2017年7月13日木曜日

安倍氏の経済政策の経済的帰結 9 雇用者報酬は何故さがったのか? なぜアベノミクスは雇用者報酬を上げることが出来ないのか?

 1998年から雇用者報酬(以後賃金と言う)が下がったのはなぜか、またこの賃金低下は名目GDPの低下とどのように関係しているのか? これはアベノミクスが果たして有効な政策でありうるかという問題と密接に関係している。またそれは、アベノミクスがなぜ雇用者報酬を上げることができなかったかという問題とも関係している。そこで、多少まわり道でも、この問題を取りあげなければならないだろう。

 まず第一の問題は、なぜ賃金が1998年から低下しはじめたか、であるが、もちろん、現実には多様な要因が作用しており、必ずしも単純ではない。
 しかし、一つの大きい事情・要因が作用していたことは疑いない。その事情・要因は、日本政府の経済政策と密接に関連しているが、とはいえ、責任すべてが政府の政策に帰されるわけではない。
 この点は、以前厚生労働省で「白書」の作成に尽力した石水嘉夫氏の『ポスト構造改革の経済思想』(新評論、2009年)の第一部第三章「構造改革と日本社会」でも説明されているので、詳しくはそちらを参照してもらいたいが、ある政策的な意図をもって実施されたことである。ごく簡単にかいつまんで説明しよう。
 一つは、ここで問題にしている転換は、日本にどどまらず「自由主義経済諸国の雇用戦略」として実施された「雇用戦略」に関係している。
 1994年にOECDは、「職の研究」(Job Study)を明らかにし、その中で高賃金と平等が職の喪失(失業のこと)をもたらすという「相関」があるという想定の下に、不平等と高賃金の抑制を勧告した。私はそのような相関は存在しないと考える経済学者の一人であり、世界の良識的な経済学者も、当然ながら、そのような思想に対して激しく批判した。もちろん社会科学的・経済学な研究にもとづいた批判である。またきわめて異例のことだが、OECDのTUAC(労働組合諮問委員会)も反対声明をあげた。しかし、1996年には、EDRCによる対日審査が行われ、それは長期雇用、年功序列型賃金などの日本型雇用慣行を激しく非難し、日本政府の雇用政策に変更をせまった。具体的には、就業形態の多様化と労働移動などを促進することなどである。この就業形態の多様化が何を意味するかは、敏感な人ならすぐわかるだろう。要するに、派遣労働をはじめとする低賃金の非正規雇用を増やせということや、解雇規制をなくす方向に変えよというものである。この対日審査はきわめて問題の多いものであったが、それについての詳細は他日を期そう。
 もう一つ注目されるのは、日本国内でもそれに応じた動きが経営者団体の中にあったことである。1995年日経連は、『新時代の日本的経営』なるプログラムを公表した。それは一言でいえば、雇用の領域における自由市場の優位を詠うものであり、要するに「雇用流動化」論に他ならなかった。
 これに対して、たしかに連合は、そこにもられている「雇用流動化」が総人件費を抑制することをねらうものであるとの視点から、反対の立場を表明した。
 だが、この賃金論のレベルでの反対は、「構造改革」論による日本経済の活性化という、かなりキャッチーな宣伝の前に無力であり、日本の政治と社会は、一挙に雇用流動化論に向かう。労働者派遣事業の自由化などの方向に突き進むことになったのである。もちろん、この動きは金融自由化や財政構造改革(財政の領域における自由市場化!)への動きと連動していた。
 さて、こうした動きの背景にあったのが、既に最初に説明した新古典派経済学、すなわち新自由主義政策を基礎づける理論だった。ここで、前に述べたこと、つまり新古典派経済学では、高賃金は失業を招くため(言い方を変えると、失業があるということは、賃金が高すぎることを意味するため)失業をなくすためには、賃金を引き下げるべきであるという教義があることを思い出して欲しい。この理論は、ポスト・ケインズ派経済学によって根底的に批判されていたが、この時期にふたたび台頭していたのである。
 社会というものは奇妙なものであり、ある時期にある教義が流行ると、社会全体がその虜になり、そこから抜け出すことが難しくなる。私など、大学でいくらそれが現実離れした理論にすぎないと教えても、教えを受ける学生側が社会(親、新聞・テレビ・ラジオなどのマスコミ、大学における新古典派の講義など)から影響を受けているため、それに流され、聞く耳を持たなくなる。ちなみに、その状況が大きく変わってきたのが、2008年頃からであり、この頃から構造改革に疑問を持つ学生が増えてきた。
 この他に、日本企業の中には、高齢に達し、高賃金の「団塊の世代」がまだ在職しており、それが人件費を引きあげているため、人件費を減らしたいと考えている企業が多く、理論や「雇用流動化」の議論とはかかわりなく、人件費を削減したいと考えていたという事情もある。さらに、1990年代の金融危機の中で、不良債権を処理しなければならず、利潤の相当部分をそのためにあてていた企業があったという事情も指摘できよう。
 こうして1997年橋本首相によって財政構造改革が実施され、日本経済が前年度の3%ち近い成長率から一気に転落するとともに、非正規戸雇用の多用による総賃金の引き下げが開始されたのである。
 しかし、賃金の引き下げは、個別企業の観点からは費用負担を減らし、企業経営を健全化するように見えても、社会全体の立場から見ると、総費用の縮減が日本人全体の家計の消費需要を大幅に抑制し、不況や景気後退、停滞を招くことになる。
 以上が1998年から生じた停滞の歴史的背景である。たしかに、こうした動きは、2003年から2006年にかけて米国の住宅・金融バブルが生じるとともに、日本からの対米輸出の増加をもたらし、一時的に名目GDPの増加をもたらした。しかし、それもつかの間のことであり、2008年のリーマンショックは、ふたたび世界全体を奈落の底に落としてしまったのである。

 このように見てくるならば、単に「異次元の金融緩和」によって長期停滞が克服できるといった筋合いのものでないことがわかるだろう。そこには、労働市場における変調が作用していたのである。
 では、アベノミクスは、このような労働市場のありかたを変えることができたのであろうか? これが安倍首相が避けてか、知らずしてか決して問うことのない次の問いとなる。
 

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