飯田・雨宮『脱貧困の経済学』(ちくま文庫)を読みました。第3章(「経済成長はもういらない」でほんとうにいいのか?)について少し書きます。
私の以前のブログとホームページでも説明しましたが、私自身は経済成長論者ではありません。しかし、本当の事を言うと、経済成長はもういらないという人に是非とも考えて欲しい重要な点が一つあります。それは同著でも言及されているように、一定の経済成長率(例えば2%)が達成されないと、労働需要が減り、失業者が増えるという「事実」です。
いま「事実」と書きましたが、それにはきちっとした根拠があります。ケインズやカレツキの問題提起を受け継いでいるポスト・ケインズ派の経済学者にとっては、ごく初歩的な事ですが、企業は売れるという見込み(つまり有効需要の期待)のもとに生産します。そして、その産出物は、消費財と生産財(資本財)に区分されます。これは、マクロ経済学の恒等式、Y=C+I でおなじみです。
ところが、I (投資)は、単に需要側から見ればよいというわけではありません。投資は、供給側から見ると資本装備の質(内容)と量を変えるという性質を持っています。いま簡単のために質的な変化については考えずに、量的な変化だけを考えることにします。また投資は減価償却費 D を含まない純投資と考えます。あるいは同じことですが、粗投資を I+D で示すことにします。すると期首の固定資本ストック K は、期末には K+I に増加します。もし資本係数 σまたはその逆数の資本効率 λ が一定ならば(実際アメリカの経済学者 E.Domar はそれらが安定的な数字であることを実証しました)、社会全体の生産力は I/K (資本蓄積率と言います)に等しいペースで拡大することになります。その上、もし企業によるリストラや労働者の技能の向上等のために一人あたりの労働強度が上昇すれば、資本効率も労働の生産性ももっと上昇します。
つまり経済がまったく成長しなくなったり、停滞しても、社会の生産力は成長し、その効果により労働力が過剰になるのです。そこで、もし一人あたりの労働時間が一定ならば、必ず特定の人が失業者となります。逆に言うと、ゼロ成長や経済停滞の条件下で失業者が増えないようにするためには、働いている人がワークシェアリングしなければなりません。
2002年から2008年まで日本経済は史上最長の「景気拡張期間」を経験しました。しかし、景気拡張は雇用を拡大する好況を意味するわけではありません。その期間中の平均成長率は1%程度に過ぎませんでした。いまや私の上の説明を理解した人は、それでいいじゃないかと言えないはずです。もちろん「失業は失業した人の責任だ」などとも言えなくなります。
第3章における飯田氏の議論(特に金融政策によってなんとかしようという議論など)には、承服しかねるところもない訳ではありませんが、平均して1%の成長率が雇用の観点からみて低すぎるという部分は、正しい議論といえるでしょう。
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