーカー)の土地面積をきちんと測量して同じ村の中の各農家に平等に配分するするほど徹底していました。また地味による差異をなくすために耕地(三圃制のため3つの圃場)を地味・その他の土地条件に応じてブロックに分け、各農家が各ブロックに1つの土地片(strip)を保有するような工夫さえ講じていました。ちなみに、各農家にひとたび配分された土地片は各農家の私有地となっており、近現代の耕地整理の時まで古い状態を残していました。
ところが、こうした形式的な平等主義のもとで、イエ(家族、世帯)の内部では経営的観点・経済的合理主義が作用し、兄弟間の不平等さえも許容されていたわけです。言い換えれば、企業者と労働者は「イエ」の内部を誕生の地としていたことになります。かつてM・ヴェーバーは、<形式は自由の産みの母である>といいましたが、このような精神的態度なくして近代の経済発展はなかったのかもしれません。
また偶然か、または何らかの偶然的ならざる結びつきがあったのか、議論の分かれるところですが、イングランドやドイツ、バルト地域はまた宗教改革(ルター派、カルバン派などプロテスタンティズム)の広まった地域でもあります。
しかし、不平等相続・一子相続制はヨーロッパのある地域に広まっていたとはいえ、ヨーロッパ全体がそれ一色に染まっていたわけではありません。前回述べたように、西欧に限っても、フランス北部・パリ盆池やイタリア、スペインなどでは平等主義的な相続制度が広まっていました。フランスはまたプロテスタンティズムではなく、カソリシズムの牙城でもありました。
そこで次にフランスの事情も含めた平等主義の経済的影響を検討することにします。
2014年2月26日水曜日
ヨーロッパの伝統的家族と相続 1 19世紀以前の状態
家族(家計、世帯)は、現代の経済学でも重要な経済主体として扱われています。
しかし、今日では主に企業が生産と流通の活動を担っているため、分析対象としての家族(=家計、世帯)の重みは低下しているように思われます。
とはいえ、家族は現在でも依然として消費の主体であり、また労働力を育て上げる上で決定的に重要な役割を演じています。
さらに時代をさかのぼると、家族は生産の主要な担い手であり、その理解なしに経済を論じることはできません。家族史研究は経済史研究のもっとも重要な部分であると言えます。
ところで、家族というと、多少の相違はあるとしてもどこでも似たりよったりと思われるかもしれません。夫婦がいて、その子供たちがいて、さらに場合によっては、夫婦の年老いた親(父や母、またはその両方)がいる、といったところでしょうか? また近代化・工業化・都市化とともに大家族が崩壊し、それとともに核家族が進行してきており、現在も進行中であるといったことも考えられます。
しかしながら、戦後の多くの国・地域で実証的な家族史研究が行われてきましたが、このような観念は間違いであることがわかってきました。
一言で言えば、家族のありかたは地域によって異なっており、またどんな地域でも大家族から小家族に移行してきたという図式も必ずしも正しくはないということが明らかにされてきました。
ここでは、さしあたりヨーロッパ(ウラル以西)の「伝統的家族」(19世紀以前の農村社会に存在した家族)に限定して見ておきましょう。
これまでの研究は、ヨーロッパだけで少なくとも4つの家族類型が存在していたことを明らかにしています。
この4類型を理解するためには、家族関係を次の基準から見ておくことが必要です。
1 親と子の関係 親と結婚した子供が同居するか否か?
これによって、まず単純家族(核家族)と(上下への)拡大家族が区別されます。
2 兄弟(姉妹)の関係 結婚した兄弟(姉妹)が同居するか?
単純家族(核家族)にあっては結婚した兄弟(姉妹)が同居することはありませんので、複合家族が2つの類型、つまり兄弟(姉妹)が同居しないパターンと兄弟(姉妹)が同居するパターンに分かれることになります。ここでは、E・トッド氏(『新ヨーロッパ大全』、『世界の多様性』など)にならって、前者を複合家族(トッド氏は、直系家族、権威主義家族とも言います)、後者を共同体家族と呼ぶことにします。
3 相続制度
親の財産をどのように相続するかという視点から見た場合、財産を兄弟(または姉妹)が平等に相続する(均分相続)か、それとも不平等に相続するかが問題になります。さらに後者は、大陸の一部やイングランドの多くの地域におけるように、親の遺言(will)、つまり意志が大きな役割を演じるか、それともドイツなどの地域のように長子相続(primogeniture)が制度化されているか、に区別されます。
こうした3つの基準からみて、ヨーロッパの家族は次の4類型に分類することができます。(すべての組み合わせがあるわけではありません。)
A 単純家族+不平等相続(親の意志にもとづく相続)
B 複合家族(直系家族、権威主義家族)+不平等相続(一子相続)
C 単純家族+平等相続
D 共同体家族+平等相続
トッド氏は、従来の研究を総合し、(さしあたり西ヨーロッパでは)この4類型が次のような地理的な分布を示していることを明らかにしました。
A ベルギー、オランダからイングランドにかけての地域
B スカンジナビア半島からドイツを通り、フランス南部(いわゆるオック・ロマン語=南フランス語の地域)からスペイン北部、ポルトガルにつながる地域
C フランスの北部(パリ盆地)、イタリア北部、スペイン南部など
D イタリア中部
なお、Dの平等相続制度を伴う共同体家族の類型の最も広まっていたのが東欧・ロシア(バルカン半島、旧ロシア帝国領)だったことは、様々な研究によって示されています。ただし、同じロシア帝国領でも、バルト海沿岸のエストニアやリーフランド(サモギティア地域)ではドイツと同様なBの類型が広まっていました。しかし、東欧の事情についてはあとで触れることとします。
西欧の5カ国(イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン)における支配的な類型の分布を次に示しておきます。(A:青、B:緑、C:赤、D:橙。)なお、旧東ドイツは、モノグラフィー等から全体をBの類型の地域と推測し、濃い緑色で示しています。
E・トッド『新ヨーロッパ大全」藤原書店より作成。
ここに示したように西欧といっても多様であり、一つの国の内部にも異なった類型が存在していたことがわかります。
ちなみに、日本では2の類型(直系家族+不平等相続)が支配的であることはよく知られています。この家族形態では、親と結婚した子(普通は長子)が同居することは通常のことですが、結婚した兄弟が同居することはまずありません。また遺産相続は、多くの場合、一子相続であり、家督を受け継いだ長子(男の子がいない場合は、養子または婿養子)が相続人となりました(川島武宣『日本社会の家族的構成』)。したがって類型上、日本の家族はドイツの主要な家族類型と類似しているということになります。
さて、こうした家族類型の相違はいったいどのような経済的な意味を持っていたでしょうか?
特に気になるのは、相続上の相違です。この点では西欧はまったく異なる2つの地域に分かれていました。繰り返しになりますが、
まず不平等な相続の地域ですが、これはイギリスからドイツ、スカンジナビア半島にかけて広がっていました。
一方、平等な相続の地域ですが、これはフランス(北部パリ盆池)、スペイン(南部)、イタリア(全域)に広まっていました。この他に、東欧、つまり現在のポーランド、ウクライナ、ロシア、ベラルーシやバルカン半島には均分相続の慣行を持つ単純家族や共同体家族の地域が広がっていました。したがって、ウラル以西のヨーロッパ全体では、平等相続=均分相続の地域のほうがはるかに広かったということができます。
これらの2地帯ではまったく異なる経済事情が存在していました。
しかし、今日では主に企業が生産と流通の活動を担っているため、分析対象としての家族(=家計、世帯)の重みは低下しているように思われます。
とはいえ、家族は現在でも依然として消費の主体であり、また労働力を育て上げる上で決定的に重要な役割を演じています。
さらに時代をさかのぼると、家族は生産の主要な担い手であり、その理解なしに経済を論じることはできません。家族史研究は経済史研究のもっとも重要な部分であると言えます。
ところで、家族というと、多少の相違はあるとしてもどこでも似たりよったりと思われるかもしれません。夫婦がいて、その子供たちがいて、さらに場合によっては、夫婦の年老いた親(父や母、またはその両方)がいる、といったところでしょうか? また近代化・工業化・都市化とともに大家族が崩壊し、それとともに核家族が進行してきており、現在も進行中であるといったことも考えられます。
しかしながら、戦後の多くの国・地域で実証的な家族史研究が行われてきましたが、このような観念は間違いであることがわかってきました。
一言で言えば、家族のありかたは地域によって異なっており、またどんな地域でも大家族から小家族に移行してきたという図式も必ずしも正しくはないということが明らかにされてきました。
ここでは、さしあたりヨーロッパ(ウラル以西)の「伝統的家族」(19世紀以前の農村社会に存在した家族)に限定して見ておきましょう。
これまでの研究は、ヨーロッパだけで少なくとも4つの家族類型が存在していたことを明らかにしています。
この4類型を理解するためには、家族関係を次の基準から見ておくことが必要です。
1 親と子の関係 親と結婚した子供が同居するか否か?
これによって、まず単純家族(核家族)と(上下への)拡大家族が区別されます。
2 兄弟(姉妹)の関係 結婚した兄弟(姉妹)が同居するか?
単純家族(核家族)にあっては結婚した兄弟(姉妹)が同居することはありませんので、複合家族が2つの類型、つまり兄弟(姉妹)が同居しないパターンと兄弟(姉妹)が同居するパターンに分かれることになります。ここでは、E・トッド氏(『新ヨーロッパ大全』、『世界の多様性』など)にならって、前者を複合家族(トッド氏は、直系家族、権威主義家族とも言います)、後者を共同体家族と呼ぶことにします。
3 相続制度
親の財産をどのように相続するかという視点から見た場合、財産を兄弟(または姉妹)が平等に相続する(均分相続)か、それとも不平等に相続するかが問題になります。さらに後者は、大陸の一部やイングランドの多くの地域におけるように、親の遺言(will)、つまり意志が大きな役割を演じるか、それともドイツなどの地域のように長子相続(primogeniture)が制度化されているか、に区別されます。
こうした3つの基準からみて、ヨーロッパの家族は次の4類型に分類することができます。(すべての組み合わせがあるわけではありません。)
A 単純家族+不平等相続(親の意志にもとづく相続)
B 複合家族(直系家族、権威主義家族)+不平等相続(一子相続)
C 単純家族+平等相続
D 共同体家族+平等相続
トッド氏は、従来の研究を総合し、(さしあたり西ヨーロッパでは)この4類型が次のような地理的な分布を示していることを明らかにしました。
A ベルギー、オランダからイングランドにかけての地域
B スカンジナビア半島からドイツを通り、フランス南部(いわゆるオック・ロマン語=南フランス語の地域)からスペイン北部、ポルトガルにつながる地域
C フランスの北部(パリ盆地)、イタリア北部、スペイン南部など
D イタリア中部
なお、Dの平等相続制度を伴う共同体家族の類型の最も広まっていたのが東欧・ロシア(バルカン半島、旧ロシア帝国領)だったことは、様々な研究によって示されています。ただし、同じロシア帝国領でも、バルト海沿岸のエストニアやリーフランド(サモギティア地域)ではドイツと同様なBの類型が広まっていました。しかし、東欧の事情についてはあとで触れることとします。
西欧の5カ国(イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン)における支配的な類型の分布を次に示しておきます。(A:青、B:緑、C:赤、D:橙。)なお、旧東ドイツは、モノグラフィー等から全体をBの類型の地域と推測し、濃い緑色で示しています。
E・トッド『新ヨーロッパ大全」藤原書店より作成。
ここに示したように西欧といっても多様であり、一つの国の内部にも異なった類型が存在していたことがわかります。
ちなみに、日本では2の類型(直系家族+不平等相続)が支配的であることはよく知られています。この家族形態では、親と結婚した子(普通は長子)が同居することは通常のことですが、結婚した兄弟が同居することはまずありません。また遺産相続は、多くの場合、一子相続であり、家督を受け継いだ長子(男の子がいない場合は、養子または婿養子)が相続人となりました(川島武宣『日本社会の家族的構成』)。したがって類型上、日本の家族はドイツの主要な家族類型と類似しているということになります。
さて、こうした家族類型の相違はいったいどのような経済的な意味を持っていたでしょうか?
特に気になるのは、相続上の相違です。この点では西欧はまったく異なる2つの地域に分かれていました。繰り返しになりますが、
まず不平等な相続の地域ですが、これはイギリスからドイツ、スカンジナビア半島にかけて広がっていました。
一方、平等な相続の地域ですが、これはフランス(北部パリ盆池)、スペイン(南部)、イタリア(全域)に広まっていました。この他に、東欧、つまり現在のポーランド、ウクライナ、ロシア、ベラルーシやバルカン半島には均分相続の慣行を持つ単純家族や共同体家族の地域が広がっていました。したがって、ウラル以西のヨーロッパ全体では、平等相続=均分相続の地域のほうがはるかに広かったということができます。
これらの2地帯ではまったく異なる経済事情が存在していました。
2014年2月25日火曜日
米国・労働統計局による「代替的失業率」の計算
米国では今年1月になってようやく失業率が6.6%にまで下がってきました。その要因として経済回復があることは否定できないでしょう。
しかし、もう一つ大きな要因として、求職意欲喪失者、および「周辺的に労働力に編入される他のすべての者」の存在があります。
つまり、求職活動をしていないか、かつてはしていたが、求職意欲を喪失した者が相当数いるため、見かけ上、失業率が低く見えているいるのです。そのことは下記の米国労働統計局のデータが示しています。通常の方式で算定した失業率(U-3)と求職意欲喪失者を加えた代替的失業率(12.7パーセント)を比べてみると、よくわかります。実にその差は6.1%にも達します。
米国の代替的な失業統計(Bureau of Labor Statistics)
注)「周辺的に労働力に編入される」とは、労働しておらず、求職していないが、過去1年間に求職活動をしたことがある者。
実は、日本でも従来から求職意欲喪失者がかなりの割合でいました。特に主婦のパート・アルバイトの中にです。しかし、彼女らは、失業しても景気が悪化している間は求職活動をしませんので、失業者のカテゴリーには含められませんでした。
そこで欧米人から見ると日本の失業率の変化には不思議な点が2つあるということになりました。
一つは低い失業率です。もう一つは、景気が悪化しても失業率が上昇しなかったことです。むしろ後者の方が外国人には不思議だったかも知れません。
しかし、実は不思議でも何でもありませんでした。ただ失業した人が求職活動を断念していたため、失業者とされなかっただけです。
このことを欧米人が知ると、次にどうして職を喪失した人が求職を断念するのかという質問が出てきます。
これに答えるのもそれほど難しくありません。彼女たちは家計補充的低賃金労働に甘んじていたので、職を失ってもそれほど切実ではなかったためです。
しかし、近年状況は変化してきました。われわれはきちんと現在の状況を認識し、公正な所得分配を実現しなければならないと思います。
しかし、もう一つ大きな要因として、求職意欲喪失者、および「周辺的に労働力に編入される他のすべての者」の存在があります。
つまり、求職活動をしていないか、かつてはしていたが、求職意欲を喪失した者が相当数いるため、見かけ上、失業率が低く見えているいるのです。そのことは下記の米国労働統計局のデータが示しています。通常の方式で算定した失業率(U-3)と求職意欲喪失者を加えた代替的失業率(12.7パーセント)を比べてみると、よくわかります。実にその差は6.1%にも達します。
米国の代替的な失業統計(Bureau of Labor Statistics)
注)「周辺的に労働力に編入される」とは、労働しておらず、求職していないが、過去1年間に求職活動をしたことがある者。
実は、日本でも従来から求職意欲喪失者がかなりの割合でいました。特に主婦のパート・アルバイトの中にです。しかし、彼女らは、失業しても景気が悪化している間は求職活動をしませんので、失業者のカテゴリーには含められませんでした。
そこで欧米人から見ると日本の失業率の変化には不思議な点が2つあるということになりました。
一つは低い失業率です。もう一つは、景気が悪化しても失業率が上昇しなかったことです。むしろ後者の方が外国人には不思議だったかも知れません。
しかし、実は不思議でも何でもありませんでした。ただ失業した人が求職活動を断念していたため、失業者とされなかっただけです。
このことを欧米人が知ると、次にどうして職を喪失した人が求職を断念するのかという質問が出てきます。
これに答えるのもそれほど難しくありません。彼女たちは家計補充的低賃金労働に甘んじていたので、職を失ってもそれほど切実ではなかったためです。
しかし、近年状況は変化してきました。われわれはきちんと現在の状況を認識し、公正な所得分配を実現しなければならないと思います。
失業とは何か? 需要不足・構造・摩擦? 1
われわれは、しばしば「失業率」とか、「完全失業率」という言葉に出会います。それは働く人に対する失業している人の割合を表す言葉であり、何の疑問もない言葉のような気がします。しかし、本当にそうでしょうか?
まず働く人とは何でしょうか?
働く人について考える場合、15歳以下で修学中の子供を除いてもよいでしょう。もちろん中にはテレビドラマの子役のように15歳以下でも働いている子はいますが、それは例外として考えないことにします。
15歳を超えても20歳台までは、多くの高校生・専門学校生・大学生がおり、彼らは働く人にカウントる場合(バイトなど)もあれば、働く人としてカウントされない場合もあります。
逆に65歳を超えた人の場合も、退職したのち働く気のない人も入れば、働きたいと思う人もいるでしょう。
さらに15歳〜65歳の人の場合、労働に対して様々な関係にある人を区別できあす。
第一に、その中には疾病・怪我・障害などのために労働したくても働けない人もいるでしょう。もちろん、障害をおっていても労働する人もいます。また疾病・怪我から回復した後に仕事に就きたいと考える人も出来てきます。
第二に、特に女性の場合に多いのですが、結婚・出産・育児をきっかけに(家事以外の)職業から退く人が少なくありません。
このように、15歳〜65歳の人々の中には、修学、疾病・怪我・障害、出産・育児(家事)など様々な理由によって、少なくもと統計上、働く人のカテゴリーに含められない人々がいます。
このあたりは統計上それほど問題ではないでしょう。
しかし、例えば次のような場合はどうでしょうか?
例1)高校・専門学校・大学を卒業し、就職活動もしたけれど企業・国・地方公共団体に採用されなかった。
例2)企業に雇われていたが、不況により解雇されてしまった。
この2つの場合は、さらにそれぞれ次の2つに分かれます。
①(再)就職するためにハローワークなどを使って就職活動をしている。
②(再)就職したいが、なかなかうまくゆかず、就職活動をあきらめた。
このように失業率を算定するためには、分母となる働く人を確定しなければなりませんが、その中にはどのような人が含まれているでしょうか?
現在の多くの国統計では、実際に働いているか、または失業者のいずれかに限られます。しかも失業者とは、職を持っていない(働いていない)が就職活動をしている人しか含みません。つまり、働く能力があっても何らかの形で就職活動をしていない人は失業者にはカウントされないことになります。
しかし、実際にはこのように就職活動を断念してしまった人(the discouraged)は実はかなり多いのではないでしょうか。もしそうだとすると、実質的な失業率は公表値よりかなり高いことになります。米国の次の漫画は、それを皮肉ったものです。しかも、欧米ではなく、特に日本では、これらの人々がかなり多いと推測される根拠があります。(後述します。)
労働者「求職を断念。」オバマ「(失業率を下げる)支援をありがとう。」
失業統計の問題は、実は、それだけではありません。
就業している人の中にも、実質的には失業している人がなりの割合います。日本の統計では、一週間のうち1時間でも就業した人は失業者の中に含められません。しかし、こうした短時間労働者は、総所得も低く実質的に失業者であることは疑いありません。
主流派の労働経済学では、例の図(労働需要曲線と労働供給曲線)で2曲線が交わったところで賃金と労働時間(雇う側も雇われる側も満足する賃金と労働時間!)が決まるという説明がなされますが、それは絵空事。学生バイトならともかく、例えば短時間・低賃金の非正規雇用で満足している人などそういないでしょう。
また同じ失業者でも、比較的短期間(失業保険の効く半年以内または1年以内)で再就職できる人もいれば(その時労働条件が以前と同じ程度であるという保障はありませんが)、1年以上たっても就職できない長期失業者もいます。
したがってわれわれが労働市場の本当の姿を確認するためには、単に失業統計を見るだけではまったく不十分です。一言で言えば、隠れた失業が存在するからです。
アメリカ合衆国の労働統計局は、この点では良心的であり、それらを明らかにしようとしています。
実は、失業をめぐる話はこれにつきません。われわれは、しばしば失業の要因として次の3つがあるという説明を受けることがあります。
例えば厚生労働省のサイトでは、失業には次の3種類があるとしています。
1 有効需要の不足によるもの
2 摩擦的失業
3 構造的失業
http://www.stat.go.jp/data/roudou/pdf/point11.pdf
このうち、1は説明するまでもなく、有効需要の不足による生産量の不足によるものです。われわれの社会では、労働需要は生産量に比例し、労働生産性に反比例しますから、これは十分なっとくにゆく説明です。
2。これは労働需要側と労働供給側のミスマッチによるものであると説明されます。例えばある企業(産業・地域)がある技能Kを持った人を求めるているのに、職を求める人は別の技能Lしかもっていない。あるいはある企業はH県にあるのに、職を求めている人はJ県で働きたいと思っている、等々。これは概念的には理解できますが、実際に統計的検証が出来るかどうか、かなり難しいでしょう。
3。失業率は景気変動に応じて上下すること、景気回復時に低下することはよく知られています。しかし、景気回復によっても失業率が必ずしも完全雇用水準にまで低下するわけではなく、一定の水準にあることがありえます。そこで、労働経済学者の中のある人々は、景気回復時の失業率水準(長期的・慢性的な失業率)を構造的失業と呼びました。
厚生労働者は、21世紀初頭の失業率5%のうち、実に3.9%(80%弱)がこの構造的失業であると言っています。
しかし、構造とは一体何を意味するのでしょうか?
この「構造」の意味を明かにしない限り、この説明は経済学を不可思議な形而上学的な領域にとどめおくことになります。もっとはっきりと言うと、「構造」という言葉を使って人々を騙すに過ぎません。
はっきりといいます。「構造的失業」とされているものも有効需要の不足(あるいは労働生産性の過剰)から生まれたものに過ぎません。
ここでは、2つの問題を提起しました。
1 失業率の公表値と実質的な失業率の差
2 構造的失業とは何か?
次に日米の統計からもう少し詳しく見ておきたいと思います。
まず働く人とは何でしょうか?
働く人について考える場合、15歳以下で修学中の子供を除いてもよいでしょう。もちろん中にはテレビドラマの子役のように15歳以下でも働いている子はいますが、それは例外として考えないことにします。
15歳を超えても20歳台までは、多くの高校生・専門学校生・大学生がおり、彼らは働く人にカウントる場合(バイトなど)もあれば、働く人としてカウントされない場合もあります。
逆に65歳を超えた人の場合も、退職したのち働く気のない人も入れば、働きたいと思う人もいるでしょう。
さらに15歳〜65歳の人の場合、労働に対して様々な関係にある人を区別できあす。
第一に、その中には疾病・怪我・障害などのために労働したくても働けない人もいるでしょう。もちろん、障害をおっていても労働する人もいます。また疾病・怪我から回復した後に仕事に就きたいと考える人も出来てきます。
第二に、特に女性の場合に多いのですが、結婚・出産・育児をきっかけに(家事以外の)職業から退く人が少なくありません。
このように、15歳〜65歳の人々の中には、修学、疾病・怪我・障害、出産・育児(家事)など様々な理由によって、少なくもと統計上、働く人のカテゴリーに含められない人々がいます。
このあたりは統計上それほど問題ではないでしょう。
しかし、例えば次のような場合はどうでしょうか?
例1)高校・専門学校・大学を卒業し、就職活動もしたけれど企業・国・地方公共団体に採用されなかった。
例2)企業に雇われていたが、不況により解雇されてしまった。
この2つの場合は、さらにそれぞれ次の2つに分かれます。
①(再)就職するためにハローワークなどを使って就職活動をしている。
②(再)就職したいが、なかなかうまくゆかず、就職活動をあきらめた。
このように失業率を算定するためには、分母となる働く人を確定しなければなりませんが、その中にはどのような人が含まれているでしょうか?
現在の多くの国統計では、実際に働いているか、または失業者のいずれかに限られます。しかも失業者とは、職を持っていない(働いていない)が就職活動をしている人しか含みません。つまり、働く能力があっても何らかの形で就職活動をしていない人は失業者にはカウントされないことになります。
しかし、実際にはこのように就職活動を断念してしまった人(the discouraged)は実はかなり多いのではないでしょうか。もしそうだとすると、実質的な失業率は公表値よりかなり高いことになります。米国の次の漫画は、それを皮肉ったものです。しかも、欧米ではなく、特に日本では、これらの人々がかなり多いと推測される根拠があります。(後述します。)
労働者「求職を断念。」オバマ「(失業率を下げる)支援をありがとう。」
失業統計の問題は、実は、それだけではありません。
就業している人の中にも、実質的には失業している人がなりの割合います。日本の統計では、一週間のうち1時間でも就業した人は失業者の中に含められません。しかし、こうした短時間労働者は、総所得も低く実質的に失業者であることは疑いありません。
主流派の労働経済学では、例の図(労働需要曲線と労働供給曲線)で2曲線が交わったところで賃金と労働時間(雇う側も雇われる側も満足する賃金と労働時間!)が決まるという説明がなされますが、それは絵空事。学生バイトならともかく、例えば短時間・低賃金の非正規雇用で満足している人などそういないでしょう。
また同じ失業者でも、比較的短期間(失業保険の効く半年以内または1年以内)で再就職できる人もいれば(その時労働条件が以前と同じ程度であるという保障はありませんが)、1年以上たっても就職できない長期失業者もいます。
したがってわれわれが労働市場の本当の姿を確認するためには、単に失業統計を見るだけではまったく不十分です。一言で言えば、隠れた失業が存在するからです。
アメリカ合衆国の労働統計局は、この点では良心的であり、それらを明らかにしようとしています。
実は、失業をめぐる話はこれにつきません。われわれは、しばしば失業の要因として次の3つがあるという説明を受けることがあります。
例えば厚生労働省のサイトでは、失業には次の3種類があるとしています。
1 有効需要の不足によるもの
2 摩擦的失業
3 構造的失業
http://www.stat.go.jp/data/roudou/pdf/point11.pdf
このうち、1は説明するまでもなく、有効需要の不足による生産量の不足によるものです。われわれの社会では、労働需要は生産量に比例し、労働生産性に反比例しますから、これは十分なっとくにゆく説明です。
2。これは労働需要側と労働供給側のミスマッチによるものであると説明されます。例えばある企業(産業・地域)がある技能Kを持った人を求めるているのに、職を求める人は別の技能Lしかもっていない。あるいはある企業はH県にあるのに、職を求めている人はJ県で働きたいと思っている、等々。これは概念的には理解できますが、実際に統計的検証が出来るかどうか、かなり難しいでしょう。
3。失業率は景気変動に応じて上下すること、景気回復時に低下することはよく知られています。しかし、景気回復によっても失業率が必ずしも完全雇用水準にまで低下するわけではなく、一定の水準にあることがありえます。そこで、労働経済学者の中のある人々は、景気回復時の失業率水準(長期的・慢性的な失業率)を構造的失業と呼びました。
厚生労働者は、21世紀初頭の失業率5%のうち、実に3.9%(80%弱)がこの構造的失業であると言っています。
しかし、構造とは一体何を意味するのでしょうか?
この「構造」の意味を明かにしない限り、この説明は経済学を不可思議な形而上学的な領域にとどめおくことになります。もっとはっきりと言うと、「構造」という言葉を使って人々を騙すに過ぎません。
はっきりといいます。「構造的失業」とされているものも有効需要の不足(あるいは労働生産性の過剰)から生まれたものに過ぎません。
ここでは、2つの問題を提起しました。
1 失業率の公表値と実質的な失業率の差
2 構造的失業とは何か?
次に日米の統計からもう少し詳しく見ておきたいと思います。
フランスの最低賃金 SMIC 1970年の SMIG 法
現行のフランスの最低賃金法は、1970年に旧法を改訂して制定されたもの(SMIG)をベースにしています。その最低賃金率は 、SMIC (Salaire Minimum Interprofessionnel de Croissance) と呼ばれています。
この最低賃金を定めた法律は、民間企業であれ、公企業であれ、(訓練中の徒弟以外の)18歳以上のすべての従業員に適用されます。最低賃金率は、インフレーション率および労働生産性を考慮して決定されることとされています。2010年からは前年のインフレ率および労働者の平均給与の上昇率の半分にもとづいて1月1日に自動的に上昇します。もし年度途中に2%を超えるインフレ率が生じたときには、自動的に引き上げられます。その他に政府は最低賃金を引き上げることを決定することも可能です。(E. Caroli and J. Gautie, Low Wage Work in France, Russell Sage Foundation, 2008 を参照。)
こうした制度のために、フランスでは最低賃金が国全体の平均給与(メディアン)の60%を超えるに至りました。通常の統計では、低賃金労働というのは、平均(メディアン)の50%以下ですから、一応、フランスの最低賃金水準はそれを超えていることになります。これは日本の最低賃金の水準が40%に達していないのとは大きく異なっています。
2011年の数字では、フランスの最低賃金率は9ユーロでしたから、現在の為替相場では1260円/時間ほどということになります。
さて、最低賃金の引き上げるというと必ずでてくるのは、それが失業の増加をもたらすという反論です。
たしかに企業家が賃金を引き上げたくないと思っているということなら、その通りでしょう。しかし、希望と現実は異なります。
むしろ近年、失業は「マーストリヒト条約」の要請するマネタリスト・デフレ政策とその後の金融危機によって景気が悪化し、有効需要=生産が低下した時にこそ増加しています。もちろん景気が悪化しても、投資と技術革新、労働強化によって労働生産性は上昇します。ですから労働需要は2つの要因で縮小し、失業者が増えるという結果になっています。
往々にして賃金の引き上げが失業をもたらすと主張する人は、何故か(もちろん理由は分かっています)マーストリヒト条約についても、金融資本主義のもたらす金融危機・景気後退についても言及しない傾きがあります。
その上、実際には、フランスの国内でも高賃金の地域・県で失業率(9%以下)がかなり低く、低賃金の地域・県で失業率がかなり高い(12%以上)という傾向があります。これなどどのように説明するのでしょか?
「何があろうとも高賃金は雇用を縮小させる。理論も研究もそのように言っている。」彼らは批判にはまともに答えずに、別の、批判される危険性のない人々に、こっそりと理論や実証結果がそうなっていると語るだけです。
OECDの『職の研究』(1994年)もそうでした。しかし、OECDの内部からも批判され、また多くの国の研究者によって理論的・実証的に批判されると、あれはOECDの公式見解ではなかった(2006年)と言い訳する始末です。労働条件の悪化をもたらしておいて、失業率を引き下げるという結果を実現することもない。困ったものです。
この最低賃金を定めた法律は、民間企業であれ、公企業であれ、(訓練中の徒弟以外の)18歳以上のすべての従業員に適用されます。最低賃金率は、インフレーション率および労働生産性を考慮して決定されることとされています。2010年からは前年のインフレ率および労働者の平均給与の上昇率の半分にもとづいて1月1日に自動的に上昇します。もし年度途中に2%を超えるインフレ率が生じたときには、自動的に引き上げられます。その他に政府は最低賃金を引き上げることを決定することも可能です。(E. Caroli and J. Gautie, Low Wage Work in France, Russell Sage Foundation, 2008 を参照。)
こうした制度のために、フランスでは最低賃金が国全体の平均給与(メディアン)の60%を超えるに至りました。通常の統計では、低賃金労働というのは、平均(メディアン)の50%以下ですから、一応、フランスの最低賃金水準はそれを超えていることになります。これは日本の最低賃金の水準が40%に達していないのとは大きく異なっています。
2011年の数字では、フランスの最低賃金率は9ユーロでしたから、現在の為替相場では1260円/時間ほどということになります。
さて、最低賃金の引き上げるというと必ずでてくるのは、それが失業の増加をもたらすという反論です。
たしかに企業家が賃金を引き上げたくないと思っているということなら、その通りでしょう。しかし、希望と現実は異なります。
むしろ近年、失業は「マーストリヒト条約」の要請するマネタリスト・デフレ政策とその後の金融危機によって景気が悪化し、有効需要=生産が低下した時にこそ増加しています。もちろん景気が悪化しても、投資と技術革新、労働強化によって労働生産性は上昇します。ですから労働需要は2つの要因で縮小し、失業者が増えるという結果になっています。
往々にして賃金の引き上げが失業をもたらすと主張する人は、何故か(もちろん理由は分かっています)マーストリヒト条約についても、金融資本主義のもたらす金融危機・景気後退についても言及しない傾きがあります。
その上、実際には、フランスの国内でも高賃金の地域・県で失業率(9%以下)がかなり低く、低賃金の地域・県で失業率がかなり高い(12%以上)という傾向があります。これなどどのように説明するのでしょか?
「何があろうとも高賃金は雇用を縮小させる。理論も研究もそのように言っている。」彼らは批判にはまともに答えずに、別の、批判される危険性のない人々に、こっそりと理論や実証結果がそうなっていると語るだけです。
OECDの『職の研究』(1994年)もそうでした。しかし、OECDの内部からも批判され、また多くの国の研究者によって理論的・実証的に批判されると、あれはOECDの公式見解ではなかった(2006年)と言い訳する始末です。労働条件の悪化をもたらしておいて、失業率を引き下げるという結果を実現することもない。困ったものです。
2014年2月23日日曜日
補足 貧困を許容している日本の最低賃金
昨日、日本の最低賃金率が世界的に低い水準にあることを書きましたが、そのとき平均(中位)の賃金率に対する割合で40%を大きく切っている図を示しました。
ところが、通常、(相対的)貧困の指標として平均の50%以下という基準が利用されていることはよく知られています。つまり、日本の最低賃金は貧困線以下に設定されているということになります。
これも前に書きましたが、たしかに旧来は夫が大黒柱として稼ぎ、妻がパート・バイトで家計を補充するというパターンが広まっており、この家計補充型では問題が少なかったことは間違いないと思います。しかし、男女間のあるべき関係、社会的公正・正義の立場からは大いに問題がありました。また。また近年、非正規雇用者が増加してくるとともに問題はかなり深刻になってきました。
日本の政治家、それに国民自身の多くがこの問題に消極的にしか取り組んでこなかったことをきわめて残念に思います。
ちなみに、外国では、宗教者が運動で大きな役割を演じているようです。例えば米国では、プロテスタント、カソリック、イスラームを問わず、牧師・司祭、指導者が公正・正義をこの世に実現しようとして(もしかすると、脱宗教化の流れの中で、人々を宗教にとどめようとしてというのが本当かもしれませんが、理由はともかく)運動に加わり、政治家や企業者を説得し、生活保障賃金を実現しようとしています。
これに対して日本の仏教徒は概して個人の安心立命に閉じこもり、社会活動には消極的というしかありません。仏教が葬式仏教になり、影響力を失うのもさもありなんと一人で心の中で納得しています。
ところが、通常、(相対的)貧困の指標として平均の50%以下という基準が利用されていることはよく知られています。つまり、日本の最低賃金は貧困線以下に設定されているということになります。
これも前に書きましたが、たしかに旧来は夫が大黒柱として稼ぎ、妻がパート・バイトで家計を補充するというパターンが広まっており、この家計補充型では問題が少なかったことは間違いないと思います。しかし、男女間のあるべき関係、社会的公正・正義の立場からは大いに問題がありました。また。また近年、非正規雇用者が増加してくるとともに問題はかなり深刻になってきました。
日本の政治家、それに国民自身の多くがこの問題に消極的にしか取り組んでこなかったことをきわめて残念に思います。
ちなみに、外国では、宗教者が運動で大きな役割を演じているようです。例えば米国では、プロテスタント、カソリック、イスラームを問わず、牧師・司祭、指導者が公正・正義をこの世に実現しようとして(もしかすると、脱宗教化の流れの中で、人々を宗教にとどめようとしてというのが本当かもしれませんが、理由はともかく)運動に加わり、政治家や企業者を説得し、生活保障賃金を実現しようとしています。
これに対して日本の仏教徒は概して個人の安心立命に閉じこもり、社会活動には消極的というしかありません。仏教が葬式仏教になり、影響力を失うのもさもありなんと一人で心の中で納得しています。
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